20世紀・シネマ・パラダ
イス
ハリウッド映画の金字塔
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◆ スカー
レット・オハラ役 ヴィヴィアン・リー Vivien Leigh |
・セルズニックは、映画の事前宣伝も兼ねて、全米各地でスカーレット役のオーディションを実
施。「スカーレット・フィーバー」
と呼ばれ大きな話題となった。応募者は1,400人。特に、物語の舞台であるアトランタでは500人もの応募者が殺到した。
・大ベストセラーのヒロイン役。当時のハリウッド女優のほとんど全てがスカーレット役を望んでいたとも言われており、スクリーン・テストを受けた女優は60名にものぼった。マスコミは、「シャーリー・テンプル以外、全ての女優がスカーレット候補だ」と騒いだ。以下、スカーレット役の有力候補と噂された女優の一部。
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キャサリン・ヘップ
バーン。映画化権の取得を検討していたセルズニックの背中を押した1人とも言われている。
セルズニックの作品で銀幕デビューし、当初の監督が名コンビだったジョージ・キューカーともなれば、当然、候補の1人と見なさ
れていた。しかし、セルズニック曰はく、「レット・バトラーが10年以上も彼女(キャサリン)を追いかけるとは思えない…」。 | |
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| ノーマ・シアラー。MGM
社の看板女優の1人であり、当然の如く噂が立った。しかし、当のご本人は、「スカーレット役は割に合わない役、できればレット・バトラー役をやりたいわ 」
と粋なジョークを飛ばし、噂を否定した。 |
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ベティ・デイビス。ワーナー・ブラザーズ社は、彼女とエロール・フリンのコンビでの貸し出しと、高額な資金提供を提示したが、エロール・フリンよりもク
ラーク・ゲーブルを優先したセルズニックに断られたとの説がある。 |
また、彼女が『黒蘭の女』(1938年)で演じた役が、スカーレットと類似していたことがネックとなり、採用が見送られたとの説も。『黒蘭の女』は、『風と共に去りぬ』
のモノクロ版とも言われている。
更に、
小説の出版前に映画化を打診されたジャック・ワーナーは、ストーリーを気に入り前向きだったが、自社
の看板女優であるベティが興味を示さなかった為に見送ったとする説 もある。 |
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| ミリアム・ホプキンス。
映画の舞台と同じジョージア州出身ということもあり、有力候補との噂が立った。
映画化が決まった当初、原作者のマーガレット・ミッチェルは、スカーレットのイメージに一番近い女優だと感じていた、との話も。 |
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タルラー・バンクヘッド。モノクロのスクリーン・テストでは良かったが、テクニカラーのそ
れにセルズニックが満足しなかった。
セルズニックから、レット・バトラーが通う娼婦館の主人ベル・ワトリング役を打診されたが辞退している。 | |
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セルズニックが最初にスカーレット役の候補に挙げたのが、ミリアム・ホプキンスとタルラー・バンクヘッドの2人だったと言われている。但し、2人とも当
時36歳(1902年生)。年齢的に無理があると考え直したという。ちなみにヴィヴィアン・リーは1913年生まれ。
ヴィヴィアン・リーと共に、最終候補に残っていたのがポーレット・ゴダード、ジーン・アーサー、ジョーン・ベネットの3人。ポーレット・ゴダードは、
ほぼ内定していたが、結婚していないチャップリンと同棲していたことがネックと
なり落選したとの説も。でも、当時のヴィヴィアン・リーとローレンス・オリヴィエの関係も不倫だっ
たのだが…?。
この4人も登場するスクリーン・テストのビデオ ➡ |
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ポーレット・ゴダード |
ジーン・アーサー |
ジョーン・ベネット |
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・原作を読んで以来、スカーレット役を熱望していたヴィヴィアン・リー。イギリスでは注目
の新人女優だったが、アメリカではほとんど無名の時期に、「スカーレットを演じることになるでしょう」
と発言して周囲を唖然とさせたという。
・1938年、イギリスで映画の撮影を終えたヴィヴィアンはアメリカへと飛び立った。目的は2つ。アメリカへ渡っていた恋人のローレンス・オリヴィ
エに会うこと。そして、スカーレット役を射止めること。
オリヴィエのエージェントが、デビッド・O・セルズニックの兄マイロン・セルズニックだというツテもあった。 |
・1938年12月、『風と共に去りぬ』
は、ヒロイン役が未定のまま撮影がスタートしていた。ヴィヴィアンは、マイロンに引率されてデビッド・O・セルズニックを訪ねた。2人が対面したのはアトランタ炎上シーンの撮影現場。マイロンがデビッドに、「お前のスカーレットに合わせてやる」
