20世紀・シネマ・パラダイス

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Gone with the Wind P1

       風と共に去りぬ
        Gone with the Wind
        監督:ヴィクター・フレミング
        (1939年/アメリカ)
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ハリウッド映画の金字塔
 
 ◆ 原作者マーガレット・ミッチェル Margaret Mitchell

 ・1900年、ジョージア州アトランタ生まれ。ワシントン女学院卒業後、全米で屈指の名門スミス女子大学(マサチューセッツ州)に入学したが、翌年、母親が亡くなり大学を中退。故郷アトランタの新聞社に入社し、コラムの執筆者となった。

 ・1926年、自宅の階段から落ちて足を骨折。寝たきりの生活中に、夫(1925年に再婚した2人目の夫)の勧めで「風と共に去りぬ」の執筆を開始。最終章から書き始め、完成までに6年とも10年とも言われる年月を費やした。

 ・趣味として執筆した小説で、世に出すつもりはなかったそうだが、夫妻の友人だったマクミラン社(出版社)の編集者に原稿を渡したことが転機となった。
 同社は小説を出版する前に映画化権を売り込んだが、無名の新人作家の処女作のため、MGM、ワーナー・ブラザーズ、20世紀フォックス、RKOといった会社に全て断られたという。
 (右の写真)マーガレット・ミッチェル
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 ・1936年、小説「風と共に去りぬ」出版。空前の大ベストセラーとなり(日本では大久保康雄の翻訳で1938年に出版)、今日までの全世界での発行部数は3,000万部(推計)と言われている。

 ・1937年、「風と共に去りぬ」で、ピューリッツァー賞を受賞。
 続編や新作の執筆依頼が後を絶たなかったそうだが、「風と共に去りぬ」の後には、創作活動をしていない。
 (左の写真)自著「風と共に去りぬ」を手にするマーガレット・ミッチェル

 ・1939年、映画『風と共に去りぬ』公開。
 (右の写真)左から、ヴィヴィアン・リークラーク・ゲーブル
 マーガレット・ミッチェル、デビッド・O・セルズニック、
 オリヴィア・デ・ハヴィランド

 ・1949年、地元アトランタで交通事故に遭い他界。享年48歳
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 ◆ 製作者デビッド・O・セルズニック David O. Selznick

 ・1902年、ペンシルベニア州生れ。コロンビア大学卒業後、父親が経営する映画製作会社で働いていたが、会社が倒産した。

 ・サイレント期の伝説のスター、ルドルフ・ヴァレンチノが、アメリカ、カナダの88都市を廻って美人コンテストを実施した模様を収めた短編ドキュメンタリー映画などを監督。

 ・映画製作者となり、MGM社(1926年〜)、パラマウント社(1928年〜)、RKO社(1931年〜)と会社を移り、RKO社で、キャサリン・ヘップバーンの銀幕デビュー作『愛の嗚咽』(1932年/監督:ジョージ・キューカー、特撮の古典的名作『キング・コング』(1933年)等を手掛けて頭角を現した。
 (右の写真)デビッド・O・セルズニック
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 ・1933年、義父だったルイス・B・メイヤーに請われてMGM社へ戻り、オールスター・キャストの『晩餐八時』(1933年/監督:ジョージ・キューカー)グレタ・ガルボ主演の『アンナ・カレニナ』(1935年/監督:クラレンス・ブラウン等を製作。
 * 1930年にルイス・B・メイヤーの娘と結婚していた。

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 ・1935年に独立し、「セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズ」を設立。
 マレーネ・ディートリッヒ主演の『沙漠の花園』(1936年)では、話題作りのために世界で初めて飛行機内で試写会を行った。
 その他、ジャネット・ゲイナー主演の『スタア誕生』、キャロル・ロンバード主演の『無責任時代』(1937年/監督:ウィリアム・A・ウェルマン等のヒット作を製作した。
 (左の写真)マレーネ・ディートリッヒと

