20世紀・シネマ・パラダ
イス
グレタ・ガ
ルボ
Greta Garbo
1905-1990 (スウェーデン/アメリカ)
◆ 代表作
肉体と悪魔 Flesh and the Devil (1926年/アメリカ)
アンナ・クリスティ
Anna Christie
(1930年/アメリカ)
グラ
ンド・ホテル
Grand Hotel
(1932年/アメリカ)
アンナ・カレニナ
Anna Karenina
(1935年/アメリカ)
椿姫
Camille
(1936年/アメリカ)
ニノチカ
Ninotchka
(1939年/アメリカ)
◆ “神聖ガルボ帝国”
伝説のスーパースター
・1905年 、スウェーデンの首都ストックホルムにて、3人兄妹の末っ子と
して生まれた。本名はGreta Lovisa Gustafsson 。家庭が貧しく、6歳の時には新聞販売員をして小遣いを稼いでいた。
13歳で公立学校を卒業し、理髪店で働き始めた。14歳の時に父親をスペイン風邪で亡くし、その後、知人の紹介でPUBデパートに採用され、帽
子、次に婦人服の販売員となった。
(右の写真)子供の頃のガルボ
・1920年、PUBデパートの創立40周年を記念して製作された宣伝映画に婦人服のモ
デルの1人として出演。これがガルボの映画初主演。
・1921年、PUBデパートの宣伝映画と同じ監督が撮ったスウェーデンのパン菓子の宣
伝映画に出演。この作品は、平和記念東京博覧会(1922年) でも上映された。
同年、エキストラとして2〜3本の映画に出演。姉と一緒に出演した作品もある。
(左の写真)パン菓子の宣伝映画。 16歳のガルボ。
・1922年、喜劇役者エーリック・ペチュレルにスカウトされ、彼が監督・主演の
『放浪者ペッテル』に出演。ガルボの初の商業用映画であり、プロの役者としてのデビュー作品。
マック・セネット 率いるキーストン社の
「水着美人」さながら、水着姿を披露した。
(右の写真)『放浪者ペッテル』
・『放浪者ペッテル』
出演に際し、PUBデパートを辞めていたガルボは、ペチュレルのアドバイスにより、王立演劇アカデミーのオーディションを受け、合格。奨学金を得て、2年
間演技を学んだ。
・新人女優を探しに王立演劇アカデミーを訪ねたモーリス・スティルレル監督にスカウトさ
れ、『イエスタ・ベルリングの伝説』(1924年) に出演。
当作品から、本名のグレタ・グスタフソン改め、グレタ・ガルボの芸名を名乗るようになった。
(左の写真)『イエスタ・ベルリングの伝説』
・『イエスタ・ベルリングの伝説』のPRで、スティルレル監督と一緒にドイツへ。スティルレル監督は、ベルリンへ来ていたMGM社のルイス・B・メイヤー と面談し、ハリウッドへ招かれ
た。その時にガルボを売り込んだが、メイヤーがガルボに対して抱いた最初の印象は、「太っていてハリウッドでは売れない 」、
だったとの伝説が残っている。
・ドイツで1本だけ、G・W・パブスト監督の『喜びなき街』(1925年) に出演。
* G・W・パブスト監督 : ルイーズ・ブルック
ス 主演の『パンドラの箱』 (1929年)、『三文オペラ』 (1931年)等を撮ったドイツの巨匠。
(右の写真)『喜びなき街』
・1925年、スティルレル監督と一緒に渡米。9月18日、20歳の誕生日にMGM社と
の最終的な契約を締結した。
* モーリス・スティルレル監督 … 『吹雪の夜』(1919
年) などで世界的な名声を得ていたスウェーデンの巨匠。ガルボを映画女優として磨き上げた人物と言われている。
(左の写真)モーリス・スティルレル監督と
・ハリウッドでの最初の映画『イバニエスの激流』(1926年) に出演。
(右の写真)『イバニエスの激流』 リカルド・コルテスと
・2作目の『明眸罪あり』
は、スティルレル監督で撮影がスタートしたが、彼はスタッフと揉めて途中降板。MGM社との契約を破棄された。
・スティルレルはその後、パラマウント社でポー
ラ・ネグリ 主演の『帝国ホテル』(1926年) 等を撮ったが、帰国して1928年に他界した。
・スティルレルとルイス・B・メイヤーを引き合わせた人物は、『霊魂の不滅』
(1921年) などを撮り、「スウェーデン映画の父」と称された名監督のビクトル・シェストレム。ガルボ達よりも先にハリウッドへ招かれており、ハリウッドでガルボ主演の『崇高なる女性』(1928年) 、リリアン・ギッシュ 主演の『風』(1928年) 等の名作を撮った。1930年にスウェーデンに帰国。後年、俳優としてイングマール・ベルイマン 監督の『野いちご』(1957年) 等に出演もした。
(左の写真)左から、ビクトル・シェストレム、ガルボ、
モーリス・スティルレル
南カリフォルニア大学陸上
部とのフォト・セッション
(1926年)
MGM社のシンボル、ライ
オンのレオとのフォト・セッション
(1926年)
・ハリウッドでの3作目『肉体と悪魔』(1926年/監督:クラレンス・ブラウン ) で、MGM社のトップスターだったジョン・ギルバート と初共演。熱烈なラブ・シーンが話題となり、大ヒット。ガルボは一躍人気スターとなった。実は撮影前に母国スウェーデンの姉が病死しており、ガルボは一度出演を断っていたという。
