・1917年、オハイオ州生れ。本名はDino Paul Crocetti。両親ともイタリアからの移民だった。高校を中退し、就いた仕事が密造酒の運搬係、酒場の用心棒、違法カジノのディーラー …。腕っぷしに自信があり、‟Kid Crocett”のリング・ネームで賭博ボクシングのリングに立ったこともあった。イタリア系マフィアのファミリーになっていたかもしれない経歴だった。
・1948年6月20日、TVの新番組「Toast of the Town (町の人気者)」 の初回放映にゲスト出演。コンビの人気は全米規模となり、翌1949年には彼等のラジオ番組もスタート。2人の人気に目をつけた映画製作者のハル・B・ウォレスと契約を交わした。
ジェリー・ルイス(右)と
ハル・B・ウォリス(左)、ジェリー・ルイス(右)と
* 「Toast of the Town」 … 1955年9月に番組名が「エド・サリヴァン・ショー」に改題。エルヴィス・プレスリーやビートルズ、ローリング・ストーンズ等も出演した伝説のTV番組。尚、初回放映にはマーティインとルイスの他、ブロードウェイ・ミュージカルのロジャース(作曲家)&ハマースタイン2世(作詞家)のコンビもゲスト出演した。
・日本では‟底抜けコンビ”の呼称で親しまれたが、アメリカでは特にコンビ名はなく、‟Dean Martin and Jerry Lewis” と呼ばれていた。
本国での人気は抜群で、1951年のドル箱(マネー・メイキング)ス
ター・ベストテンに第2位で初登場すると、1952年(第1位)、1953年(第2位)、1954年(第2位)、1955年(第7位)、1956年(第6
位)と6年連続でランクインした。また、彼等のコミック本も創刊され、1952年から1957年までに40冊が発行された。
(右の写真)コミック本 「The Adventures of Dean Martin and Jerry Lewis 」の創刊号
ジェリー・ルイスJerry Lewis (1926−2017年)
アメリカで最も成功したコメディアンの1人。日本では、‟底抜けコンビ”解散後も彼の主演映画には‟底抜け”のタイトルがつけられた。上記のコミック本も、41冊目からは「The Adventures of Jerry Lewis」と改題され、1971年まで発行され続けた。
・歌手としても、ビートルズの「ア・ハード・デイズ・ナイト」を蹴落として全米No.1となった「誰かが誰かを愛してる」(1964年)等をヒットさせ、TV番組「The Dean Martin Show」(1965〜1974年)、「The Dean Martin Celebrity Roast」(1974〜1984年)のホストとしても人気を博した。
(左の写真)『大空港』(1970年) ジャクリーン・ビセットと