20世紀・シネマ・パラダイス
ローレンス・オリヴィエ
Laurence Olivier
1907-1989(イギリス)
愛称:ラリー(
Larry
)
◆
代表作
嵐が丘
Wuthering Heights
(1939年/アメリカ)
レベッカ
Rebecca
(1940年/アメリカ)
ヘンリィ五世
Henry V
(1944年/イギリス)
ハムレット
Hamlet
(1948年/イギリス)
探偵スルース
Sleuth
(1972年/アメリカ・イギリス)
リトル・ロマンス
A Little Romance
(1979年/アメリカ)
◆
20世紀のイギリスを代表する名優
・
1907年
、英国サリー州生まれ。父親は国教会の司教。15歳の時に、教会聖歌隊の公演で、シェークスピア劇「じゃじゃ馬ならし」に出演。以後、学校演劇などに出演し、役者を志すようになった。
・1925年、プロの役者として初舞台に立ち、1929年にブロードウェイ・デビュー。『
The Temporary Widow
』
(1930年/英・独)
で銀幕デビューを果たした。
・1930年、舞台で共演した女優のジル・エズモンドと結婚。1936年に長男を授かった。
(右の写真)最初の妻、ジル・エズモンドと
・ブロードウェイの舞台劇「私生活」
(1931年)
が好評を博し、ハリウッドへ招かれ、
アドルフ・マンジュー
主演の『
Friends and Lovers
』、エリッサ・ランディ主演の『貞操切符』
(1931年)
、
アン・ハーディング
主演の『心のふるさと』
(1932年)
に出演。
(左の写真)『心のふるさと』 アン・ハーディングと
・イギリスに戻り、
グロリア・スワンソン
の相手役を務めた『彼女の選んだ道』
(1933年)
、初の主演映画となったシェークスピアの『お気に召すまま』
(1936年)
等に出演。
(右の写真)『お気に召すまま』
・『無敵艦隊』
(1937年)
で、
ヴィヴィアン・リー
と初共演。その後、2人はデンマークでの舞台「ハムレット」 、イギリス映画『21日間』
(1940年)
でも共演。ヴィヴィアン・リーも既婚者で娘もいたが、2人は恋に落ちた。
*
『21日間』 … 1940年公開だが、撮影は『嵐が丘』よりも先に済んでいた。
(左の写真)『無敵艦隊』 ヴィヴィアン・リーと
舞台「ハムレット」 ヴィヴィアン・リーと
『21日間』 ヴィヴィアン・リーと
・ハリウッドでの初主演作『嵐が丘』
(1939年/監督:
ウィリアム・ワイラー
)
で、アカデミー賞主演男優賞に初ノミネート。
同作の撮影中、アメリカへ渡って来たヴィヴィアン・リーが
『風と共に去りぬ』
のスカーレット・オハラ役を射止めている。
(右の写真)『嵐が丘』 マール・オベロンと
・
『レベッカ』
(1940年/監督:
アルフレッド・ヒッチコック
)
で、2年連続アカデミー賞主演男優賞にノミネート。
(左の写真)『レベッカ』
ジョーン・フォンテイン
と
・『高慢と偏見』
(1940年)
の撮影後、ブロードウェイの舞台「ロミオとジュリエット」で、ヴィヴィアン・リーと共演。各々の離婚が成立し、1940年8月に再婚した。
(右の写真) 『高慢と偏見』
グリア・ガースン
と
舞台「ロミオとジュリエット」 ヴィヴィアン・リーと
ヴィヴィアン・リーと
・夫婦となったヴィヴィアン・リーと、イギリス映画『美女ありき』
(1940年)
で共演。
(左の写真)『美女ありき』 ヴィヴィアン・リーと
・第2次世界大戦中、イギリス政府からの要請で、国民の戦意高揚のため、シェークスピアの『ヘンリィ五世』を製作(共同)・監督・主演。
・『ヘンリィ五世』は、イギリスでは1944年、アメリカでは翌年に公開され、米アカデミー賞の作品賞、主演男優賞(3度目)など4部門でノミネート。受賞は逃したが、製作・監督・主演をこなしたオリヴィエには特別賞が贈呈された。
オスカー像は、同じイギリスの俳優
レイ・ミランド
と共にイギリスへ渡り、『ハムレット』の撮影現場で手渡された。
(右の写真)『ヘンリィ五世』
レイ・ミランド(左)と
オスカー像を手に
・1947年、ナイト爵を授与された。
・製作・監督・主演した『ハムレット』
(1948年)
で、アカデミー賞の作品賞、主演男優賞、美術賞、衣装デザイン賞の4部門を受賞。作品賞を受賞した最初の外国映画であり、自らの監督作品で主演男優賞を受賞したのは、『ライフ・イズ・ビューティフル』
(1998年)
のロベルト・ベニーニが達成するまでオリヴィエだけだった。
また、同作品はヴェネツィア国際映画祭のグランプリ(金獅子賞)を受賞。アカデミー賞作品賞とのダブル受賞は史上初の快挙だった。
(左の写真)『ハムレット』