 ・1936年、小説「風と共に去りぬ」が出版され、1カ月後に映画化権を取得。南北戦争を背景にした映画は、『國民の創生』(1915年/監督:D・W・グリフィスを除いてヒットした作品がなかったため、セルズニックはあまり乗り気ではなかったという。
 セルズニックは常時5人程の‟ストーリー・スカウト”を雇い、小説や戯曲をチェックさせていたが、その中の1人、ブラウン嬢の熱心な推薦で映画化権の取得を決めたと言われている。
 (右の写真)クラーク・ゲーブルと
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 ・セルズニックが支払った映画化権料は5万ドル。『風と共に去りぬ』が公開された1939年に出版され、翌年ピューリッツァー賞を受賞した「怒りの葡萄」の映画化権料は10万ドル。「怒りの葡萄」の作者ジョン・スタインベックは、既に「二十日鼠と人間」(1937年)等を発表していたプロの人気作家。値段の違いは当然か?
 尚、「二十日鼠と人間」も映画化 (監督:ルイス・マイルストーンされ、アカデミー賞作品賞の候補になったが、『風と共に去りぬ』に敗れた。
 (左の写真)左から、セルズニック、ヴィヴィアン・リー、ヴィクター・フレミング監督


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セルズニック社のロゴ
右から時計回りに、オリヴィア・デ・ハヴィランド、
ヴィヴィアン・リー、セルズニック、レスリー・ハワード

 ・1939年度のアカデミー賞で、『風と共に去りぬ』が作品賞を受賞し、セルズニックはアービング・G・タルバーグ賞も受賞。名実ともにハリウッドを代表する大プロデューサーとなった。
 (右の写真)アカデミー賞授賞式にて。ヴィヴィアン・リーと
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 ・『風と共に去りぬ』よりも一足先に公開された『別離』では、スウェーデンから呼び寄せたイングリッド・バーグマンをハリウッド・デビューさせ、翌1940年には、イギリスから招いたアルフレッド・ヒッチコック監督の『レベッカ』で、2年連続アカデミー賞作品賞を受賞。
 その後も、『白い恐怖』(1945年/監督:アルフレッド・ヒッチコック)、『白昼の決闘』(1946年/監督:キング・ヴィダーといったヒット作を製作した。
 (左の写真)アルフレッド・ヒッチコック監督と

 ・私生活では、最初の妻(ルイス・B・メイヤーの娘)と1948年に離婚し、『白昼の決闘』のヒロインを務めたジェニファー・ジョーンズと1949年に再婚した。

 ・『パラダイン夫人の恋』(1947年/監督:アルフレッド・ヒッチコック)、ジェニファー主演の『ジェニイの肖像』(1948年)が興業的に失敗作となった。
 製作現場に口うるさく介入するセルズニックは、ハリウッドでは嫌われ者となり、活動の場を海外に求めざるを得なくなった。
 (右の写真)2番目の妻ジェニファー・ジョーンズと
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 ・イギリスで『第三の男』(1949年/監督:キャロル・リード、イタリアで『終着駅』(1953年/監督:ヴィットリオ・デ・シーカといった名作を製作。9年ぶりにハリウッドで製作した『武器よさらば』(1957年)が最後の作品となった。尚、『武器よさらば』の製作時にも、意見が対立したジョン・ヒューストン監督を途中で解任している。間違いなく映画製作の天才だったが、他人との協調性が欠けていたようである。

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 ・生涯資金繰りに悩まされ、1944年に『風と共に去りぬ』の全権利を、ビジネス・パートナーのジョン・ヘイ・ホイットニーに40〜50万ドルで売却した。
 * 数年後、ホイットニーは240万ドルでMGM社に権利を売却。

 ・1965年、心臓発作により63歳で他界。
 (左の写真)ヴィヴィアン・リーと。1961年。


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 ◆ 脚色家シドニー・ハワード Sidney Howard

 ・脚色家として白羽の矢が立てられたのがシドニー・ハワード。
 ブロードウェイの舞台劇「They Knew What They Wanted (1924年)で、ピューリッツァー賞(戯曲部門)を受賞し、映画の仕事でも、『人類の戦士』(1931年/監督:ジョン・フォードと、『孔雀夫人』(1936年/監督:ウィリアム・ワイラーで、2度アカデミー賞脚色賞にノミネートされた実績があった。
 (右の写真)シドニー・ハワード
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 ・ 彼が書き上げた脚本は、映画にすると6時間近くになる分量で、黒人奴隷に関する描写等で、倫理コードに抵触する恐れがある部分もあった。元々、原作に ある人種差別的な場面は削除するつもりだったセルズニックは、新たに脚本家のベン・ヘクトと契約して改稿に取り掛かった。
 * ベン・ヘクト … 『暗黒街』(1927年)、『生きているモレア』(1935年)で、2度アカデミー賞原案賞を受賞。

