20世紀・シネマ・パラダ イス

Megaphonebar
Howard Hawks

ハワード・ ホークス

Howard Hawks

1896-1977 (アメリカ)

Megaphonrbar


 ◆ 代表作

Scarface
Twentieth Century
暗黒街の顔役
Scarface
(1932年/アメリカ)
特急二十世紀
Twentieth Century

(1934年/アメリカ)
Sergeant York Ball of Fire
ヨー ク軍曹
Sergeant York
(1941年/アメリカ)
教授と美女
Ball of Fire

(1941年/アメリカ)
To have and Have Not The Big Sleep
脱出
To Have and Have Not

(1944年/アメリカ)
三つ数えろ
The Big Sleep
(1946年/アメリカ)
Red_River-5 Rio Bravo
赤い河
Red River
(1948年/アメリカ)
リオ・ブラボー
Rio Bravo
(1959年/アメリカ)


    様々なジャンルで傑作を撮った娯楽映画の巨匠

 ・1896年、インディアナ州にて、製紙会社を営む裕福な家庭の長男として 生まれた。
 コーネル大学在学中に、祖父から買い与えられたレーシング・カーでアマチュア・カー・レースに参加。レーサー仲間のヴィクター・フレミングの紹介で、アルバイトとして、ダグラス・フェアバンクスメアリー・ピックフォードの映画の小道具係りなどを務めた。第1次世界大戦中は陸軍航空 隊に入隊し、飛行部隊の教官を務めた。
 
  ・戦後、映画界入りを決意し、製作担当、助監督などを経て、1922年にパラマウント社と脚本家として契約。2年間で60作近くの脚本を執筆した。

 ・1925年、フォックス社と監督として契約。『栄光への道』(1926年)で監督デビューし、同社で8本のサイレント映画を監督(8本目の『空中サーカス』は一部トーキー)。
 
フォックス社との契約終了後は、映画会社と長期契約を交わさずに、フリーの映画監督としてキャリアを積んでいった。
 (右の写真)『港々に女あり』(1928年)
 ヴィクター・マクラグレンルイーズ・ブルックス
A Girl in Every Port

Athole_Shearer  ・1928年、ノー マ・シアラーの姉アソーレ・シアラーと結婚したが、1940年に離婚した。
 (左の写真)右から時計回りに、
 ホークス監督、アービング・G・タルバーグ
 ポール・バーン、?、アソーレ・シアラー
 ノーマ・シアラー

 ・ファースト・ナショナル社で、自身初の全編トーキー『暁の偵察』(1930年)を監督。航空部隊もののブームに乗り大ヒットした。『地獄の天使』を製作中だったハワード・ヒューズから、著作権の侵害だとして訴えられたが、訴訟中に両者は意気投合したと言われている。
 (右の写真)『暁の偵察』撮影時
 
ダグラス・フェアバンクス・ジュニア(左)、
 
リチャード・ バーセルメス(右)、と
The Dawn Patrol

 ・アル・カポネをモデルにした映画を構想していたハワード・ヒューズに招かれ、『暗黒街の 顔役』(1932年)を監督。大ヒットし、ホークス監督の出世作となったギャング映画の古典的名作。
 * ブライアン・デ・パルマ監督、アル・パチーノ主演『スカーフェイス』(1983年)としてリメイクされた。
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『暗黒街の 顔役』(1932年)
ポール・ムニ
『暗黒街の 顔役』撮影時
ポール・ムニ(手前左)、ホークス監督(白帽子)

 ・MGM社で『今日限りの命』(1933年)を 監督。同社で3作撮る契約をしていたが、あとの2作、『世界拳闘王』、『奇傑パンチョ』は、会社と対立して途中降板した。
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Today We Live
『今日限りの命』(1933年)
ゲーリー・クーパージョーン・クロフォード

『今日限りの命』撮影時
ゲーリー・クー パー、ジョーン・クロフォードと

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 ・『今日限りの命』の原作は、後にノーベル賞作家となるウィリアム・フォークナーの「Turnabut」。フォークナーとは親友となり、度々協業することとなった。
 (左の写真)ウィリアム・フォークナー(右)と

