20世紀・シネマ・パラダ イス
ミッキー・ ルーニー
Mickey Rooney
1920-2014 (アメリカ)
◆
代表作
初恋合戦
Love Finds Andy Hardy
(1938年/アメリカ)
少年の町
Boys Town
(1938年/アメリカ)
青春一座
Babes in Arms
(1939年/アメリカ)
緑園の天使
National Velvet
(1945年/アメリカ)
ティファニーで朝食を
Breakfast at Tiffany's
(1961年/アメリカ)
ワイルド・ブラック / 少年の黒い馬
The Black Stallion
(1979年/アメリカ)
◆
少年スターとして人気No.1に
・
1920年
、ニューヨーク州生まれ。本名は
Joseph Yule Jr.
。
両親とも舞台芸人だったため、生後17ヶ月から舞台に引っ張り出されていた。
4歳の時に両親が離婚し、母親と共にカリフォルニア州へ移住。
尚、父親は舞台芸人を続け、ほとんどが端役ながらも70本近くの映画にも出演した。
(右の写真)赤ん坊の頃のミッキー・ルーニー
・1926年、6歳の時に短編映画『
Not to Be Trusted
』で銀幕デビュー。本名に近い‟
Joe Yule Jr.
”の芸名を使用していた。
(左の写真)2作目の『想い叶ふて』(1927年)
コリーン・ムーア
と
・1927年、主役を務めた短編映画‟
Mickey McGuire
”シリーズがスタート。
芸名を役柄と同じ ‟ ミッキー・マクガイア ” として出演した同シリーズは、1934年までに78本も製作された。
(右の写真)ミッキー・マクガイアと名乗っていた頃
・1934年、MGM社と契約。芸名をミッキー・ルーニーとして、
クラーク・ゲーブル
、
ジーン・ハー ロー
といった同社の人気スターと共演。シェークスピア劇を映画化した『真夏の夜の夢』
(1935年)
で妖精パックを演じ、その演技は高く評価された。
『男の世界』(1934年)撮影時
クラーク・ゲーブルと
『港に異常なし』(1936年)
ジーン・ハーローと
『真夏の夜の夢』(1935年)
*
ワーナー・ブラザース社の作品
『真夏の夜の夢』(1935年)
オリヴィ ア・デ・ハヴィランド
と
・『腕白時代』
(1936年)
では、
ジャッキー・クーパー
(1922年生)
、
フレディ・バーソロミュー
(1924年生)
と 共演。MGM社の3大少年スターが揃い踏みした。
(左の写真)左から、ミッキー・ルーニー、フレディ・バーソロミュー、ジャッキー・クーパー
・判事の息子‟ アンディ・ハーディ ”に扮したコメディ・ホームドラマ ・シリーズは、1937年から1946年までに16作品が製作された。
父親のハーディ判事役は、1作目はライオネル・バリモアだったが、2作目以降はルイス・ストーンが演じた。
(右の写真)ルイス・ストーン、フェイ・ホールデン(母親役)と
・
スペンサー・トレーシー
と 共演し、非行少年を演じた『少年の町』
(1938年)
が大ヒット。
ミッキーの人気を決定的なものとし、続編『感激の町』
(1941年)
も製作された。
(左の写真)『少年の町』スペンサー・トレーシーと
・1939年、アカデミー賞の特別賞を受賞。
「若者の精神を映画にもたらしたこと、子役の演技の水準を高めたこと」に対する賞だった。
(右の写真)子供用の小さいサイズのオスカー像と
・本国での人気は絶大で、ドル箱(マネー・メイキング)スター・ベストテンには1938年に第4位で初登場し、翌1939年から3年連続
(19〜21 歳)
で第1位に。その前の4年間、第1位だったのがFOX社の
シャーリー・テンプル
(7〜10歳)
。 この2人の後、ティーンエイジで第1位になったスターはいない。
TVも普及していなかった当時、彼等の映画は子供も大人も楽しめる最大の娯楽の1つであった証である。
(左の写真)シャーリー・テンプル(左)、
ジュディ・ガーランド
と
・ティーンエイジにして、華の都ハリウッドのトップ・スターとなったミッキー。銀幕でのベ スト・パートナーは2歳年下の少女スター、
ジュディ・ガーランド
。
2人は『
Thoroughbreds Don't Cry
』
(1937年)
で初共 演し、以後『ワーズ&ミュージック』
(1948年)
まで、合計10本の映画で共演。その内の3本は、‟アンディ・ハーディ”シリーズの、『初恋合戦』
(1938年/シリーズ4作目)
、 『
Andy Hardy Meets Debutante
』
(1940年/シリーズ9作目)
、 『二人の青春』
(1941年/シリーズ11作目)
だった。
『初恋合戦』(1938年)
『ブロードウェイ』 (1941年)
ミッキーは後年、ジュディとの関係を「
恋愛関係ではなかったが、兄妹以上の
特 別な間柄であった
」と語っている。
・初めてアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた『青春一座』
