20世紀・シネマ・パラダイス

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Marilyn_Monroe

マリリン・モンロー

Marilyn Monroe

 1926-1962 (アメリカ)


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   代表作

Gentlemen_Prefer_Blondes-2
 紳士は金髪がお好き
  Gentlemen Prefer Blondes
  (1953年/アメリカ)
River_of_No_Return-2
 帰らざる河
 River of No Return
  (1954年/アメリカ)
The_Seven_Year_Itch
 七年目の浮気
 The Seven Year Itch
 (1955年/アメリカ)
Bus_Stop-2  バス停留所
 Bus Stop
 (1956年/アメリカ)
Some_Like_It_Hot
 お熱いのがお好き
 Some Like It Hot
 (1959年/アメリカ)
The_Misfits  荒馬と女
 The Misfits
  (1961年/アメリカ)

    ハリウッドのセックス・シンボル

 ・1926年、カリフォルニア州にて、母親グラディスの私生児として生まれた。
 出生時の名前はノーマ・ジーン・モーテンソン。その後、ノーマ・ジーン・ベイカーと命名された。
 * モーテンソンは母親の2番目の夫の姓で、ベイカーは最初の夫の姓。母親が彼女を妊娠した時には2番目の夫とも既に別れており、父親は不明。
  (右の写真) 子供の頃のマリリンと母親
Monroe_&_Mother

Monroe_1933
 ・母親が映画会社でフィルム修繕の仕事をしていたため、生後間もなく里子に出されたが、週末には母子一緒に過ごすことができていた。
 しかし、彼女が7歳の時に母親が精神病で入院してしまい、以後、孤児院や里親を転々とする生活を余儀なくされた。8歳の時には、里親宅の下宿人から性的虐待を受けたこともあったという。
  (左の写真) 7歳頃のマリリン

 ・1942年、16歳の時に結婚。2年後、夫が海軍の支援業務で召集されると、彼女は軍御用達の部品工場で働き始め、軍需産業で働く女性たちを撮影しに来たカメラマンにスカウトされた。
 1945年、モデルとしてデビュー。褐色の髪をブロンドに染め、多くの雑誌の表紙を飾る売れっ子となったが、タレント業に理解を示さなかった夫とは離婚 (1946年)した。 (右の写真) 最初の夫ジェームズ・ドハティとの結婚式時
James_Dougherty

Dangerous_Years  ・1946年、20世紀FOX社と契約。‟マリリン・モンロー”の芸名を授かった。
 ‟マリリン” はブロードウェイで活躍したマリリン・ミラー (1898〜1936年)に由来し、‟モンロー”は母親の旧姓。
 1947年、銀幕デビューをするも、『Dangerous Years 』、『嵐の園』 (1948年) の2作に端役で出演しただけで、お払い箱にされてしまった。
  (左の写真) デビュー作 『Dangerous Years 』。ウエイトレス役だった。

 ・1948年、コロンビア社と契約し、『Ladies of the Chorus 』 に準主役で出演。マリリンが初めて歌声を披露したミュージカル作品だったが全く評判にならず、コロンビア社との契約も打ち切られてしまった。
 女優を続けるためタレント・エージェントと契約。生活費を稼ぐためヌード写真のモデルにもなった。
 (右の写真) 『Ladies of the Chorus 』 アデル・ジャーゲンス (左)と
Ladies_of_the_Chorus
 *Ladies of the Chorus 』 … 1952年に再公開された際、クレジット表記がマリリン主役に書き変えられた。

The_Asphalt_Jungle  ・エージェントの尽力もあり、マルクス兄弟主演の 『ラヴ・ハッピ−』 (1949年)、『彼女は二挺拳銃』、『アスファルト・ジャングル』 (監督:ジョン・ヒューストン)、『イヴの総て』 (監督:ジョゼフ・L・マンキーウィッツ)、The Fireball 』、『Right Cross(1950年) に出演。
 20世紀FOX社と7年間の長期再契約を獲得した。
 (左の写真) 『アスファルト・ジャングル』 ルイス・カルハーンと

