20世紀・シネマ・パラダイス
アルフレッド・ヒッチコック
Alfred Hitchcock
1899-1980 (イギリス/アメリカ)
◆
代表作
レベッカ
Rebecca
(1940年/アメリカ)
断崖
Suspicion
(1941年/アメリカ)
汚名
Notorious
(1946年/アメリカ)
裏窓
Rear Window
(1954年/アメリカ)
めまい
Vertigo
(1958年/アメリカ)
北北西に進路を取れ
North by Northwest
(1959年/アメリカ)
サイコ
Psycho
(1960年/アメリカ)
鳥
The Birds
(1963年/アメリカ)
◆
サスペンス映画の神様
・
1899年
、ロンドン生まれ。実家は青果や鶏肉の卸売業を営んでいた。5歳の時に父親の言つけに背いた罰として留置場に入れられ、以来、警察嫌いになったというエピソードがあるが、これは本人の作り話とも言われている。
1908年から1913年までは、カトリック系の聖イグナチウス校の寄宿舎で過ごした。
1914年に父親が亡くなり、家計を助けるために電信ケーブル会社で働き始めた。製図を描き、後に広告を手掛けた。
・1919年、アメリカのフェーマス・プレイヤーズ社
(後のパラマウント社 )
が、 ロンドンのイズリントンに設立した撮影所に入社。タイトルデザインを数本手がけた後、美術監督となった。その後、撮影所は映画製作者マイケル・バルコンに 買収されたが、ヒッチコックはそのまま雇われ、美術監督の他、脚本家、助監督なども務めるようになった。初の監督作品『第十三番』
(1922年)
は、製作費を工面出来ずに製作中止となった。
(右の写真)若い頃のヒッチコック監督
・マイケル・バルコン製作の『快楽の園』
(1925年)
で監督デビュー。ドイツで撮影された作品だが、ヒッチコックは当時のドイツの巨匠
F・W・ムルナウ
や
フリッツ・ラング
の作品に感銘し、影響を受けたとされている。
・1926年、『快楽の園』で撮影記録係を務めていたアルマ・レヴィルと結婚。
彼女は『断崖』や『疑惑の影』等の脚本家としても活躍。ヒッチコックの最大の理解者として、彼が亡くなるまで連れ添った。
(左の写真)アルマ・レヴィルとの結婚式
・1928年、一人娘パトリシアを授かった。
彼女は女優となり、『舞台恐怖症』、『見知らぬ乗客』、『サイコ』に出演した。
(右の写真)妻と娘と
・監督3作目で初のサスペンス、‟切り裂きジャック”をモデルとした『下宿人』
(1927年)
を撮った。ヒッチコックがカメオ出演した最初の作品でもある。製作費を抑えるためのエキストラ出演だったが、以後、ヒッチコック作品のお約束事となり、ファンを楽しませることとなった。
初のサスペンス
『下宿人』
(1927年)
下宿人役のアイヴァー・ノヴェロ
『下宿人』 ヒッチコックの初登場シーン
*
洋楽ファンならご存知の「アイヴァー・ノヴェロ賞」のその人です。
初のトーキー
『恐喝(ゆすり)』
(1929年)
アニー・オンドラ
撮影時。アニー・オンドラと
初期の傑作
『暗殺者の家』
(1934年)
ピーター・ローレ
、レスリー・バンクス(右)
撮影時。ピーター・ローレ(右)と
イギリス時代の最高傑作
『三十九夜』
(1935年)
ロバート・ドーナット、
マデリーン・キャロル
撮影時
ロバート・ドーナット(左)、マデリーン・キャロルと
イギリス時代の傑作
『バルカン超特急』
(1938年)
マイケル・レッドグレイブ、マーガレット・ロックウッド
撮影時。
マーガレット・ロックウッドと
・『バルカン超特急』でニューヨーク映画批評家協会賞の監督賞を受賞。国際的な名声を得ていたヒッチコックは、独立系の映画製作者
デビット・O・セルズニック
に招かれ、ハリウッドへ渡った。
(左の写真)デビット・O・セルズニック(左)と
・ハリウッドでの1作目
『レベッカ』
(1940年)
は、アカデミー賞の作品賞、監督賞など11部門でノミネートされ、作品賞と撮影賞
(白黒部門)
の2部門で受賞した。
『レベッカ』(1940年)
ジョーン・フォンテイン
、
ローレンス・オリヴィエ
撮影時
ジョーン・フォンテイン、ローレンス・オリヴィエと
・2作目の『海外特派員』
(1940年/製作:
ウォルター・ウェンジャー
)
も、作品賞など6部門でノミネートされたが、こちらは無冠に終わった。同作の主役のオファーを断った
ゲーリー・クーパー
は、完成した映画を観て、辞退したことを後悔したと言われている。
『海外特派員』(1940年)
ジョエル・マクリー
、ラレイン・ディ
撮影時
ジョエル・マクリー、ハーバート・マーシャルと
・『スミス夫妻』
(1941年)
は、ヒッチコックの最初で最後のコメディ・ロマンス作品。
キャロル・ロンバード
の要望に応じて監督したが、やっぱりブロンドの美人には弱かったのかな?