 ・コロンビア社で、自身初のコメディ『特急二十世紀』(1934年)を監督。ヒロインには、親戚(またいとこ)のキャロル・ロンバードを起用。スク リューボール・コメディの傑作に仕上げ、ロンバートの出世作となった。
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Twentieth_Century-2.
『特急二十世紀』(1934年)
キャロル・ロンバード、ジョン・バリモア
『特急二十世紀』撮影時
キャロル・ロンバード、ジョン・バリモアと

 ・サミュエル・ゴールドウィン社で『バーバリー・コースト』、ワーナー・ブラザーズ社で『無限の青空』(1935年)、フォックス社 で『永遠の戦場』(1936年)を監督。サミュエル・ゴールドウィン社での2作目『大自然の凱歌』(1936年)は途中降板させられ、ウィリアム・ワイラーが引き継いで完成させた。
 (右の写真)『大自然の凱歌』撮影時
 カメラマンのグレッグ・トーランド、フランシス・ファーマー

Come_and_Get_It

 ・RKO社で『赤ちゃん教育』(1938年)を監督。現在ではスクリューボール・コメディの傑作とされているが、当時は興行的に振るわず、次に監督する予定だった『ガンガ・ディン』(1939年)は、ジョージ・スティーブンスと 交代させられた。
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『赤ちゃん教育』(1938年)
キャサリン・ヘップバーンケーリー・グラント
『赤ちゃん教育』撮影時
ケーリー・グラント、
キャサリン・ヘップバーンと

 ・コロンビア社で『コンドル』(1939年)、 『ヒズ・ガール・フライデー』(1940年)を監督。『赤ちゃん教育』 以後、3作連続でケーリー・グラントと組んだ。
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『コンドル』(1939年)
ケーリー・グラント、ジーン・アーサー
『コンドル』撮影時
ジーン・アーサー、ケーリー・グラントと

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『ヒズ・ガール・フライデー』(1940年)
ケーリー・グラント、ロザリンド・ラッセル
『ヒズ・ガール・フライデー』撮影時
ロザリンド・ラッセル、ケーリー・グラントと

 ・ワーナー・ブラザース社で伝記映画『ヨーク軍曹』(1941年)を監督。ホークス監督のキャリアで最大のヒット作となり、アカデミー賞監督賞の候補にもなった。主演のゲーリー・クーパーにアカデミー賞主演男優賞をもたらした。
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『ヨーク軍曹』(1941年)
ジョーン・レスリー、ゲーリー・クーパー

『ヨーク軍曹』撮影時

 ・サミュエル・ゴールドウィン社で『教授と美女』(1941年)を監督。映画監督を目指していた脚本家のビリー・ワイルダーが、ホークス監督を指名したという。
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Ball of Fire-2
『教授と美女』(1941年)
ゲーリー・クーパー、バーバラ・スタンウィック
『教授と美女』撮影時
ゲーリー・クーパー、バーバラ・スタンウィックと

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 ・1941年、社交界の花形ナンシー‟スリム”キースと再婚したが、1949年に離婚した。
 ゲーリー・クーパーが結婚式のベストマンを務めた。
 (左の写真)ナンシー‟スリム”キース
 ゲーリー・クーパー(右)と

 ・ワーナー・ブラザーズ社で『空軍/エア・フォース』(1943年)を撮った後、ハワード・ヒューズに招かれて『ならず者』(1943年)の撮影に臨んだが、ヒューズと対立して降板した。

 ・ワーナー・ブラザーズ社でハードボイルドの傑作『脱出』(1944年)を監督。原作は、親交のあった文豪アーネスト・ヘミングウェイの 「持つと持たぬと」。ヘミングウェイに、「君の駄作でも傑作映画にしてみせる」 と豪語したと言われている。ウィリアム・フォークナーが脚本で参加した。
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『脱出』(1944年)
ハンフリー・ボガートローレン・バコール

『脱出』撮影時
ハンフリー・ボ ガート(中央)と

 ・引き続き、ハンフリー・ボガート、ローレン・バコールと組み、『三つ数えろ』(1946 年)を監督。原作はレイモンド・チャンドラーの「大いなる眠り」。『脱出』と同様、ウィリアム・フォークナーが脚本で参加。
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『三つ数えろ』(1946 年)
ハンフリー・ボガート、ローレン・バコール
『三つ数えろ』撮影時
 
