20世紀・シネマ・パラダ イス
バーバラ・ スタンウィック
Barbara Stanwyck
1907-1990 (アメリカ)
◆
代表作
ステラ・ダラス
Stella Dallas
(1937年/アメリカ)
レディ・イヴ
The Lady Eve
(1941年/アメリカ)
群 衆
Meet John Doe
(1941年/アメリカ)
教授と美女
Ball of Fire
(1941年/アメリカ)
深夜の告白
Double Indemnity
(1944年/アメリカ)
私は殺される
Sorry, Wrong Number
(1948年/アメリカ)
◆
共演者やスタッフから愛され息長く活躍
・
1907年
、ニューヨークにて、5人兄妹の末っ子として生まれた。本名は
Ruby Catherine Stevens
。4歳の時に母親が交通事故で亡くなり、間もなく、父親が子供たちを見捨てて蒸発。5歳年上の姉と一緒に、里親のもとを転々とした。14歳で学校を中退し、デ パートや電話局などで働き始め、15歳の時に当時人気のあった歌劇団「ジーグフェルド・フォーリーズ」 のコーラス・ダンサーになり、憧れのショー・ビジネスの世界に入った。
・ブロードウェイの舞台劇「
The Noose
」
(1926年)
で役に就き、この時から芸名をバーバラ・スタンウィック としている。同舞台で共演したレックス・チェリーマンと恋に落ちたが、1928年、チェリーマンが31歳の若さで病死した。
(右の写真)舞台「
The Noose
」
レッ クス・チェリーマンと
・1927年、主要キャストを務めたコメディ劇「
Burlesque
」が大ヒットし、ブロードウェイの人気スターとなった。同年、『
Broadway Nights
』 で銀幕デビュー。スクリーン・テストで泣くことが出来ずに主要キャストからは外された。
・1928年、当時最も成功していたボードビリアンの1人フランク・フェイと結婚し、夫婦でハリ ウッドへ移った。
スタンウィックは15歳の時に妊娠・中絶した後遺症で子供を産めず、1932年に養子を迎え入れている。
(左の写真) 最初の夫、フランク・フェイと
・2作目の『壁の中の声』
(1929年)
で ヒロインを演じ、以後、
フランク・キャプラ
、
ウィ リアム・A・ウェルマン
といった名監督に気に入られ、順調にキャリアを積んでいったが、夫のフランクはハリウッドでは成功することが出来ず、2人は1935年に離 婚した。
*
フランク・キャプラ監督作品 … 『希望の星』(1930年)、『奇蹟の処女』
(1931年)、『たそがれの女』
(1932年)、『風雲のチャイナ』
(1933年)、『群衆』(1941年)に出演。
*
ウィリアム・A・ウェルマン監督作品 … 『夜の看護婦』(1931年)、『母』(1932年)、『
The Purchase Price
』(1932年)、『
The Great Man's Lady
』(1942年)、『
Lady of Burlesque
』(1943年)に出演。
『夜の看護婦』(1931年)
ベン・ライオンと
『たそがれの女』
(1932年)
アドルフ・マンジュー
と
『愛怨二重奏』(1936年)
ロバート・テイラー
と
『
This is My Affair
』(1937年)
ロバート・テイラーと
・サイレント期の名作のリメイク 『ステラ・ダラス』
(1937 年/監督:
キング・ヴィダー
)
で、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされ、名実ともにハリウッドのトップ女優の仲間入りを果たした。
*
サイレント版(1925年)は、ベル・ベネットと
ロ ナルド・コールマン
が主演
(右の写真)『ステラ・ダラス』 アン・シャーリー(左)、ジョン・ボールズと
『大平原』(1939年/監督:
セシル・B・デミル
)
ジョエル・マクリー
と
『ゴールデン・ボーイ』
(1939年/監督:
ルーベン・マムーリアン
)
ウィリアム・ホールデン
と
・1939年、『愛怨二重奏』、『
This is My Affair