(右の写真)『肉体と悪魔』 ジョン・ギルバートと
・ジョン・ギルバートと再共演した『アンナ・カレニナ』(1927年) も大ヒット。『接吻』(1929年/監督:ジャック・フェデー ) まで、合計10本のサイレント映画に出演。ハリウッドを代表する大女優となった。
『アンナ・カレニナ』(1927年) ジョン・ギルバートと
『恋多き女』(1928年) ジョン・ギルバートと
・ ガルボ初のトーキー『アンナ・クリスティ』(1930年) の宣伝コピーは 「Garbo talks! 」(ガルボが喋る)。
前年、人気コンビだったジョン・ギルバートが、自身初のトーキー『彼の栄光の夜』で、イメージとかけ離れたキンキン声で人気を失墜させていた。
(左の写真)『アンナ・クリスティ』
・果たしてガルボはどんな声なのか?。観客は固唾を飲んでその第一声を見守った、というエピ
ソードが語り継がれている。
ガルボの第一声は、「Gimme a whiskey, ginger ale
on the side. And don't be stingy, baby! 」(
ウィスキーちょうだい、ジンジャーエールもね。ケチケチしないでよ! )。クールな美貌にマッチしたハスキーボイスで人気は更に上昇した。
(右の写真)『アンナ・クリスティ』
・『アンナ・クリスティ』と『ロマンス』(監督:
クラレンス・ブラウン)の 2作の演技により、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされたが、受賞は逃した。
・『スザン・レノックス』(1931年) では、MGM社の若手のホープ、クラーク・ゲーブル と共演。2人は気が合わなかったそうで、唯
一の共演作となった。
ガルボはゲーリー・クーパー のファンで、共演を望んでいたそうだが
実現はしなかった。
(右の写真)『スザン・レノックス』 クラーク・ゲーブルと
・実在の女スパイに扮した『マタ・ハリ』(1931
年) は、ガルボの主演映画で最も収益をあげた作品。トーキーの時代になっても不動の人気を保った。
(左の写真)『マタ・ハリ』 ラモン・ノヴァロと
・MGM社のオールスターキャスト作品『グランド・ホテル』 (1932年) で
も主役はガルボ。彼女の台詞 「I Want to be alone 」(一人になりたい )は、AFI(アメリカ映画協会)が2005年に選定した「アメリカ映画名セリフ・ベスト100」
の第30位にランクイン。私生活において、孤独を愛したとも言われているガルボが発した台詞ならでは。
(右の写真)『グランド・ホテル』 ジョン・バリモアと
・『クリスチナ女王』(1933年/(監督:ルーベン・マムーリアン ) では、母国スウェーデンの17世紀の女王を演じた。相手役には、人気が凋落していたジョン・ギルバートを指名。全米でその年最大のヒット作品となったが、ギルバートの人気復活とはならず、最後の共演作となった。
(左の写真)『クリスチナ女王』 ジョン・ギルバートと
・『アンナ・カレニナ』(1935年/監督:クラレ
ンス・ブラウン) で、第1回ニューヨーク映画批評家協会賞の主演女優賞を受賞。美貌だけでなく、演技にも定評があった。
(右の写真)『アンナ・カレニナ』 フレドリッ
ク・マーチ と
・『椿姫』(1936年/監督:ジョージ・キューカー ) で、再びニューヨーク映画批評家協会賞
主演女優賞を受賞。アカデミー賞にもノミネートされ、本命視されていたが、MGM社の大ボス、ルイス・B・メイヤーのお気に入りだったルイーゼ・ライナーが2
年連続で受賞。メイヤーはガルボを嫌っていたとも。『椿姫』は、ガルボ本人のお気に入りの作品だった。
(左の写真)『椿姫』 ロバート・テイラー と
・ナポレオン皇帝の愛人マリア・ヴァレフスカを演じた『征服』(1937年/監督:クラレンス・ブラウン) は興行的に失敗作となった。合計7作品で組んだクラレンス・ブラウン監督との最後の作品。
(右の写真)『征服』 シャルル・ボワイエ と
・コメディに再挑戦した『奥様は顔が二つ』(1941
年/監督:ジョージ・キューカー) は、ガルボにとって15本目のトーキー作品。同作を最後に引退した。時にガルボ36歳だった。
(右の写真)『奥様は顔が二つ』 メルヴィン・ダグラスと
・引退後も出演オファーは後を断たず、ガルボも乗り気だった企画もあったようだが実
現することはなかった。
・1954年度のアカデミー賞で名誉賞が贈呈されたが、本人は授賞式に姿を現さなかった。
・私生活では、ジョン・ギルバートや指揮者のレオポルド・ストコフスキー ( 『オーケストラの少女』 等、映画にも出演) などと恋愛の噂もあったが、生涯独身を通した。
・引退後はニューヨークに住み、マスコミを遠ざけ、神秘のベールに包まれたまま、その生涯
を送った。
・1990年 、84歳で 他界。
グ
レタ・ガルボ トリビュート動画
VIDEO
・圧倒的な美貌から、 “スウェーデンの美のスフィン
クス”、 “神聖ガルボ帝国” などと称せられた。その美貌により、ハリウッドのトップスターとなった最初の女優だった。
・AFI(アメリカ映画協会)が1999年に選定した「伝説のスター・ベスト50」
で、女優部門の第5位に選出。