 ・『ふるさと物語』、『素晴らしき哉、定年!』、『恋愛アパート』、『結婚しましょう』 (1951年)、『熱い夜の疼き』 (監督:フリッツ・ラング、『結婚協奏曲』 (1952年)
 助演、脇役クラスながらも順調にキャリアを積み、サスペンス作 『ノックは無用』 (1952年) で初めてヒロインに抜擢された。その後、オムニバス作 『人生模様』、『モンキー・ビジネス』 (1952年/監督:ハワード・ホークスに出演した。
 (右の写真) 『ノックは無用』 リチャード・ウィドマーク
Don't_Bother_to_Knock

Niagara
 ・1953年のドル箱 (マネー・メイキング)スター・ベストテンに、女優では最高位の第6位にランクイン。
 自身初のカラーでもあるフィルム・ノワール作品 『ナイアガラ』 (1953年/監督:ヘンリー・ハサウェイ では、腰を振って歩く ‟モンロー・ウォーク” を披露。彼女のアイデアで、左右で高さが違うハイヒールを履いていたという。
 (左の写真) 『ナイアガラ』

 ・ミュージカル・コメディ作 『紳士は金髪がお好き』 (1953年/監督:ハワード・ホークス) が大ヒット。
  「ダイアモンドは女の親友 」 を唄うシーンは、彼女のキャリアのハイライトの1つとなった。
 1940年代、20世紀FOX社の最大のドル箱女優だったベティ・グレイブルの主演作として企画されていたが、彼女の契約更新の交渉が難航していたため、マリリンが代わりに起用された。
  (右の写真) 『紳士は金髪がお好き』
Gentlemen Prefer Blondes

PLAYBOY
 ・同年9月、彼女が下積み時代に撮ったヌード写真が、雑誌 「PLAYBOY」 の創刊号に掲載され、話題沸騰。
 セックス・シンボルとしての地位を確立した。
 (左の写真) 「PLAYBOY」 創刊号

 ・ベティ・グレイブル、ローレン・バコールと共演したコメディ・ロマンス作 『百万長者と結婚する方法』 (1953年) も大ヒット。同年の全米年間興行成績で、『百万長者と結婚する方法』 が第4位、『紳士は金髪がお好き』 が第9位に。
 翌年のドル箱 (マネー・メイキング)スター・ベストテンで、マリリンは第5位に順位を上げた。 (右の写真) 『百万長者と結婚する方法』  ローレン・バコール(中央)、
 ベティ・グレイブル(右)と
How_to_Marry_a_Millionaire-2

 ・1954年1月、元ニューヨーク・ヤンキースのスーパー・スター、ジョー・ディマジオと再婚し、2月1日、新婚旅行で来日。
Joe_DiMaggio
 帝国ホテルで開かれた記者会見では、マリリンに質問が集中し、蚊帳の外に置かれたディマジオが立腹。目の前のマイクをテーブルの下に投げ捨て、会見場を後にしてしまい、残されたマリリンが 「夫の勝手な行動を許してやって下さい 」 と、泣き顔で謝罪するというハプニングが発生した。
 (左の写真) ジョー・ディマジオとの結婚式時

 ・西部劇 『帰らざる河』 (1954年/監督:オットー・プレミンジャー は、ディマジオとの結婚前に撮影されていた作品。
 マリリンは待遇面やあてがわれる作品に不満を持ち、フランク・シナトラとの共演で企画されていたミュージカル・コメディ 「The Girl in Pink Tights 」 への出演を拒否して新婚旅行へ出発していた。
 (右の写真) 『帰らざる河』 ロバート・ミッチャムと
River_of_No_Return

