20世紀・シネマ・パラダイス
セルゲイ・M・エイゼンシュテイン
Sergei Mikhailovich Eisenstein
1898-1948(ソビエト)
◆
代表作
ストライキ
Stachka
(1925年/ソビエト)
戦艦ポチョムキン
Bronenosets Potyomkin
(1925年/ソビエト)
アレクサンドル・ネフスキー
Aleksandr Nevskiy
(1938年/ソビエト)
イワン雷帝
Ivan Grozny
(1944年/ソビエト)
◆
モンタージュ理論の実践により映画史に不滅の名を残す
・
1898年
、ロシア帝政下のラトビア生れ。ロシア革命時に赤軍に入隊し、ポスター画家として活動。1920年、モスクワの労働者劇場で背景画を描き、翌1921年から名演出家メイエルホリドのもとで演劇を学んだ。その後、ドイツの『ドクトル・マブゼ』
(1922年/監督:
フリッツ・ラング
)
のソビエト公開版の再編集を手がける等、映画の仕事に携わるようになった。
・『ストライキ』
(1924年)
を監督。同じソビエトの映画監督レフ・クレショフが唱えた
モンタージュ理論
を応用、実践してみせた。
「偉大なる無表情」 バスター・キートンで、クレショフ効果を確認。
腹ペコのキートン
悲しみのキートン
<
モンタージュ理論>
異なる複数の映像を組み合わせることで新たな意味が生まれるというもの。
この技法により、製作者の意図をより強く観衆に訴えることができ、映像表現に進化をもたらした。
(右の写真)ジャーナリストの内藤民治(一番左)、エイゼンシュテイン
(左から3番目)。1924年、モスクワにて
エイゼンシュテインは日本語を習っており、漢字の特色が彼のモンタージュ理論にヒントを与えた。すなわち、「口」+「犬」=「吠える」というように、文字を組み合わせることで新たな意味を持つ文字が生まれること。
(左の写真)映画監督の衣笠貞之助と。1929年、モスクワにて
・ロシア第一革命20周年を記念して製作を依頼された
『戦艦ポチョムキン』
(1925年)
を監督。
「オデッサの階段」のシーンは、
「
映画史上最も有名な6分間
」
と言われ、世界中の映像作家に多大な影響を与えた。
(右の写真)「戦艦ポチョムキン」撮影時。メガホンを手にしているのがエイゼンシュテイン
・10月革命10周年を記念した『十月
〜 世界を揺るがした10日間
』
(1928年)
を監督
。
その後、『全線』を完成させたが、共産党に再編集を命じられ、『古きものと新しいもの』
(1929年
)として公開された。
(左の写真) 『十月 〜 世界を揺るがした10日間 』
・1929年、トーキーの研究という名目でハリウッドへ。
チャールズ・チャップリン
や、ウォルト・ディズニーとも親交を深めた。
(右の写真)チャップリン(右)と
マレーネ・ディートリッヒ
ジョセフ・フォン・スタンバーグ
(右)と
(写真@)
(写真@)左から、グリゴリー・アレクサンドロフ (『ストライキ』、『十月』の脚本家。『十月』の共同監督)、エイゼンシュテイン、ウォルト・ディズニー、エドゥアルド・ティッセ
(『ストライキ』、『戦艦ポチョムキン』のカメラマン)、ミッキーマウス
(手前)
・ 1930年、パラマウント社と契約し、ジョージ・バーナード・ショーの戯曲「武器と人」、セオドア・ドライサーの小説「アメリカの悲劇」などの映画化を試 みるも実現せず。その後、左翼系作家アプトン・シンクレアの出資で、『メキシコ万歳』の製作に入ったが、撮影の遅れによりコストがかさみ、シンクレアに解 雇された。
・1932年帰国。モスクワの映画学校で教師を務めた。
・『アレクサンドル・ネフスキー』
(1938年)
を監督
(右の写真)『アレクサンドル・ネフスキー』撮影時。エイゼンシュテイン監督
(右)
・1944年、全3部作の『イワン雷帝』の1部を完成。1946年に2部を完成させたが、スターリンに上映禁止とされた。
*
エイゼンシュテイン、スターリンとも亡くなった後の1958年に公開された。
・
1948年
、
50歳
で他界。『イワン雷帝』の3部は未完となった。
・1979年、『メキシコ万歳』のフィルムがソビエトに渡り、盟友グレゴリー・アレクサンドロスの手によって再編集されものが公開された。
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