20世紀・シネマ・パラダ イス

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Montgomery_Clift

モンゴメ リー・クリフト

Montgomery Clift

 
1920-1966(アメリカ)

 愛称:モンティ(Monty

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     代表作

Red_River-3 The_Heiress
赤い河
Red River
(1948年/アメリカ)
女相続人
The Heiress

(1949年/アメリカ)
A_Place_in_the_Sun I_Confess
陽のあたる場所
A Place in the Sun
(1951年/アメリカ)
私は告白する
I Confess
(1953年/アメリカ)
Stazione_Termini From_Here_to_Eternity
終着駅
Srazione Termini
(1953年/伊・米)
地上より永遠に
From Here to Eternity
(1953年/アメリカ)
The_Misfits-3.
Judgment_at_Nuremberg-3
荒馬と女
The Misfits
(1961年/アメリカ)
ニュールンベルグ裁判
Judgment at  Nuremberg
(1961年/アメリカ)
 

     名監督たちがこぞって起用した2枚目俳優

 ・1920年、ネブラスカ州生れ。2卵性双生児だった。父親が銀行の副頭取という裕福な家庭で、子供たちを貴族のように育てたいという母親の意向により、欧州などを周 遊していたが、世界大恐慌の煽りで父親の銀行が破綻。優雅な生活は終わりを告げた。
 兄と姉は進学したが、学校が嫌いなモンティはフロリダ州のアマチュア 劇団に入り、「As Husbands Go(1933年)で初舞台に立った。
 (右の写真)子供の頃のモンティ
Montgomery_Clift-4

The_Mother_1939  ・母親の勧めでオーディションを受けて合格。14歳の時 に、トーマス・ミッチェル主演の舞台「Fly Away Home(1935年)でブロードウェイ・デビューを果たした。
 順調にキャリアを積み重ね、演技達者な2枚目の若手俳優として注目を集めるようになった。ハリウッドからの度重なるオファーを断り、約10年間、舞台で の活動に専念した。
 (左の写真)舞台「The Mother」(1939年)アラ・ナジモヴァと

 ・1946年、モンティの舞台を観たハワード・ホークス監督にスカウトされ、漸くハリウッドに進出。初出演作『赤い河』(1948年)は公開が遅れ、次に出演したフレッド・ジンネマン監督の『山河遥かなり』(1948年)の方が先に公開された。同作でいきなりアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。
Red_River-4
The_Search
『赤い河』(1948年)
 ジョン・ウェイン(左)と

『山河遥かなり』(1948年)
 イワン・ヤンドル(左)と


 ・一躍ハリウッドの新星となったが、大手スタジオとの専属契約を拒み、作品を厳選して出演 。ハリウッドの‟スター・システム”に抗し、新世代の俳優と評されるようになった。

 ・ウィリアム・ワイラー監督の『女相続人』(1949年)、ジョー ジ・シートン監督の『大空輸』(1950年)に出演。ビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り』(1950年)への出演を辞退した。
The_Heiress-2
/The_Big_Lift
『女相続人』(1949年)
オリヴィア・デ・ハヴィランド

『大空輸』(1950年)
 コーネル・ボーチャーズと


 ・ジョージ・スティーヴン ス監督の『陽のあたる場所』(1951年)で、2度目のアカデミー賞主演男優賞候補に。
 12歳年下のエリザベス・テイラーとは、当時のハリウッドで最も美しいカップルと評され、私生活においても固い友情で結ばれることとなった。
 (右の写真)『陽のあたる場所』 エリザベス・テイラーと
A_Place_in_the_Sun-2

 ・エリザベス・テイラー曰く、「モンティがもっと多くの映画に出演していたら、最大 のスターになっていたでしょう」。フレッド・ジンネマン監督の『真昼の決闘』(1952年)への出演を辞退。

I_Confess-2  ・アルフレッド・ヒッチコック監督の『私は告白する』(1953年)で2年ぶりに銀幕復帰。同年、ヴィットリ オ・デ・シーカ監督の『終着駅』、フレッド・ジンネマン監督の『地上より永遠に』も 公開され、『地上より永遠に』で3度目のオスカー候補に。尚、ジョージ・スティーヴンス監督の『シェーン』(1953 年)への出演を辞退した。 
 (左の写真)『私は告白する』 アン・バクスター

Stazione_Termini-2
From_Here_to_Eternity
『終着駅』(1953年)
ジェニファー・ジョーンズ

『地上より永遠に』(1953年)
ドナ・リード

 ・1954年、『王妃デシレ』等、ハ リウッド映画のオファーを断り、出演料が遥かに安いオフ・ブロードウェイで、チェーホフ作の「かもめ」に出演。ハリウッドでは異端児と見なされるようになった。
 * 『王妃デジレ』 … マーロン・ブランドが出演
 (右の写真)舞台「かもめ」ジュディス・イヴリンと
The_Seagull-2

