20世紀・シネマ・パラダイス
ジーン・ハーロー
Jean Harlow
1911-1937 (アメリカ)
◆
代表作
地獄の天使
Hell's Angels
(1930年/アメリカ)
民衆の敵
The Public Enemy
(1931年/アメリカ)
紅塵
Red Dust
(1932年/アメリカ)
晩餐八時
Dinner at Eight
(1933年/アメリカ)
◆
26歳で天に召された1930年代のセックス・シンボル
・
1911年
、ミズーリ州生れ。16歳の時に資産家の息子と駆け落ちして結婚。ロスアンゼルスへ引越して、新婚生活をスタートさせたが2年で離婚した。
・1928年、結婚中に銀幕デビュー。知人に誘われてのエキストラ出演だったが、離婚後、本格的に女優を目指すようになった。「極楽コンビ」
ローレル&ハーディ
の作品や、
クララ・ボウ
主演の『恋のデパート』
(1929年)
等に出演した。
*
チャップリン
の
『街の灯』
(1931年)
にも、ナイトクラブの場面でエキストラ出演。同作は撮影に2年もかかっているので、彼女の出演シーンは1929〜30年に撮影されたものと思われる。
・大富豪ハワード・ヒューズが莫大な製作費を投入した超大作『地獄の天使』
(1930年)
のヒロインに抜擢されて大ブレイク。
当初、ノルウェー出身のグレタ・ニッセンがヒロインで、サイレントとして撮影していたが、トーキーに切り替えた際に訛りのひどいニッセンに代わり彼女が起用された。作品は大ヒットし、彼女は新たなセックス・シンボルとして一躍人気スターとなった。当時まだ19歳。
(右の写真)『地獄の天使』 ベン・ライオンと
・ハワード・ヒューズとの契約下で、他社の作品『秘密の6』、『民衆の敵』、『プラチナ・ブロンド』
(1931年)
等に出演。
・『プラチナ・ブロンド』
(監督:
フランク・キャプラ
)
は、主役の
ロレッタ・ヤング
の役名でもある「
Gallagher
」というタイトルだったが、ハワード・ヒューズの要請で『プラチナ・ブロンド』に変更された。
(左の写真)『民衆の敵』
ジェームズ・キャグニー
と
・ヒューズは全米の美容院で賞金付きの 「プラチナ・ブロンド」キャンペーンを実施。街はハーローそっくりのヘア・スタイルの女性で溢れたという。
「プラチナ・ブロンド」はハーローの代名詞となった。アメリカでは「プラチナ爆弾」とも言われたが、日本では「セックス爆弾」という凄い呼ばれ方をされていた。
・1932年4月、MGM社へ移籍。この時に立ち回ったのが、MGM社の製作者ポール・バーン。2人は『秘密の6』の製作時に出会い、恋に落ちていた。
同年7月に結婚。しかし、僅か2ヶ月後に、バーンがピストル自殺。様々な憶測を呼ぶ
スキャンダル
となった。
(左の写真)2番目の夫、ポール・バーンと
・私生活では悲劇に見舞われたが、女優業の方は絶好調で、MGM社へ移籍後、『
Red-Headed Woman
』、『紅塵』
(1932年/監督:
ヴィクター・フレミング
)
の2作品が立て続けに大ヒット。
当時のMGM社には、
グレタ・ガルボ
(1905年生)
、
ノーマ・シアラー
(1902年生)
、
ジョーン・クロフォード
(1904年生)
といった看板女優がいたが、彼女たちよりも若いハーローは期待の星であり、同社の人気男優たちと共演した作品はことごとく大ヒットした。
『春の火遊び』(1933年/監督:
サム・ウッド
)
クラーク・ゲーブル
と
『妻と女秘書』(1936年/監督:
クラレンス・ブラウン
)
ジェームズ・ステュアート
と
『結婚クーデター』(1936年)
スペンサー・トレイシー
(左)、
ウィリアム・パウエル
と
『座り込み結婚』(1937年)
ロバート・テイラー
と
・私生活では、ヘビー級のプロ・ボクサー、マックス・ベアと浮名を流したが、彼は既婚者であり、新たなスキャンダルを恐れたMGM社が交際にストップをかけたと言われている。
*
マックス・ベア … 1934年に世界ヘビー級チャンピオンとなり、引退後は俳優としても活躍した。
(右の写真)マックス・ベアと
・1933年、『紅塵』、『春の火遊び』のカメラマン、ハロルド・ロッソンと3度目の結婚。しかし、MGM社がお膳立てした結婚だったようで、僅か8ヶ月で離婚した。
*
ハロルド・ロッソン …
『オズの魔法使』
(1939年)、
『雨に唄えば』
(1952年)等も撮影
(左の写真)ハロルド・ロッソンと
・最後の恋人だったのがウィリアム・パウエル。
ハーロー初のミュージカル『無軌道行進曲』
(1935年)
、『結婚クーデター』
(1936年)
で共演もした。
(右の写真)『無軌道行進曲』 ウィリアム・パウエルと
・
1937年
、『サラトガ』の撮影中に病に倒れ、回復することなく、
26歳
で他界した。
・私生活でもセックス・シンボル視されることへのストレスから、かなり早い時期からアルコールに浸るようになり、それで腎臓を悪くしたとされている。
母親がクリスチャン・サイエンスの信者であり、医者の治療を拒んだとする説や、本人が拒んだとする説など、諸説がある。
入院時には病状は悪化しており、手遅れだったという。
(左の写真)遺作となった『サラトガ』 クラーク・ゲーブルと
・セックス・シンボルと謳われ、結婚・離婚を繰り返し、その早過ぎる死には不明な点もある、となれば、
マリリン・モンロー
と重なることが多い。最後の共演相手がクラーク・ゲーブルということまで同じである。
・1999年、AFI(アメリカ映画協会)が選定した「伝説のスター・ベスト50」の女優部門で第22位に選出。
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