20世紀・シネマ・パラダイス
マレーネ・ディートリッヒ
Marlene Dietrich
1901-1992 (ドイツ/アメリカ)
◆
代表作
嘆きの天使
Der Blaue Engel
(1930年/ドイツ)
モロッコ
Morocco
(1930年/アメリカ)
間諜X27
Dishonored
(1931年/アメリカ)
上海特急
Shanghai Express
(1932年/アメリカ)
砂塵
Destry Rides Again
(1939年/アメリカ)
情婦
Witness for the Prosecution
(1957年/アメリカ)
◆
“百万ドルの脚線美”伝説のスーパースター
・
1901年
、ベルリン生まれ。本名は
Marie Magdalene Dietrich
.。
6歳の時に実父が病死し、義父は第1次世界大戦で戦死。以後、母親と姉の3人で生活していた。バイオリニストを目指し、国立の音楽大学に入学
(1919年)
したが、手首を痛めて断念。
1921年、ドイツ演劇界の第一人者マックス・ラインハルトの演劇学校に入学し、女優としての道を歩み始めた。
(右の写真)4歳頃のディートリッヒ
・『
So sind die Manner
』
(1923年)
で銀幕デビュー。以後、1929年までに10数本のサイレント映画に出演。1920年代は、映画と舞台の両方で活動していた。
芸名のマレーネは本名を組み合わせたもので、自分で考案した。
*
Mar
ie Magdal
ene
(左の写真)初の主演映画
『
Die Frau, nach der man sich sehnt
』
(1929年)
・1924年、映画の助監督ルドルフ・ジーバーと結婚し、長女マリアを授かった。
ジーバーとの生活はドイツ時代で終わったが、法的には彼が亡くなるまで夫婦だった。
(右の写真)夫のジーバー、娘のマリアと
・ベルリンの舞台に出演しているところを、
ジョセフ・フォン・スタンバーグ
にスカウトされ、ドイツ映画初のトーキー
『嘆きの天使』
(1930年)
のヒロインに。
作品は世界中で大ヒットし、彼女はスタンバーグ監督の求めに応じ、ハリウッドへ渡った。
尚、1931年に一度ベルリンへ戻り、娘マリアを連れてアメリカへ戻っている。
(左の写真)『嘆きの天使』
・スタンバーグ監督とのコ ンビによるハリウッド・デビュー作
『モロッコ』
(1930年)
も大ヒット。アカデミー賞主演女優賞にノミネートもされた。
ディートリッヒは人気スターの地位を確固たるものとし、パラマウント社によって、MGM社の看板女優
グレタ・ガルボ
の対抗馬として売り出されていった。
(右の写真)『モロッコ』
ゲーリー・クーパー
と
“百万ドルの脚線美”と謳われた
・スタンバーグ監督とのコンビで、
『間諜X27』
(1931年)
、『上海特急』、『ブロンド・ヴィナス』
(1932年)
と、名作、ヒット作を連発。
『上海特急』は、グレタ・ガルボ主演の
『グランド・ホテル』
を興行成績で上回り、その年の全米で最大のヒット作に。
スタンバーグ監督とのコンビで一時代を築いた。
(左の写真)『上海特急』
・スタンバーグ監督は、如何にディートリッヒを美しく撮るかに腐心し、ディートリッヒは自分の魅力を最大限に引き出してくれるスタンバーグ監督を信頼していた。
(右の写真)スタンバーグ監督と
・しかし、黄金コンビもマンネリ化は避けられず、『恋のページェント』
(1934年)
に引き続き、『西班牙
(スペイン)
狂想曲』
(1935年)
も興行的に失敗作となると、パラマウント社はコンビを解消させた。
スタンバーグ監督とは、私生活においても親密な関係だったと伝えられているが、パートナーシップを解消した。
(左の写真) 『西班牙狂想曲』
・『モロッコ』以来6年ぶりにゲーリー・クーパーと共演した『真珠の頸飾』
(1936年/監督:
フランク・ボーゼージ
)
は比較的好評だったものの、低迷気味の人気回復の決定打とまではならなかった。
(右の写真)『真珠の頸飾』 ゲーリー・クーパーと
・独立系の製作者
デビッド・O・セルズニック
に貸し出されて出演した『沙漠の花園』
(1936年)
は、自身初のカラー作品で、世界で初めて飛行機内で試写会を行い話題となったが、興行的には振るわなかった。
シャルル・ボワイエ
との再共演作『
I Loved a Soldier
』は、ディートリッヒが
ヘンリー・ハサウェイ
監督と衝突して、製作中止となった。
(左の写真)『沙漠の花園』 シャルル・ボワイエと
・イギリスの製作者
アレクサンダー・コルダ
に招かれて出演した『鎧なき騎士』
(1937年/監督:
ジャック・フェデー
)
に続き、『天使』
(監督:
エルンスト・ルビッチ
)
も興行的に失敗作となると、ディートリッヒはパラマウント社に契約を打ち切られてしまった。
『鎧なき騎士』
ロバート・ドーナット
と
『天使』 ハーバート・マーシャル(左)、
メルヴィン・ダグラス
(右)と
・全米の映画館主協会から、「
Box Office Poison
」
(入場券売り場の毒 = 客の取れないスター)
の1人として名指しもされた。時にディートリッヒ36歳。ライバルのグレタ・ガルボが引退した年齢である。キャリアの岐路に立たされていた。
・この時期、私生活においても暗い影が差していた。祖国ドイツにおいてヒトラー政権が成立
(1933年)
。ナチスは再三に渡り、ディートリッヒに帰国を 勧告。党の宣伝映画への出演料として破格の条件を提示されたが、ナチスを嫌っていた彼女は断固として拒否していた。1939年、アメリカの市民権を取得。祖国ドイツでは「売国奴」と非難された。
(右の写真)「パパ」と呼んでいた文豪アーネスト・ヘミングウェイと (1938年)
・2年ぶりの映画『砂塵』
(1939年)
で初の西部劇に挑んだのは、帰国を促すナチスへの‟NO”の意思表示でもあったと言われている。西部の女に扮したディートリッヒは好評で、人気回復のきっかけにもなった。
『砂塵』(1939年)
ジェームズ・スチュアート
と
『妖花』(1940年)
ジョン・ウェイン
と
・1940年、ナチス・ドイツがフランスを占領。アメリカへ渡って来た
ジャン・ギャバン
と出会い、恋仲に。
ディートリッヒは子供の頃にフランス語をマスターしており、ジャン・ギャバンの英語の教師でもあったという。
(左の写真) ジャン・ギャバンと
やがて、ギャバンは自由軍フランスに志願し、戦場へ赴き、ディートリッヒは前線の米軍兵士の慰問のためヨーロッパ各地を廻った。1944年、アルジェリアの地でギャバンと再会もした。
この兵士慰問活動は、ディートリッヒにとって生涯忘れることのない大切な思い出となったという。
・戦後、兵士慰問活動の功績により、アメリカの大統領自由勲章、フランスのレジオンドヌール勲章が授与された。
私生活では、ジャン・ギャバンとパリで新生活をスタートさせたが、長くは続かなかった。
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