(1939年
)もジュディとの共演作だった。
当時19歳でのノミネートは、ジャッキー・クーパーの9歳
( 『スキピイ』)
に次ぐ、史上2番目の年少記録
(2014年現在)
。
(右の写真)『青春一座』 ジュディ・ガーランドと
・私生活で最初にロマンスの噂となった相手は、18歳も年上の
ノーマ・シアラー
だったが、この時は、MGM社の大ボス、
ルイス・B・メイヤー
に窘められたとか。
(左の写真)ノーマ・シアラーと
・4歳で父親と別れたミッキーにとって、ルイス・B・メイヤーは父親のような存在だったらしい。
・1942年、まだほとんど無名だった
エヴァ・ガードナー
と結婚したが、翌年に離婚。ミッキーはその後7回も結婚をしており、子供は9人
(養子も含む)
もいた。
(右の写真) 最初の結婚相手、エヴァ・ガードナーと
・『町の人気者』
(1943年)
で、2度目のアカデミー賞主演男優賞候補に。同作の
ク ラレンス・ブラウン
監督曰く、「
彼は今まで一緒に働いた人の中で、最も天才に近い
」。
『町の人気者』(1943年)
『緑園の天使』(1944年/監督:クラレンス・ブラウン)
エリザベス・テイラー
と
・『緑園の天使』
(1944年)
の撮影終了後、陸軍に入隊し、戦地の兵士たちの慰問活動に従事した。
(左の写真)陸軍入隊時のミッキー・ルーニー
・少年スター、青年スターとしての時期を過ぎ、戦後は人気が凋落してしまった。
『戦塵』
(1956年)
でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされたが受賞は逃した。12年ぶりに アンディ・ハーディに扮した『
Andy Hardy Comes Home
』
(1958年/シリーズ17作目)
も製作されたが、人気回復の決定打とはならなかった。
(右の写真) 『戦塵』
・映画の仕事は激減し、メガネで出っ歯という当時の日本人のステレオタイプな 役柄に扮した
『ティファニーで朝食を』
(1961年)
も、そんな低迷期に出演した作品だった。
(左の写真) 『ティファニーで朝食を』
『ティファニーで朝食を』
・1950年代半ばからはTVで活躍。1954年から約1年間 「ミッキー・ルーニー・ショー」という番組が製作され、連続ドラマ『
Mickey
』
(1964 年)
で、ゴールデン・グローブ賞の主演男優賞
(TV部門)
を受賞。
(右の写真)TV「ジュディ・ガーランド・ショー」(1963年)出演時
・『ワイルド・ブラック/少年の黒い馬』
(1979 年)
で、23年ぶり2度目のアカデミー賞助演男優賞候補に。
生涯で250本近くの映画に出演したミッキーだが、彼が最も誇りに思うとした作品。
(左の写真)『ワイルド・ブラック/少年の黒い馬』
・ ミッキーの戦後最大のヒット作はブロードウェイで生まれた。
59歳の時のブロードウェイ・デビュー作で主演作の「
Sugar Babies
」 が、1979年10月の初演から1982年10月まで1200回を超える大ヒット、ロングラン公演となり、更に、1985年まで全米各地やロ ンドンでも公演を行った。
(右の写真)舞台「
Sugar Babies
」でのミッキー
「
Sugar Babies
」の公演中
共演者のアン・ミラー(左)、
レーガン大統領夫妻 (中央)と
マイケル・ジャクソン(中 央)、アン・ミラー(右)と
・1981年、精神障害者を演じたTVドラマ「
Bill
」 で、ゴールデン・グローブ賞とエミー賞の主演男優賞を受賞。
・1983年、アカデミー賞の名誉賞を受賞。
「60年にわたる記憶に残る数々の多才な演技」に対して贈られた。
(左の写真)オスカー像を掲げるミッキー
アカデミー賞名誉賞受賞時。プレゼンターは
ボブ・ホープ
。
・1990年、『ワイルド・ブラック/少年の黒い馬』のTVシリーズ「
The Adventures of the Black Stallion
」
が スタート。30分×26回を1シリーズとする番組が、1993年までに3シリーズ放映され、ミッキーは映画と同じ調教師役を演じた。
(右の写真)「
The Adventures of the Black Stallion
」
・
1991年、回顧録「
Life is Too Short
」を出版。
・『ベイブ/都会へ行く』
(1998年)
、
『ナイトミュージアム』
(2006年)
、『ザ・マペッツ』
(2011年)
等に出演。最晩年まで現役として第一線で活躍した。
・
2014年
、
93歳
で他界。
遺作となった『
Dr. Jekyll and Mr. Hyde
』が2015年に公開された。
・最長のキャリアを持つ映画俳優とし てギネス・ブックにも認定されたミッキー・ルーニー。
キャリア低迷期の1960年代には経済的に破綻したこともあり、 晩年には家族から虐待を受けたこともあったという。
波乱万丈の役者人生だったが、カメラの前ではいつでも魅力的な笑顔を振りまいていた生粋のエンターテイナーだった。
HOME