20世紀・シネマ・パラダイス
ヘンリー・ハサウェイ
Henry Hathaway
1898-1985 (アメリカ)
◆
代表作
ベンガルの槍騎兵
Lives of a Bengal Lancer
(1935年/アメリカ)
死の接吻
Kiss of Death
(1947年/アメリカ)
ナイアガラ
Niagara
(1953年/アメリカ)
西部開拓史
How the West Was Won
(1962年/アメリカ)
ネバダ・スミス
Nevada Smith
(1966年/アメリカ)
勇気ある追跡
True Grit
(1969年/アメリカ)
◆
男性向け娯楽映画の傑作を監督
・
1898年
、カリフォルニア州生れ。1917年、俳優として短編映画に1本だけ出演。裏方に転じ、小道具係として働いていた。1924年から助監督を務めるようになり、『狼の唄』、『ヴァジニアン』
(1929年)
、
『モロッコ』
(1930年)
など、
ゲーリー・クーパー
の主演作に数多く携わった。
・西部劇『砂漠の遺産』
(1932年)
で監督デビュー。この作品が初の主役だったランドルフ・スコットとは、その後も7作品で組んだ。
(右の写真)『砂漠の遺産』 ランドルフ・スコット
・ゲーリー・クーパー主演の『ベンガルの槍騎兵』
(1935年)
が、アカデミー賞で作品賞、監督賞など6部門でノミネートされ、一流監督の仲間入りを果たした。
(左の写真)『ベンガルの槍騎兵』 ゲーリー・クーパー(右)
『永遠に愛せよ』(1935年)撮影時
アン・ハーディング
、ゲーリー・クーパー(右)と
『
海の魂』(1937年)撮影時
ジョージ・ラフト
(左)、ゲーリー・クーパー(中央)と
・ゲーリー・クーパーとは7作品で組んだ。助監督時代を含めると10作品以上になる。
クーパーのキャリアで最も多く組んだ監督であり、クーパーの葬儀では、
ジェームズ・ステュアート
らと一緒に棺を担いだ。
(右の写真)『暁の討伐隊』(1939年)撮影時
ゲーリー・クーパー(右)と
・パラマウント社初の全編テクニカラー作品『丘の一本松』
(1936年)
を監督。
『丘の一本松』(1936年)
ヘンリー・フォンダ
、
シルヴィア・シドニー
『丘の一本松』撮影時。後左から時計回りに、
ハサウェイ、ナイジェル・ブルース、フレッド・ストーン、
ヘンリー・フォンダ、
フレッド・マクマレー
・FBIの全面協力を得て製作された『Gメン対間諜』
(1945年)
は、セミドキュメンタリータッチで撮られた最初のフィルム・ノワール作品とされている。本作でニューヨーク映画批評家協会賞の監督賞にノミネートされた。
(左の写真)『Gメン対間諜』
ウィリアム・アイス(左)、レオ・G・キャロル
・オーディションで合格した新人
リチャード・ウィドマーク
がアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた『死の接吻』
(1947年)
、
マリリン・モンロー
が初めて「モンロー・ウォーク」を披露した『ナイアガラ』
(1953年)
など、フィルム・ノワールの傑作を撮った。
『死の接吻』(1947年)
リチャード・ウィドマーク(左)、
ヴィクター・マチュア
『ナイアガラ』(1953年)撮影時
マリリン・モンローと
『悪の花園』(1954年)撮影時。左から、ハサウェイ、
スーザン・ヘイワード
、ゲーリー・クーパー
『失われたものの伝説』(1957年)撮影時
ジョン・ウェイン
(左)、ソフィア・ローレンと
・西部開拓時代の50年を5話の連作で描いた超大作
『西部開拓史』
(1962年)
の第1話「河」 、第2話「平原」、第5話「無法者」を監督。
(右の写真)『西部開拓史』第1話「河」撮影時
ハサウェイ監督(左)、
ジェームズ・ステュアート
(手前右)
『エルダー兄弟』(1965年)撮影時
ジョン・ウェイン(左)、
ディーン・マーティン
(右)と
『ネバダ・スミス』(1966年)撮影時
スティーブ・マックイーン
(右)と
・ジョン・ウェインとは6作品で組んだ。
『丘の羊飼い』
(1941年)
、『失われたものの伝説』
(1957年)
、『アラスカ魂』
(1960年)
、『サーカスの世界』
(1964年)
、『エルダー兄弟』
(1965年)。
そして、『勇気ある追跡』
(1969年)
で、ジョン・ウェインに悲願のオスカー像をもたらした。
(左の写真)『サーカスの世界』撮影時
ジョン・ウェイン(左)、
クラウディア・カルディナーレ
と
(右の写真)『勇気ある追跡』撮影時
ジョン・ウェイン(左)と
・『
Hangup
』
(1979年)
が遺作となった。
・
1985年
、
86歳
で他界。
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