 ・30代から慢性の大腸炎を患い、薬を服用していたという。そんなことも影響したのか、 「かもめ」に出演した後、舞台や映画から遠ざかってしまった。

 ・モンティを復帰させたのはエリザベス・テイラーだった。エドワード・ドミトリク監督の『愛情の花咲く樹』(1957年)での共演者にモンティを指名した。

Montgomery_Clift_Car_Cras
 ・1956年5月、約2年ものブランクを経て撮影に臨んでいたモンティは、エリザベス・テイラー宅でのパーティーからの帰路で自動車事故を起こしてしまっ た。飲酒の上での居眠り運転だったとされている。
  事故車の中からモンティを救出したのは、急報を受けて駆けつけたエリザベス・テイラーだった。咽喉に詰まっていた折れた歯を取り出して窒息から救ったという。
 (左の写真)事故で大破したモンティの車

 ・モンティは顔面骨折の大怪我を負い、整形手術と2ヶ月間のリハビリを経て撮影に復帰したが、顔の一部の神経が麻痺して動かなくなっていたという。
 (右の写真)『愛情の花咲く樹』 エリザベス・テイラーと
Raintree_County

 ・当時、モンティの好敵手と見なされていたのがマーロン・ブランド。2人は同郷(ネブラスカ州オマハ生)で友人でもあった。エドワード・ドミトリク監督の『若き獅子たち』(1958年)で共演したが、一緒のシーンはなかった。
Lonelyhearts
The_Young_Lions
『孤独の旅路』(1958年)
マーナ・ロイ

『若き獅子たち』(1958年)
 リー・ヴァン・クリーフ(左)、ディーン・マーティン(中央)と


 ・ジョセフ・ L・マンキーウィッツ監督の『去年の夏、突然に』(1959年)エリア・カザン監督の『荒れ狂う河』(1960年)に 出演。事故後は痛み止めの薬も服用するようになり、撮影に支障をきたすこともあったという。ドラッグとアルコールにより心身ともに蝕まれていったとされて いる。
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『去年の夏、突然に』(1959年)
キャサリン・ヘップバーン、エリザベス・テイラー(手前)と

『荒れ狂う河』(1960年)
 リー・レミックと


 ・ジョン・ヒューストン監督の 『荒馬と女』(1961年)に出演。やはりドラッグ中毒だったマリリン・モンローが、「私 より(薬の服用が)ひどい人に初めて会った」と語ったという。それでも演技にかける情熱は失わず、スタンリー・クレイマー監督の 『ニュールンベルグ裁判 』(1961年)にはノーギャラで出演し、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。
The_Misfits
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『荒馬と女』(1961年)
マリリン・モンローと

『ニュールンベルグ裁判』(1961年)

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 ・ジョン・ヒューストン監督と再び組んだ『フロイト/隠された欲望』(1962年)では、精神分析学の権威ジークムント・フロイトを演じたが、モンティのせいで撮影が遅延し、予 算超過になったとユニヴァーサル社から提訴されてしまった。
 トラブル・メーカーとの評判が立ってしまい、ハリウッドから声が掛からなくなり、ラジオやTVに出演した。
 (左の写真)『フロイト/隠された欲望』 スザンナ・ヨークと

 ・4年ぶりの劇場用映画となる仏・独合作の『ザ・スパイ』(1966年)に出演したが、作品が公開される前に亡くなってしまった。
 (右の写真)『ザ・スパイ』

L'espion

 ・1966年7月23日。モンティはニューヨークの自宅にいた。午前1時過 ぎ、付き人の看護師から、その夜にTV放映された『荒馬と女』を観たか尋ねられたモンティは、「まったく観ていないよ (Absolutely not )」 と答えたという。これが最後の会話となった。朝、看護師が起こしに行くと、ドアには鍵が掛けられ、返事がない。心配した看護師が庭から梯子で2階の部屋へ 入ると、ベッドの上で既に亡くなっていたという。死因は心臓発作。享年45歳だった。

 ・生きていればエリザベス・テイラーとの4度目の共演作となっていた『禁じられた情事の森』(1967年/ジョン・ヒューストン監督)は、マーロン・ブランドが代わりに出演した。


Youtube
 モンゴメリー・クリフト トリビュート動画。ナレータはエリザベス・テイラー



 ・45歳で亡くなるまで独身であったこともあり、その性的指向や薬物・アルコール中毒に 陥った原因について様々な説が飛び交っている。エリザベス・テイラーに失恋したというのもその1つ。また、両性愛者もしくは同性愛者だったとの説もある。


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< モンゴメリー・クリフト写真館 >

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