20世紀・シネマ・パラダイス
クラレンス・ブラウン
Clarence Brown
1890-1987 (アメリカ)
◆
代表作
肉体と悪魔
Flesh and the Devil
(1926年/アメリカ)
アンナ・クリスティ
Anna Christie
(1930年/アメリカ)
自由の魂
A Free Soul
(1931年/アメリカ)
アンナ・カレニナ
Anna Karenina
(1935年/アメリカ)
緑園の天使
National Velvet
(1944年/アメリカ)
子鹿物語
The Yearling
(1946年/アメリカ)
◆
MGM社興隆の一翼を担う
・
1890年
、マサチューセッツ州生れ。テネシー大学卒業後、自動車関連の仕事に就いたが映画に興味を抱き、フランス人の モーリス・トゥールヌールの映画会社に入社。編集や助監督などを務めた。
第1次世界大戦中は従軍し、戦後、トゥールヌールとの共同監督で『大救世主』
、
ウォーレス・ビアリー
主演の『モヒカン族の最後』
(1920年)
等を撮った。
・1923年、ユニヴァーサル社に移籍し、『燻ゆる情念』
(1924年)
等、5作品を監督。その後、ユナイテッド・アーチスツ社で、
ルドルフ・ヴァレンチノ
主演の『荒鷲』
(1925年)
、
ノーマ・タルマッジ
主演の『お転婆キキー』
(1926年)
の2作品を監督した。
『荒鷲』(1925年)
ヴィルマ・バンキー、ルドルフ・ヴァレンチノ
『荒鷲』撮影時
ルドルフ・ヴァレンチノ(左)と
『お転婆キキー』
(1926年)
ロナルド・コールマン
、ノーマ・タルマッジ
『お転婆キキー』撮影時。左から、ブラウン監督、
コールマン、タルマッジ、
リチャード・バーセルメス
・MGM社での最初の作品『肉体と悪魔』
(1926年)
が大ヒット。
グレタ・ガルボ
が世界的な人気スターとなったサイレント期を代表する恋愛映画の1作。ガルボとは合計7作品で組んだ。
『肉体と悪魔』
(1926年)
グレタ・ガルボ、
ジョン・ギルバート
『肉体と悪魔』
撮影時
グレタ・ガルボと
『恋多き女』(1928年)
グレタ・ガルボ、ジョン・ギルバート
グレタ・ガルボ 、ジョン・ギルバート(右)と
・グレタ・ガルボ初のトーキーとして話題を集めた『アンナ・クリスティ』、同じくガルボ主演の『ロマンス』
(1930年)
の2作品で、アカデミー賞監督賞にダブル・ノミネートされたが受賞は逃した。
『アンナ・クリスティ』(1930年)
グレタ・ガルボ
『アンナ・クリスティ』撮影時
音声マイクを見上げるガルボとブラウン監督
・ガルボと並び、MGM社の看板女優だった
ジョーン・クロフォード
とは5作品で組んだ。
『蜃気楼の女』(1931年)
ジョーン・クロフォード、
クラーク・ゲーブル
『蜃気楼の女』撮影時
ジョーン・クロフォード、クラーク・ゲーブルと
・
ノーマ・シアラー
主演の『自由の魂』
(1931年)
でアカデミー賞監督賞にノミネート。
『自由の魂』
(1931年)
ノーマ・シアラー、
レスリー・ハワード
『自由の魂』撮影時。右から、
ノーマ・シアラー
、
クラーク・ゲーブル、レスリー・ハワードと
『駒鳥の唄』
(1934年)撮影時
フランチョット・トーン(左)、ジョーン・クロフォードと
『私のダイナ』
(1934年)撮影時。左から、ブラウン監督、
クラーク・ゲーブル、ジョーン・クロフォード、?
・グレタ・ガルボ主演『アンナ・カレニナ』
(1935年)
は、ヴェネツィア国際映画祭でムッソリーニ賞
(当時の大賞)
を受賞した。
『アンナ・カレニナ』
(1935年)
グレタ・ガルボ、
フレドリック・マーチ
『アンナ・カレニナ』
撮影時。左から、グレタ・ガルボ、
フレドリック・マーチ、ブラウン監督
『豪華一代娘』(1936年)撮影時
ジョーン・クロフォードと
『征服』(1937年)撮影時
グレタ・ガルボと
・『町の人気者』
(1943年)
、『緑園の天使』
(1944年)
、『子鹿物語』
(1946年)
で、アカデミー賞監督賞にノミネートされたが受賞は逃した。監督賞に6回も候補となり受賞に至らなかったのは歴代最多。ちなみに5回の残念は、
キング・ヴィダー
、
アルフレッド・ヒッチコック
、ロバート・アルトマンの3人。
『町の人気者』(1948年)
ミッキー・ルーニー(左)、フランク・モーガン
『町の人気者』撮影時
ジャッキー・ジェンキンス(左)、ミッキー・ルーニー(中央)と
『緑園の天使』
(1944年)
エリザベス・テイラー
、ミッキー・ルーニー
『緑園の天使』撮影時
エリザベス・テイラーと
『子鹿物語』
(1946年)
グレゴリー・ペック、
クロード・ジャーマン・ジュニア
『子鹿物語』撮影時。左から、ブラウン監督、
グレゴリー・ペック、クロード・ジャーマン・ジュニア
・『愛の調べ』
(1947年)
を最後にMGM社を退社。フリーとなって最初の作品『墓地への侵入者』
(1949年)
は、英アカデミー賞の国連賞を受賞。ウィリアム・フォークナーの小説を映画化した作品だが、日本では劇場未公開。
『愛の調べ』(1947年)撮影時
キャサリン・ヘップバーン
と
『スピード王』(1950年)撮影時
バーバラ・スタンウィック
、クラーク・ゲーブル(右)と
・最後の監督作品『
Plymouth Adventure
』
(1952年/主演:
スペンサー・トレイシー
)
を撮った後、『哀愁のロシア』
(1953年/主演:クラーク・ゲーブル)
を製作し、引退。
・
1987年
、
97歳
で他界。母校のテネシー大学には、彼の名を冠した劇場がある。
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