20世紀・シネマ・パラダイス
アンドレイ・タルコフスキー
Andrei Tarkovsky
1932-1986 (ソ連)
◆
代表作
僕の村は戦場だった
Ivan's Childhood
(英題)
(1962年/ソ連)
惑星ソラリス
Solaris
(英題)
(1972年/ソ連)
ストーカー
Stalker
(
英題)
(1979年/ソ連)
ノスタルジア
Nostalghia
(1983年/伊・ソ)
サクリファイス
The Sacrifice
(英題)
(1986年/スウェーデン)
◆
「映像の詩人」と称せられた旧ソ連の名匠
・
1932年
、 イヴァノヴォ州生れ。幼少の頃に著名な詩人だった父親が家を出たため母子家庭となり、息子を芸術家にしたい母親の意向で、音楽や絵画を学んで育った。
東洋学単科大学に入学するも、ジャズ等の西洋文化にかぶれて素行不良 となり、1年半で中退した。
(右の写真) ピアノを弾いている子供の頃のタルコフスキー
・1954年、名門の全ソ国立映画大学に入学。3年生の時に同級生と共同で 『殺し屋』
(1956年)
を監督。ヘミングウェイの同名の短編小説を映画化した作品で、タルコフスキーは役者として出演もした。
同窓のアンドレイ・コンチャロフスキーと親しくなり、彼と共同で執筆した脚本 『ローラーとバイオリン』
(1960年)
を卒業制作として監督。同作はニューヨーク国際学生映画コンクールで第1位となった。
(左の写真) アンドレイ・コンチャロフスキー(右)と
*
アンドレイ・コンチャロフスキー … 黒澤明原案の 『暴走機関車』 (1985年) 等の監督。タルコフスキー監督の『僕の村は戦場だった』、
『アンドレイ・ルブリョフ』 にも脚本家の1人として携わった。
・初の長編 『僕の村は戦場だった』
(1962年)
がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞。ベストセラー小説 「イワン」 の映画化作品で、当初の監督の仕事ぶりに不満だった映画会社から代役として白羽の矢を立てられたタルコフスキーは、イワン役のコーリャ・ブルリャーエフ
(後にニコライ・ブルリャーエフに改名)
と会って、監督をする決意をしたという。
(右の写真) 『僕の村は戦場だった』 コーリャ・ブルリャーエフ
・5年の歳月をかけた 『アンドレイ・ルブリョフ』
(1967年)
が完成。15世紀ロシアの伝説の聖像画家の生涯を描いた3時間を超える歴史大作だが、ソ連国内では ‟反愛国的” とされて5年間上映されなかった。
1969年のカンヌ国際映画祭で上映され、国際映画批評家連盟賞を受賞した。
(左の写真) 『アンドレイ・ルブリョフ』 撮影時。主演のアナトリー・ソロニーツィン(左)と
・『惑星ソラリス』
(1972年)
がカンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを受賞。SF映画の概念を一変させたと称された傑作で、タルコフスキー監督は国際的な名声を不動のものとした。
未来都市のシーンは東京で撮影された。
(右の写真) 『惑星ソラリス』 撮影時。
ドナタス・バニオニス(左)、ナターリヤ・ボンダルチュークと
・自伝的な作品 『鏡』
(1975年)、
立ち入り禁止地域 ‟ゾーン” に入った3人の男たちの心理を描いたSF映画 『ストーカー』
(1979年)
を発表。
『鏡』 撮影時。マルガリータ・テレホワと
『ストーカー』 撮影時
。
アレクサンドル・ガイダノフスキー(左)と
・1980年、イタリアで映画界の最高の賞であるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞のルキノ・ヴィスコンティ賞を受賞。
イタリアで撮った 『ノシタルジア』
(1983年)
が、 カンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞、監督賞、エキュメニカル審査員賞を受賞。
(左の写真) 『ノスタルジア』 撮影時。オレーグ・ヤンコフスキー(左)と
・1984年、芸術家としての自由を求めてソ連からの亡命を宣言。
スウェーデンで撮った 『サクリファイス』
(1986年)
が、 カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリ、国際映画批評家連盟賞、エキュメニカル審査員賞、芸術特別貢献賞を受賞。英アカデミー賞の外国語作品賞も受賞した。
(右の写真) 『サクリファイス』 撮影時。左から、タルコフスキー監督、
スーザン・フリートウッド、
スヴェン・ニクヴィスト
(カメラマン)、
エルランド・ヨセフソン
・『サクリファイス』 撮影時に末期ガンであることが判明し、撮影後、パリで病床に臥した。母国ではゴルバチョフ書記長によるペレストロイカ (改革) が進み、タルコフスキーの名誉回復が宣言され、帰国を認める声明が出されたが、
1986年
、パリで他界した。享年
54歳
。
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