20世紀・シネマ・パラダ
イス
◆ エイゼンシュテイン監督の不朽の名作
第1章 人々とうじ虫
1905年、反政府のデモやストライキに揺れるロシア帝国。 |
ロシア艦隊の戦艦ポチョムキンにおいても、日頃から不当な扱いを
受けている水兵たちに不満が積っていた。「全ロシアの労働者が立ち上がった…。俺たち水兵も革命の前線に立つべきだ」
水兵のワクリンチュクが仲間に訴えていた。 |
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6月14日の朝。水兵たちのスープ用の食肉にうじ虫が湧いてい
た。
艦医や下士官は、「塩水で洗い流せば大丈夫だ」と問題にしない。
水兵たちは腐った肉で作られたスープを拒否した。 |
第2章 甲板上のドラマ
食後。司令官が水兵たちを威嚇した。「スープに不満な者は罰として帆桁に吊るす」。
水兵たちは抵抗を示すために砲塔へ集合したが、遅れた約20名が下士官に取り押さえられてしまった。
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水兵たちが司令官昇降口へ逃げようとするのを目撃した司令官は激怒し、彼らの銃殺を命じ
た。水兵たちは帆布を被せられ、衛兵隊が銃を向けた…。
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銃殺の直前、ワクリンチュクが叫んだ。「兄弟!誰を撃つ気だ」。衛兵隊は銃
を下ろした。
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ワクリンチュクの号令で、水兵、衛兵隊が謀反に立ち上がった。下士官等は次々に海へ放り投
げられ、反乱は水兵たちが勝利した。しかし、リーダー格のワクリンチュクが下士官に撃たれ命を落とした。彼の遺体はオデッサ港に運ばれた。
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翌朝のオデッサ港。
町の人々が、安置されたワクリンチュクの遺体に気付いた。遺体には、「ひとさじのスープのために」、とのメモ書きが添えられていた。
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噂を聞いた人々が続々と港に集まって来た。
「圧政者に死を 吸血鬼に報復を … 戦艦ポチョムキン乗員一同」、とのメッセージが読み上げられた。オデッ
サの人々も、長年、圧政に苦しめられていた。オデッサ港に、「専制政治打倒」のシュプレヒコールが沸き起きた。
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市民の代表が戦艦ポチョムキンを訪れ、「全ロシアの労働者と共に立ち上がろう」
と水兵たちに呼びかけた。ポチョムキンはマストに革命旗を掲げ、港に集まった人々はポチョムキンに声援を送った。
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第4章 オデッサの階段
オデッサの市民はヨットを繰り出して、食糧などの救援物資をポチョムキンに届けた。オデッサ港の階段は、ポチョムキンを見守る市民たちで溢れていた。
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突然、銃を持ったコザック兵が現れ、市民たちに向かって発砲し始めた…。
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コザック兵による市民虐殺に気付いたポチョムキンは、政府軍の司令部でもあるオデッサ劇場
に砲弾を撃ち込んだ…。
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ポチョムキンでは夜まで議論が続いた。市民のためにも上陸するべ
きだ、との意見もあった。しかし、海軍の艦隊が追跡してくるのは間違いない。上陸せずに、艦隊迎撃に備えることで議論がまとまった。
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不安と緊張の夜を迎えた。交代で見張りを続けるなか、水平線上に艦隊を発見した。
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総員集合、戦闘準備のラッパが吹かれた。ポチョムキンは全速前進、正面突破を図る。艦隊は
射程距離内に入った。
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迫り来る艦隊。「我々に、合流せよ」との信号を送
るポチョムキン。果たして、戦艦ポチョムキンとその乗員たちの行く末は…。
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◆ 鑑
賞メモ
・ロシア第一革命20周年を記念して製作されたプロパガンダ映画。
戦艦ポチョムキンの反乱は実際にあったことだが、オデッサの階段での虐殺など、事実と異なる内容も多い。
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・セルゲイ・
M・エイゼンシュテイン監督が、『ストライキ』(1924年)の次に撮った2本目の長編映画。
モンタージュ理論を応用した映像は、世界中の映像作家に多大な影響を与え、映画史に不滅の名を残すこととなった。
(右の写真)エイゼンシュテイン監督 |
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・オデッサの階段のシーンは、「映画史上最も有名な6分間」と
言われていた。
ブライアン・デ・パルマ監督が、『アンタッチャブル』(1987年)の中で、乳母車が階段を落ちるシー
ンを入れてオマージュを捧げている。乳母車の赤ん坊は無抵抗な弱者の象徴である。 |
・終盤の手に汗握る展開、感動的なクライマックス。映画ファンなら1度は観ておきたい古典
的名作。 |
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