There's_No_Business_Like_Show_Business
 ・新婚旅行から帰国すると、20世紀FOX社から出演料とは別に特別ボーナス10万ドルを支給された。そして、『ショウほど素敵な商売はない』 (1954年) に出演したが、これは 「The Girl in Pink Tights 」 に出演しなかったことの穴埋めであり、次に他社の作品 『七年目の浮気』 に出演するための条件でもあったと言われている。
 (左の写真) 『ショウほど素敵な商売はない』 ドナルド・オコナー

 ・名匠ビリー・ワイルダー監督と組んだ 『七年目の浮気』 (1955年)  が大ヒット銀幕の中では、「dumb blonde = おつむの弱い金髪美人」 をコミカルに演じることが多かったが、そんな彼女のコメディエンヌとしての魅力が存分に発揮され、代表作の1つとなった。
 (右の写真) 『七年目の浮気』 トム・イーウェルと
The_Seven_Year_Itch
The_Seven_Year_Itch-2
 地下鉄の通気口からの風でスカートが浮き上がるシーンは、マリリンの最も有名なシーンとなったが、撮影現場に居合わせたジョー・ディマジオが激怒し、2人は僅か9ヶ月で離婚することとなってしまった。
 撮影後、写真家のミルトン・H・グリーンと映画製作会社 「マリリン・モンロー・プロダクション」 を設立した。
 (左の写真) 『七年目の浮気』 トム・イーウェルと

 ・セックス・シンボル、肉体派女優から脱皮し、演技派女優として成功するため、ニューヨークの「アクターズ・スタジオ」 を訪れ、リー・ストラスバーグから演技指導を受けた。そして、彼の妻ポーラ・ストラスバーグは、マリリンが亡くなるまで演技コーチ、親友としてマリリンを支えることとなった。
 (右の写真) 「アクターズ・スタジオ」 にて
Actors_Studio

Arthur_Miller
 ・1956年6月、ニューヨークで出会った劇作家のアーサー・ミラーと3度目の結婚。
 結婚前に本名をマリリン・モンローに変えていたため、結婚後はマリリン・モンロー・ミラー、奇しくも芸名の由来であったマリリン・ミラーと同じ姓名となった。
 (左の写真) アーサー・ミラーとの結婚式時

 ・20世紀FOX社と再契約し、『バス停留所』 (1956年/監督:ジョシュア・ローガンに出演。マリリンの演技は好評を博し、ゴールデン・グローブ賞の主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門) にノミネートもされた。
 (右の写真) 『バス停留所』 ドン・マレーと
Bus_Stop

Marilyn_1956
 ・ロンドンの舞台でローレンス・オリヴィエヴィヴィアン・リーが共演し、好評を博した 「眠りの森の王子」 の映画化権を取得。ワーナー・ブラザース社のバックアップを得て、「マリリン・モンロー・プロダクション」 で 『王子と踊子』 (1957年) を製作。
 (左の写真) 左から、ローレンス・オリヴィエ、ヴィヴィアン・リー、マリリン・モンロー、
  アーサー・ミラー。1956年、ロンドンにて

 当時、最も尊敬されていた演劇人の1人、ローレンス・オリヴィエを共同製作者、監督兼主演男優として迎えて撮った意欲作だったが、芳しい評価を得ることが出来なかった。
 「マリリン・モンロー・プロダクション」 を共に設立したミルトン・H・グリーンはマリリンに解雇された。
 (右の写真) 『王子と踊子』 ローレンス・オリヴィエと
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Marilyn_1957
 ・女優としてブレイクした頃から情緒不安定となっていたが、『王子と踊子』 の撮影時はオリヴィエとの相性も悪く、マリリンの精神状態は更に酷くなっていたという。
 帰国後、1年半近くの休養を取得したが、この間、睡眠薬の過剰摂取で入院し、また、流産もした。
 (左の写真) アーサー・ミラーと