と紹介。炎を見つめるヴィヴィアンを見たデビッドは、「スカーレットはここにいた!」と心の中で叫んだという伝説が残っている。セルズニック (以下、デビッド・O・セルズニックのこと) 曰く、「彼女は私が考えていたス
カーレット・オハラそのままであった…」。 |
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ヴィヴィアン・リー 『風と共に去りぬ』 のスクリーン・テスト
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・ヴィヴィアン・リーの起用が決定したのは1938年のXマス。セルズニックが映画化権を取得してから2年以上が経過していた。
ハリウッドでは、アメリカ南部の女性であるスカーレットの役を、イギリスの無名の新人女優に奪われたと大騒ぎだったとか。 |
・撮影は過酷だった。スケジュールが過密で、1日20時間以上働くこともあった。監督のヴィクター・フレミングとの相性も良くなく、衝突もした。
恋人のオリヴィエに、「もう嫌、2度と映画に出たくない」と電話で愚痴をこぼしていたと伝えられている。
(右の写真)ヴィクター・フレミング監督と
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・ヴィヴィアンの演技は絶賛され、スカーレット・オハラは映画史上最も名高きヒロインと
なった。
やはり、『風と共に去りぬ』は、ヴィヴィアン・リーあってこその映画である。
(左の写真)クラーク・ゲーブルとゲームで対戦中 |
◆ レット・
バトラー役 クラーク・ゲーブル Clark Gable |
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・MGM社は、クラーク・ゲーブルの貸し出しと125万ドルの資金提供の見返りとして、全
世界での配給権、興行収益の50%という条件を提示し、セルズニックはこの条件を受け入れてゲーブルを起用した。
・ゲーブルは当初、レット役にあまり乗り気ではなかったという。
当時の彼は、恋人のキャロル・ロンバードとの結婚を望んでいたが、前妻から高額な
慰謝料を要求されて困っており、MGM社がその慰謝料を肩代わりすることも出演の条件だった。 |
・少し古い本では、原作者のマーガレット・ミッチェルは、ゲーブルをイメージしながらレッ
ト・バトラーを書いたとされている。どうやらこれは事実ではな
いようだが、そう言われても納得してしまう程の見事なハマリ役だった。ドル箱
(マネー・メイキング)スター・ランキングでは上位の常連。レット役で‟ハリウッドのキング”の地位を不動のものとした。
(右の写真)原作「風と共に去りぬ」
を読んでいるゲーブル |
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・当時のゲーブルは既に総入れ歯。そのため口臭が酷く、ヴィヴィアン・リーから、「歯
を磨いてこない限り、ラヴシーンはお断り」
と言われてしまったとか。こんな不名誉なエピソードが伝わっているのも、伝説の名画、伝説のスターならでは。
(左の写真)左から、ヴィクター・フレミング監督(背中)、
クラーク・ゲーブル、ヴィヴィアン・リー
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・クラーク・ゲーブルは、ヴィヴィアン・リーよりも4ヶ月前の1938年8月に出演契約を結
んでいた。レット・バトラー役も、ゲーブル以外の候補者の名前が伝わっており、中にはエッと驚く意外なスターの名前も。
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ゲーリー・クーパー。
ゲーブルよりも先にオファーを受けていた。本人が辞退したとする説と、既に『暁の討伐隊』(1939年)へ
の起用が決まっており、製作者のサミュエル・ゴールドウィンが譲らなかったとする説がある。
クーパー本人は、「『風と共に去りぬ』 は世紀の失敗作になるかもしれない。その責任を負うのが僕ではなくてゲーブルでよかったよ」
とのコメントを残している。クーパーとゲーブルは私生活では親友だった。 |
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| ロナルド・コールマン。
セルズニック製作の『ゼンダ城の虜』(1937年)の主役でもあったことから、有力候補との噂が立った。ヴィヴィアン・リーと同じくイギリス人。 |
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エロール・フリ
ン。上述の通り、ワーナー・ブラザーズ社がベティ・デイビスとのペアで提示した候補者。 |
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| グルーチョ・マルクス。最大のダークホース? ナンセンス・ギャグで一世を風靡した「マルクス兄弟」の一番の人気者で、一番の奇人変人?
原作者のマーガレット・ミッチェルがマルクス兄弟の大ファンで、グルーチョの起用を望んでいたとか。どこまで真実味のある話か判らないが、もし実現し
ていたら、そんなキャスティングこそナンセンス!?。 |
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