20世紀・シネマ・パラダイス

Megaphonebar
Josef von Sternberg

ジョセフ・フォン・スタンバーグ

Josef von Sternberg

1894-1969 (オーストリア)

Megaphonrbar

   代表作

Underworld
 暗黒街
 Underworld
  (1927年/アメリカ)
The Docks of New York
 紐育の波止場
 The Docks of New York
   (1928年/アメリカ)
Der Blaue Engel
 嘆きの天使
 Der Blaue Engel
  
(1930年/ドイツ)
Morocco
 モロッコ
 Morocco
  (1930年/アメリカ)
Dishonored
 間諜X27
 Dishonored
  (1931年/アメリカ)
Shanghai Express
 上海特急
 Shanghai Express
 (1932年/アメリカ)

    マレーネ・ディートリッヒを世に送り出す

 ・1894年、オーストリアのウィーン生れ。本名はJonas Stemberg 。7歳の時に家族でアメリカへ移住。一時期ウィーンへ戻ったが、14歳の時に再びアメリカへ。
 ニューヨークの公立高校を中退し、ニュージャージー州の映画会社でフィルム修繕の仕事をするようになり、その後、助監督に。『By Divine Right (1924年) の助監督をしている時に、俳優エリオット・デクスターの助言で、名前に貴族の称号‘VON’を付けるようになった。

 ・出演者の資金援助や募金で 『救ひを求むる人々』 (1925年) を製作・脚本・監督。大手スタジオに配給を断られたスタンバーグはフィルムをチャップリンの自宅へ持ち込み、連日懇願し続け、やっと観てもらえたという。
 チャップリンは作品を気に入り、自身が共同経営者であるユナイテッド・アーチスツ社から配給した。
  (右の写真) 『救ひを求むる人々』 ジョージア・ヘイル(左)とジョージ・K・アーサー
The Salvation Hunters

 ・MGM社と契約したが、『新妻の秘密』 (1925年) は途中降板し、『陽炎の夢』 (1926年) 撮影中に解雇された。

 ・チャップリンがエドナ・パーヴィアンスの復帰作として製作した 『かもめ 海の女性』 (1926年) の監督に抜擢されたが、完成した作品にチャップリンが不満で未公開に。

 ・パラマウント社と契約。最初に撮った 『暗黒街』 (1927年) が大ヒットし、ギャング映画ブームの先駆けとなった。その後、ドイツの名優エミール・ヤニングス主演の 『最後の命令』、ギャング映画第2弾の 『非常線』、『紐育(ニューヨーク)の波止場』 (1928年)、ギャング映画第3弾で自身初のトーキー 『サンダーボルト』 (1929年) 等を監督。
Underworld-3 The Docks of New York
『暗黒街』 ジョージ・バンクロフトとイヴリン・ブレント 『紐育の波止場』 ベティ・カンプソンとジョージ・バンクロフト

Stemberg-4  ・世界的な名声を得たスタンバーグは、エリッヒ・ポマーに白羽の矢を立てられ、ドイツ映画初のトーキー 『嘆きの天使』(1930年) の監督としてドイツへ渡った。
 ベルリンの舞台に出演していたマレーネ・ディートリッヒを主役に抜擢し、作品は世界中で大ヒットした。
  (左の写真) 『嘆きの天使』 撮影時。マレーネ・ディートリッヒと

 ・マレーネ・ディートリッヒを同伴し、ハリウッドへ戻ったスタンバーグは、彼女を主演に 『モロッコ』 (1930年)『間諜X27』 (1931年)、『上海特急』、『ブロンド・ヴィナス』 (1932年)と、名作・傑作を立て続けに発表。
 『上海特急』はMGM社のオールスターキャスト作品 『グランド・ホテル』 を興行成績で上回り、その年全米で最大のヒット作に。
 ディートリッヒとのコンビで一時代を築き、『モロッコ』 と 『上海特急』 で2度アカデミー賞監督賞にノミネートもされた。
  (右の写真) マレーネ・ディートリッヒと
Sternberg-Dietrich-3

Sternberg-Dietrich  ・ディートリッヒとの関係は私生活においても親密なものであったと伝わっている。2人とも既婚者だったが、スタンバーグは夫人に訴訟を起こされ、1930年に離婚。

 ・マレーネ・ディートリッヒは私の創造物である というスタンバーグの有名な言葉がある。
 撮影では如何にディートリッヒを美しく撮るかに腐心し、その為に奥歯まで抜かせたという。
   (左の写真) マレーネ・ディートリッヒと

 ・名コンビでもマンネリ化は避けられず、『恋のページェント』(1934年)に引き続き、『西班牙(スペイン)狂想曲』 (1935年) も興行的に失敗作となった。
 短編ドキュメンタリー 『The Fashion Side of Hollywood(1935年) を最後に、パラマウント社はディートリッヒとのコンビを解消させ、会社とトラブルの多かったスタンバーグは解雇された。尚、クビを言渡しのはエルンスト・ルビッチ監督だった。
  (右の写真) マレーネ・ディートリッヒと
Stemberg-5

 ・その後、コロンビア社やRKO社で数本撮ったが精彩を欠いた。最後の監督作品は日本映画 『アナタハン』 (1953年) だった。
  *  1945年から1951年にかけて、太平洋の孤島アナタハンで共同生活をしていた女性1名、男性32名が、女性を巡り争い、
         次々に殺害されいくという実際にあった事件を映画化したもの。

 ・晩年はUCLA (カリフォルニア大学ロスアンゼルス校)の映画科で教師を務めた。

 ・1969年75歳で他界。

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