『スミス夫妻』(1941年)
ロバート・モンゴメリー、キャロル・ロンバード
撮影時
ロバート・モンゴメリー、キャロル・ロンバードと
・セルズニック製作の2作目
『断崖』
(1941年)
は、アカデミー賞の作品賞を含む3部門でノミネートされ、ジョーン・フォンテインが主演女優賞を受賞。ヒッチコック作品でオスカーを獲得した唯一の俳優となった。また、同作で初めて組んだ
ケーリー・グラント
は、ヒッチコックの1番のお気に入りの男優となった。
『断崖』(1941年)
ケーリー・グラント、ジョーン・フォンテイン
撮影時
ケーリー・グラント、ジョーン・フォンテインと
『逃走迷路』(1942年)
ロバート・カミングス、プリシラ・レイン
撮影時
プリシラ・レイン、ノーマン・ロイドと
『疑惑の影』(1943年)
テレサ・ライト
、
ジョゼフ・コットン
撮影時
テレサ・ライト(右)と
・『救命艇』
(1944年)
は、タイトル通り、救命艇内を舞台とした密室サスペンス。ヒッチコックは新聞のダイエット広告のモデルとして登場。カメオ出演の最高傑作? ヒッチコックは2度目のアカデミー賞監督賞候補に。
『救命艇』(1944年)
ヒッチコック監督のカメオ出演シーン
撮影時
タルラー・バンクヘッドと
・1944年、第2次世界大戦の激化に伴いイギリスに帰国。英国情報省の依頼により、フランス戦線の戦意高揚映画を撮った。
・戦後、ハリウッドに戻り、セルズニック製作のニューロティック(異常心理)サスペンス
『白い恐怖』
(1945年)
を監督。主演は人気絶頂期の
イングリッド・バーグマン
。大ヒットし、アカデミー賞の作品賞、監督賞(3度目)など6部門でノミネートされ、劇・喜劇映画音楽賞を受賞した。
『
白い恐怖』(1945年)
グレゴリー・ペック
、イングリッド・バーグマン
撮影時
イングリッド・バーグマン、グレゴリー・ペックと
・イングリッド・バーグマンとケーリー・グラントが共演した
『汚名』
(1946年)
も大ヒット。当時の映画倫理規程では、キスは3秒以内と定められていたが、ヒッチコックは持ち前の悪戯心とサービス精神を発揮して、主役の2人に3秒以内のキスを連続させて、2分半にも及ぶキス・シーンを展開して見せた。
『汚名』(1946年)
イングリッド・バーグマン、ケーリー・グラント
撮影時
ケーリー・グラント、イングリッド・バーグマンと
・『パラダイン夫人の恋』
(1947年)
が、セルズニックとの契約下での最後の作品となった。
『
パラダイン夫人の恋』(1947年)
グレゴリー・ペック、
アリダ・ヴァリ
撮影時
*
*
後列左から、ヒッチコック、ルイ・ジュールダン、セルズニック、
チャールズ・ロートン
、チャールズ・コバーン、グレゴリー・ペック。 前列左から、ジョーン・テッツェル、アン・トッド、エセル・バリモア
・旧知のシドニー・バーンスタインと映画製作会社「トランス・アトランティック社」を設立。新会社での1作目は『ロープ』
(1948年)
。自身初のカラーで、映画の中の時間と実際の時間が同時に進み、それをワン・ショットで撮るという実験的な意欲作だったが、興行的には失敗作となった。
『ロープ』(1948年)
ジェームズ・ステュアート
撮影時。左から、ファーリー・グレンジャー、
ジョン・ドール、ジェームズ・ステュアート(右)と
・非サスペンスの『山羊座のもとに』
(1949年)
は、イングリッド・バーグマンの為に撮った作品とも言われている。公開時にバーグマンと
ロッセリーニ
のスキャンダルが発覚していたこともあって、興行的には失敗作となった。
『山羊座のもとに』
(1949年)
イングリッド・バーグマン
撮影時
イングリッド・バーグマンと
・2作続けて興行的に失敗作となり、「トランス・アトランティック社」は解散に追い込まれた。
お気に入りの女優だったイングリッド・バーグマンはイタリアに愛の逃避行。
ヒッチコックにとって辛い時期だった?
< 次ページ >
HOME