』で共演したロバート・テイラーと再婚したが、1951年に離婚。その後は独身を通した。
(左の写真)2番目の夫ロバート・テイラーと
・1940年代、キャリアの絶頂期を迎えた。
『レディ・イヴ』
(1941年)
ヘンリー・フォンダ
と
『群衆』
(1941年)
ゲーリー・クーパー
と
・ゲーリー・クーパーと再共演したスクリューボール・コメディの傑作『
教授と美女』
(1941年/監督:
ハワード・ホークス
)
で、2度目のアカデミー賞主演女優賞候補に。
(右の写真)『教授と美女』 ゲーリー・クーパーと
・フィルム・ノワールの傑作『深夜の告白』
(1944 年/監督:
ビリー・ワイルダー
)
では、従来のイメージから一転、悪女を演じて3度目のアカデミー賞主演女優賞候補に。
彼女が演じたフィリス・ディートリクスンは、AFI(アメリカ映画協会)が2003年に選定した 「アメリカ映画悪役ベスト50」で第8位にランクされた。
(左の写真)『深夜の告白』
フレッド・マクマレー
と
・1944年には、ハリウッドで最高給取りの女優となった。
サスペンス映画『私は殺される』
(1948年/監督:
アナトール・リトヴァク
)
で、4度目のアカデミー賞主演女優賞候補になったが、またも受賞には至らなかった。
(右の写真)『私は殺される』
バート・ランカスター
と
『スピード王』(1950年/監督:
クラレンス・ブラウン
)
クラーク・ゲーブル
と
『吹き荒ぶ嵐』(1953年)
ゲーリー・クーパーと
『重役室』(1954年/監督:
ロバート・ワイズ
)
ウィリアム・ホールデンと
『青春カーニバル』(1964年)
エルヴィス・プレスリー
と
・1950〜1960年代も第一線で活躍。かつての夫ロバート・テイラーと共演した 『ナイト・ウォーカー 夜歩く者』
(1964年)
が最後の劇場用映画となった。
(左の写真)『ナイト・ウォーカー 夜歩く者』 ロバート・テイラーと
・1960年代以降は主にTVで活躍。「バーバラ・スタンウィック・ショー」
(1960〜61年)
、「バークレー牧場」
(1965〜69年)
、 「
The Thorn Birds
」
(1983年)
で、3度エミー賞を受賞。「
The Thorn Birds
」では、ゴールデン・グローブ賞の助演女優賞
(TVドラマ部門)
も 受賞した。TVドラマ「
The Colbys
」
(1985〜86年)
への出演が、最後の仕事となっ た。
(右の写真)「バークレー牧場」
・1978年のアカデミー賞授賞式に、ウィリアム・ホールデンと一緒にプレゼンターとして 登場。
ホールデンは、自身初の大役『ゴールデン・ボーイ』 の撮影中にクビになりかけたところを、スタンウィックによって救われたとのエピソードを披露した。
(左の写真)1978年のアカデミー賞授賞式。ウィリアム・ホールデンと
・1982年
、
アカデミー賞の名誉賞を受賞。
前年の11月に他界したウィリアム・ホールデンについて、「
彼は私がオスカーを手にすることを願ってくれていました。私のゴールデン・ボーイ、あ なたの願いが叶ったわ
」とスピーチした。
アカデミー賞名誉賞の受賞スピーチ。プレゼンターはジョン・トラボルタ。
・1986年、ゴールデン・グローブ賞のセシル・B・デミル賞を 受賞。
・
1987年、AFI(アメリカ映画協会)の生涯功労賞を受賞。
・晩年、自宅に押し入って来た強盗に暴行を受けたり
(1981年)
、自宅の火事でロバート・テイラーからのラブレターなどを焼失してしまう
(1985年)
不幸に見舞われた。
・1990年
、
82歳
で他界。
とても気さくな性格で、共演者や現場スタッフの皆から愛されたという。生前の希望により、遺体は火葬され、遺灰はカリフォルニア州のローンパインに散布さ れた。
(右の写真)1982年のアカデミー賞授賞式にて
・1999年、AFI(アメリカ映画協会)が選定した 「伝説のスター・ベスト50」で、女優部門の第11位に。
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