 ・ビリー・ワイルダー監督と再び組んだ 『お熱いのがお好き』 (1959年) の撮影時も、遅刻や台詞忘れの常習犯、トラブル・メーカーだったとの伝説が残っているが、完成したフィルムの中では圧巻のパフォーマンスを披露し、ゴールデン・グローブ賞の主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門) を受賞。
 マリリンのキャリアで最も人気の高い代表作となった。ププッピドゥー
 (右の写真) 『お熱いのがお好き』 トニー・カーティス
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Let's_Make_Love
 ・ミュージカル・コメディ作 『恋をしましょう』 (1960年/監督:ジョージ・キューカーは、批評的にも興行的に今ひとつだった。
 この時期、『ティファニーで朝食を』 (1961年) のヒロイン役という話があったが、最終的にオードリー・ヘップバーンが起用された。マリリンが辞退したとも、製作サイド (パラマウント社) がトラブル・メーカーである彼女の起用を躊躇したとも言われている。 (左の写真) 『恋をしましょう』 イブ・モンタン

 ・当時の夫アーサー・ミラーが執筆した 『荒馬と女』 (1961年/監督:ジョン・ヒューストン) に出演。遺作となった。
 脚本家として撮影に参加していたアーサー・ミラーとの関係が悪化し、撮影後 (映画の公開前) の1961年1月に離婚。
 マリリンの1番の望みは、演技が賞賛され、尊敬される女優となることだった。本作での演技は、現在では彼女の最高の演技の1つとして評価されているが、公開当時はあまり評判にもならず、作品の興行成績も芳しくなかった。
 (右の写真) 『荒馬と女』 撮影時。モンゴメリー・クリフト(左)、クラーク・ゲーブルと 
The_Misfits
 * アーサー・ミラーは、本作の撮影に同行していた女性カメラマンのインゲ・モラスと1962年に再婚した。

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 ・アーサー・ミラーとの離婚後、胆のう摘出手術を受け、精神病の治療を受けるなど、心身ともに酷い状態だったマリリンを支えたのは、元夫のジョー・ディマジオだった。
 2人は再婚をする心づもりであったとの話もある。
 (左の写真) ジョー・ディマジオと。1961年

 ・映画女優としてブレイクしてから亡くなるまで、何とも劇的な10年間だったが、その最たるものはケネディ大統領との関係だ。フランク・シナトラの仲介で知り合ったと言うから1960年の大統領選挙の前後だと思われる。
 1962年5月、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催されたケネディの誕生日パーティにも参加した。
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 「Happy Birthday, Mr. President 」 を歌うマリリン



 ・亡くなる前は、未完成に終わった 『Something's Got to Give 』 の撮影に臨んでいた。「マリリン・モンロー・プロダクション」 と20世紀FOX社とのタイアップ作で、監督はジョージ・キューカー、共演はディーン・マーティンだった。
 体調不良により度々撮影に穴を空け、一度は20世紀FOX社から解雇を通告されていたが、監督の交代など、マリリンの要望を受け入れ、撮影の再開が決まっていたが…。 (右の写真) 『Something's Got to Give
Something's_Got_to_Give

Joe_DiMaggio-2
 ・1962年8月36歳で他界。
 葬儀はジョー・ディマジオが取り仕切ったが、映画関係者は1人も呼ばれなかった。ディマジオは女優を辞めるように勧めていたのではないだろうか?
 ディマジオは再婚もせず、20年間マリリンの墓にバラの花を贈り続けた。
 亡くなる前、友人に 「死んだらマリリンに会える 」 と語ったという。
 (左の写真) マリリンの葬儀でのジョー・ディマジオ(左)

 ・マリリンの死因は睡眠薬の多量摂取による自殺と発表されたが、事故説、陰謀説など様々な憶測を呼び続けている。
 素顔のノーマ・ジーンを知る由もない大衆にとって、カメラの前のマリリン・モンローと自殺を結びつけることは、今なお困難であり、信じがたい事のようだ。
 (右の写真) 『七年目の浮気』 撮影時
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 ・1999年、AFI (アメリカ映画協会)が選定した 「伝説のスター・ベスト50」 で、女優部門の第6位に選出。

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< マリリン・モンロー写真館 >

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