ジーン・シモンズ
と
・1948年、夫妻でオーストラリアとニュージーランドでの巡業公演に出立。ヴィヴィアン・リーに躁鬱病の症状が現れ始め、オリヴィエを苦しめることとなった。
・1949年、ロンドンの舞台で、ヴィヴィアン・リー主演の「欲望という名の電車」を監督。9ケ月のロングランとなる大ヒットとなった。
・戦後初のハリウッド映画『黄昏』
(1952年/監督:ウィリアム・ワイラー)
に出演。その後、ロンドンとブロードウェイの舞台で、「アントニーとクレオパトラ」、「シーザーとクレオパトラ」に夫婦で出演。
『黄昏』
ジェニファー・ジョーンズ
と
舞台「アントニーとクレオパトラ」 ヴィヴィアン・リーと
・1953年、ヴィヴィアン・リーが、ハリウッド映画『巨象の道』の撮影中に神経衰弱でダウン。
空港で担架に乗せられた彼女に大勢のマスコミがカメラを向けたが、オリヴィエが、「
私は今、病気の妻を運んでいるのです
」と注意をしたら、皆、一斉にカメラを下に向けたという。
回復したヴィヴィアン・リーと、ロンドンの舞台劇「眠りの森の王子」で共演。
(右の写真)舞台「眠りの森の王子」 ヴィヴィアン・リーと
・イギリスで製作(共同)・監督・主演したシェークスピアの『リチャード三世』
(1955年)
で、アカデミー賞主演男優賞にノミネート(5度目)。
シェークスピア俳優とも呼ばれたオリヴィエが、自ら監督・主演したシェークスピア映画は、『ヘンリィ五世』、『ハムレット』、『リチャード三世』の3作品。
(左の写真)『リチャード三世』
・1955年、ヴィヴィアン・リーと、イギリスの舞台でシェークスピアの『十二夜』、『マクベス』等に出演。
・ヴィヴィアン・リーと共演した舞台「眠りの森の王子」の映画化権を取得した
マリリン・モンロー
に請われ、『王子と踊子』
(1957年)
を製作・監督・出演。撮影中は苦労の連続で、オリヴィエは引き受けたことを後悔していたと言われている。
*
『マリリン 7日間の恋』(2011年)
は、同作の製作時の舞台裏を描いている。
左から、オリヴィエ、ヴィヴィアン・リー、
マリリン・モンロー、アーサー・ミラー
『王子と踊子』 マリリン・モンローと
・1957年、ヴィヴィアン・リーと共に、シェークスピア劇「タイタス・アンドロニカス」の欧州巡業公演。夫婦の最後の共演となった。1958年に別居し、1960年に離婚が成立。尚、ヴィヴィアン・リーは、1945年と1956年にオリヴィエの子を流産している。
・『寄席芸人』
(1960年)
でアカデミー賞主演男優賞にノミネート(6度目)。同作で共演した女優のジョーン・プロウライトと翌年に再婚。3人の子供を授かり、オリヴィエが亡くなるまで連れ添った。
『寄席芸人』(1960年)
ジョーン・プロウライトと
『スパルタカス』
(1960年/監督:
スタンリー・キューブリック
)
ジーン・シモンズと
・1962年から1963年まで、国立劇場劇団の監督を務めた。
・『オセロ』
(1965年
)で、アカデミー賞主演男優賞にノミネート(7度目)。
(右の写真)『オセロ』
・1970年、貴族(ロード)の爵位が与えられ、男爵となった。俳優では初。
・『探偵スルース』
(1972年/監督:
ジョゼフ・L・マンキーウィッツ
)
で、アカデミー賞主演男優賞にノミネート(8度目)。
(左の写真)『探偵スルース』 マイケル・ケインと
・1974年、舞台俳優としては引退。
・『マラソンマン』
(1976年/監督:ジョン・シュレシンジャー)
で、アカデミー賞助演男優賞にノミネート。
(右の写真) 『マラソンマン』
・『ブラジルから来た少年』
(1978年/監督:フランクリン・J・シャフナー)
で、アカデミー賞主演男優賞にノミネート(9度目)。
主演男優賞9度のノミネートは、
スペンサー・トレーシー
と並び同賞の歴代最多
(2014年現在)
。
(左の写真)『ブラジルから来た少年』
・1979年、アカデミー賞名誉賞を受賞。
(右の写真)プレゼンターの
ケーリー・グラント
(左)と
・1983年、ゴールデン・グローブ賞のセシル・B・デミル賞を受賞。
・1984年、自伝「一俳優の告白」を出版。 『ウォー・レクイエム』
(1989年)
が遺作となった。
『リトル・ロマンス』(
1979年/監督:ジョージ・ロイ・ヒル)
ダイアン・レイン (右)
『ウォー・レクイエム』(1989年)
・
1989年
、
82歳
で他界。
・AFI(アメリカ映画協会)が1999年に選定した「伝説のスター・ベスト50」で、男優部門の第14位に選出。
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