 ・脚本の手直しは難航し、ベン・ヘクトの他にもオリヴァー・ H・P・ギャレット、ジョー・スワーリング、ジョン・ヴァン・ドルーテンが係わったことが確認されている。
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 実際には10名以上が係わったとも言われてお り、その中には、「グレート・ギャツビー(偉大なるギャツビー)」の作家F・スコット・フィッツジェラルドの名前もあるが、彼の原稿は採用されずに契約を打ち切られている。時にはセ ルズニック自らもペンを執ったが、撮影開始時にも脚本は未完成だった。
 (左の写真)撮影時。手前左から、ヴィヴィアン・リー、
 トーマス・ミッチェル、ヴィクター・フレミング監督

 ・ 完成した映画に脚色家として名前がクレジットされたのはシドニー・ハワードだけだった。しかし、彼は映画が公開される4ヶ月程前に亡くなっていた。休暇を 農園で過ごしている時に、トラクターの事故で他界。48歳だった。翌年のアカデミー賞で脚色賞を受賞したが、同賞史上初の死後の受賞者となった。


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 ◆ 監督ヴィクター・フレミング Victor Fleming
 
 ・当初、監督として起用されたのは、「女性映画」の名手と評価されていたジョージ・キューカー
 パラマウント社時代にセルズニックと出会い、その後、RKO社へ移ったセルズニックに呼び寄せられてRKO社へ。そして、セルズニックがMGM社に移ると、キューカーもMGM社へ移っていた。
 (右の写真)左から、クラーク・ゲーブル、
 ヴィヴィアン・リー、ジョージ・キューカー
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 ・『風と共に去りぬ』の撮影開始時、キューカーは『オズの魔法使』の撮影中だったが、セルズニックに引き抜かれた。信頼し合っていた2人だが、『風と共に去りぬ』の演出については意見が対立。更に、女優陣にばかり気を使うキューカーに対して、クラーク・ゲーブルが不満を持ったこともあ り、キューカーは撮影開始から20日間程で解任された。
 (左の写真)ジョージ・キューカーとクラーク・ゲーブル

 ・キューカーが解任された後も、ヴィヴィアン・リーやオリヴィア・デ・ハヴィランドといった女優陣は、キューカーの元を訪ね、演技の指導を受けていたという。また、セルズニックとキューカは、その後も変わらず生涯の友人だった。

 ・キューカーの後任として、ロバート・Z・レナード、キング・ヴィダー、ジャック・コンウェイ の名前があがったが、起用されたのはヴィクター・フレミング。クラーク・ゲーブルとの相性の良さが決め手だった。

 ・ヴィクター・フレミングは、ジョージ・キューカーとは対照的に「男性映画」の監督と評価されていた。
  この時期、フレミングはキューカーの後任として、『オズの魔法使』の撮影中だった。
 (右の写真)左から、ヴィヴィアン・リー、
 クラーク・ゲーブル、ヴィクター・フレミング
Victor Fleming

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 ・ 撮影スケジュールは超過酷で、しかも脚本は遅れがち。セルズニックが口うるさく介入してくる上に、ヴィヴィアン・リーと衝突することも多く、フレミングは撮影途 中でダウンした。しかし、完成を急ぐセルズニックは、フレミングの回復を待つことなく、代役にサム・ウッド監督を起用して撮影を続行。フレミン グは2週間程で復帰した。
 (左の写真)クラーク・ゲーブルとヴィクター・フレミング

 ・1939年1月26日に始まった撮影は、200日は優にかかると言われていたが、セルズニックは最大で5班体制の撮影を行い、125日で終了させた。フ レミング、キューカー、サム・ウッドの他にも数名の監督が携わったとも言われている。撮影されたフィルムは90時間を超えており、最終的に3時間51分の上 映時間となり、途中休憩(Intermission )が設けられた最初の映画となった。
 (右の写真)ヴィクター・フレミングとヴィヴィアン・リー
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 ・撮影途中、固定給から歩合給への変更を持ちかけられたフレミングは、「冗談じゃないよ。この作品は歴代一の失敗作になるかもしれないぜ」と応じたという。
 (左の写真)左から、クラーク・ゲーブル、
 ヴィヴィアン・リー、ヴィクター・フレミング

 ・フレミング監督は、アトランタ市で開催されたプレミア興行には不参加だったが、セルズニックと不仲になったことが原因とも言われている。苦労が報われ、アカデミー賞の監督賞を受賞した。
 (右の写真)左から、ヴィヴィアン・リー、
 クラーク・ゲーブル、ヴィクター・フレミング

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