 !ホークス監督の映画で、キャサリン・ヘップバーンやバーバラ・スタンウィック、ローレ ン・バコールなどが演じた勝気なヒロインたちは、「ホーキシャン・ウーマン」と呼ばれ、フェミニストの原型とも言われていた。

 ・ジョン・ウェインと初め て組んだ西部劇『赤い河』(1948年)が大ヒット。ジョン・ウェインの人気を決定的なものとし、本作で銀幕デビューしたモ ンゴメリー・クリフトも一躍人気スターの仲間入りを果たした。
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『赤い河』(1948年)
ジョン・ウェイン、モンゴメリー・クリフト

『赤い河』撮影時。左から時計回りに、ホークス監督、
   モンゴメリー・クリフト、ジョン・ウェイン

 ・サミュエル・ゴールドウィン社で、『教授と美女』をミュージカルにリメイクした自身初のカラー作品『ヒット・パレード』(1948年)を監督。

 ・20世紀FOX社で、ケーリー・グラントと9年ぶりに組んだ『僕は戦争花嫁』(1949年)を監督。
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I Was a Male War Bride
『僕は戦争花嫁』(1949年)
ケーリー・グラント、アン・シェリダン
『僕は戦争花嫁』撮影時
ケーリー・グラント(左)と

 ・長年、編集を務めていたクリスティアン・ナイビイに監督させたSFホラー『遊星よりの物体X 』(1951年)を製作。実際はホークスが監督をしたとも言われている。

 ・O・ヘンリーの短編小説のオムニバス映画『人生模様』(1952年)の第4話 「赤い酋長の身代金」を撮った後、ケーリー・グラントとの5作目で最後のコラボ作品『モンキー・ビジネス』(1952 年)を監督。
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『モンキー・ビジネス』(1952 年)
ケーリー・グラント、ジンジャー・ロジャース
『モンキー・ビジネス』撮影時。ケーリー・グラント、
マリリン・モンロー、ホークス監督


 ・引き続き、20世紀FOX社でミュージカル・コメディ『紳士は金髪がお好き』(1953年)を監督。マリリン・モンローとジェーン・ラッセルの出世作となった。
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Gentlemen_Prefer_Blondes
『紳士は金髪がお好き』(1953年)
マリリン・モンロー(左)、ジェーン・ラッセル
『紳士は金髪がお好き』撮影時
マリリン・モンロー(右)、ジェーン・ラッセルと

 ・1953年、モデル、女優のディー・ハートフォードと再々婚したが、1959年に離婚した。
 (右の写真)ディー・ハートフォードと
Dee_Hartford.

 ・ワーナー・ブラザーズ社で大作史劇『ピラミッド』(1955年)を監督。ウィリアム・フォークナーとの最後のコラボレーションだったが失敗作となり、ホークス監督は長期休養に入った。

 ・西部劇『リオ・ブラボー』(1959年)で4年ぶりに復帰。ゲーリー・クーパー主演の『真昼の決闘』(1952年)について、「市民に助けを求めるなん て、そんな弱腰な保安官がいるものか」 と、意見が一致したジョン・ウェインを主役に起用した痛快ウエスタンで健在ぶりを示した。
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『リオ・ブラボー』(1959年)
ジョン・ウェイン

『リオ・ブラボー』撮影時。左から、ジョン・ウェイン、
ディーン・マーティン、リッキー・ネルソンと

Rio Lobo  ・ジョン・ウェインとは、『ハタリ!』(1961年)、 『エル・ドラド』(1966年)、そして、ホークス監督最後の劇場用映画『リオ・ロボ』(1970年)でも組んだ。
 (左の写真)『リオ・ロボ』撮影時。ジョン・ウェイン(右)と

 ・1974年度のアカデミー賞で名誉賞を受賞。
 ホークス監督がアカデミー賞監督賞にノミネートされたのは、意外にも 『ヨーク軍曹』(1941年)だけ。フリーランスの監督だったので、不利だったのかもしれない。
 受賞のスピーチでは、友人だったジョン・フォード監督から、「君もいつかアカデ ミー賞を受賞することになるさ」と言われた、とのエピソードを披露した。
 (右の写真)プレゼンターのジョン・ウェインと
Hawks-Oscar


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 アカデミー賞名誉賞の受賞時



 ・1977年81歳で他界。

Howard Hawks-2


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