20世紀・シネマ・パラダイス
F・W・ムルナウ
Friedrich Wilhelm Murnau
1888-1931(ドイツ)
◆
代表作
吸血鬼ノスフェラトゥ
Nosferatu, eine Symphonie des Grauens
(1922年/ドイツ)
最後の人
Der Letzte Mann
(1924年/ドイツ)
サンライズ
Sunrise
(1927年/アメリカ)
四人の悪魔
4 Devils
(1928年/アメリカ)
◆
サイレント期の映像の魔術師
・
1888年
、 ドイツのビーレフェルト生れ。ショーペンハウエルやニーチェを愛読し、ハイデルベルク大学では哲学と美術史を専攻していた。学生演劇に出演していたとこ ろ、舞台演出家のマックス・ラインハルトに誘われ、ベルリンの舞台にも立った。その後、1914年に召集され、ドイツ空軍の一員として第1次世界大戦に参 戦した。
・戦後、『
Der Knabe in Blau
』
(1919年)
で映画監督としてデビューし、『サタン』、『ジェキル博士とハイド』
(1920年)
等を監督。
*
マックス・ラインハルト … ドイツ演劇界で「皇帝」と称された演出家。アメリカへ渡り、
オリヴィア・デ・ハヴィラン
ド
のデビュー作『真夏の夜の夢』
(1934年)等を撮った。
・『吸血鬼ノスフェラトゥ』
(1922年)
。恐怖小説「ドラキュラ」
(1897年)
の映画化権が得られず、名前を「ノスフェラトゥ(不死者)」に変えるなど、独自の解釈により完成させた作品。
ハリウッドの『魔人ドラキュラ』より9年も前に製作された吸血鬼映画の元祖。
(左の写真) 『吸血鬼ノスフェラトゥ』
・ドイツ最大のスタジオ、ウーファ社と契約し、『最後の人』
(1924年)
を監督。サイレント映画につきものの中間字幕を排除し、映像作家としての手腕を発揮。国際的な名声を確立した。但し、悲劇的だった結末は、社の方針により、安直なハッピーエンドに変えられてしまった。
(右の写真)『最後の人』
エミール・ヤニングス
・予算無制限という破格の条件で、大作『ファウスト』
(1926年)
を監督。同作を撮り終えた後、FOX社に招かれ、ハリウッドへ渡った。
(左の写真)『ファウスト』 エミール・ヤニングス
『ファウスト』撮影時
ムルナウ監督(左)、エミール・ヤニングス(右)
・ハリウッドでの1作目
『サンライズ』
(1927年)
は、第1回アカデミー賞で芸術作品賞、主演女優賞
(
ジャネット・ゲイナー
)
、撮影賞を受賞。サイレント期を代表する古典的名作として高く評価されている。
*
芸術作品賞は第1回のみ設けられていた。
(右の写真)『サンライズ』ジョージ・オブライエン、ジャネット・ゲイナー
・『サンライズ』と同じくジャネット・ゲイナーがヒロインの『四人の悪魔』
(1928年)
は、ムルナウ監督の傑作の1本とされていたが、フィルムが消失し、現在では観る事が出来ない。
(左の写真)『四人の悪魔』 左から、バリー・ノートン、ナンシー・ドレクセル、ジャネット・ゲイナー、チャールズ・モートン
・FOX社での3作目『都会の女』
(1930年)
を撮った後、ドキュメンタリー映画の先駆者ロバート・フラハティとタヒチ島で『タブウ』
(1931年)
を撮った。同作はアカデミー賞撮影賞を受賞した。
・『都会の女』撮影中からFOX社と衝突していたため、『タブウ』はパラマウント社が買い取り、同社と長期契約も交わしていたが、同作の公開前に交通事故で亡くなった。享年
42歳
。
・ドイツでの葬儀では、同時代の巨匠
フリッツ・ラング
監督が弔辞を読んだ。
・サイレント末期に卓越した映像表現で名を成したムルナウ監督。FOX社では、あの
ジョン・フォード
監督もムルナウ監督を訪ね、教えを請うたという。
(右の写真)『サンライズ』撮影時。左から、ジョージ・オブライエン、 マーガレット・リヴィングストン、ジャネット・ゲイナー、ムルナウ監督
!
友人だった
グレタ・ガルボ
が、長年、ムルナウ監督のデスマスクを所持していたという。
!
2015年、何者かがムルナウ監督の墓から頭蓋骨を盗み出す事件が発生した。
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