20世紀・シネマ・パラダイス
ハリウッド映画の金字塔
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◆ メラニー・ハミルトン役 オリヴィア・デ・ハヴィランド Olivia De Havilland |
◆ アシュレー・ウィルクス役 レスリー・ハワード Leslie Howard |
・レスリー・ハワードは出演を渋っていたが、セルズニックが、『別離』(1939年)の共同製作者にすることを条件に出演を承諾させた。 |
・セルズニックが映画化権を取得してから3年。製作費400万ドル超(推計)、当時の日本円で約15億円という空前の巨費を投じた超大作がついに完成。
1939年12月15日、物語の主要舞台であり、原作者マーガレット・ミッチェルの故郷でもあるジョージア州アトランタでプレミア興行が開催された。その日は州議会
で休日と定められ、アトランタ市では3日間に渡る祝賀パレードが開催され、延べ100万人がアトランタ市を訪れた。
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『風と共に去りぬ』 アトランタでのプレミア興行時のニュース映像
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・映画は興行成績の記録を塗り替える空前の大ヒット。家庭用ビデオ・DVDが普及するまでは、「世界中で 『風と共に去りぬ』 が上映されない日はない」と言われた程、世界各国でリバイバル上映もされ、インフレ調整後の興行成績では未だに歴代NO.1。
日本では1952年(昭和27年)にやっと初公開され、外国映画としてはその年最大のヒット作となった。
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・ノミネート … 13部門でノミネート。『イヴの総て』(1950年)が14部門でノミネートされるまで最多記録だった。
・受賞 … 作品、主演女優、助演女優、監督、脚色、撮影(カラー部門)、室内装置(美術)、編集の8部門と特別賞(劇的な色彩の使用に対して)を受賞。
8部門での受賞は、『地上より永遠に』(1953年)が並び、『恋の手ほどき』(1958年)が9部門で受賞するまで最多記録だった。 |
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・オリヴィア・デ・ハヴィランドとハティ・マクダニエルのダブル・ノミネートとなった助演女優賞は、ハティに軍配が上がった。
オリヴィアの所属するワーナー・ブラザーズ社が、他社の作品であるため、彼女の後押しをしなかったとも言われている。
(左の写真)ヴィヴィアン・リーとハティ・マクダニエル |
・ノミネートも逃した助演男優賞は、スカーレットの父親を演じたトーマス・ミッチェルが、『駅馬車』の演技でオスカーを獲得した。
(右の写真)ヴィヴィアン・リーとトーマス・ミッチェル |
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・『風と共に去りぬ』の受賞ラッシュの中、『チップス先生さようなら』のロバート・ドーナットに敗れてしまったクラーク・ゲーブルは、「MGMが、熱心な宣伝活動をしなかった」と嘆き節だったとか。
(左の写真) クラーク・ゲーブル
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デヴィッド・O・セルズニック
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ヴィヴィアン・リー
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ヴィクター・フレミング
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ハティ・マクダニエル
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◆ マミー役 ハティ・マクダニエル Hattie McDaniel |
・黒人俳優として初めてオスカーを獲得し、歴史を作ったハティ・マクダニエル。
・1895年、カンザス州生まれ。父親は牧師、母親は宗教歌手。13人兄弟の末っ子だった。
10代の頃から歌手として活躍。1915年、黒人女性で初めてラジオで歌を唄った。
ラジオ番組でレギュラーを持つなど、人気者となったが、黒人ゆえに、タレント業以外にメイドとして働かなければならない程、給料は低かった。 |
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・1932年に銀幕デビュー。生涯で300本以上の映画に出演したが、名前がクレジットされたのは80本あまり。
・『風と共に去りぬ』(1939年)のマミー役で、黒人俳優として初めて助演女優賞にノミネートされ、見事に受賞。名前を発表されると「ハレルヤ !!」と叫んだ。
(左の写真)フェイ・ベインダーからオスカー像を贈られるハティ |
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『風と共に去りぬ』のプレミア興行が開催されたアトランタは、人種差別が根強い地であるためハティの参加は見送られた。彼女の不参加を知ったクラーク・
ゲーブルはプレミア興行のボイコットを宣言したが、ゲーブルを説得して参加を促したのは、他ならぬハティ・マクダニエル本人だった。2人は私生活でも親友
だったという。
(右の写真)『風と共に去りぬ』でクラーク・ゲーブルと |
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・1952年、57歳で
他界。ハティは生前、「ハリウッド墓地」に埋葬されることを望んでいたが、黒人であるために許可されなかった。しかし、1999年に墓地の所有者が変わ
り、名称も「ハリウッド・フォーエバー墓地」と変更された。そして、ハティの慰霊碑が建立され、人気の観光スポットとなっている。
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!ハティが獲得したオスカー像(楯)は現在行方不明である。
彼女の死後、全米屈指の名門ハワード大学(黒人大学)で展示されていたが、公民権運動が盛んな1960年代に盗み出されて、川へ投げ捨てられたとの説があるが、定かではないらしい。
(左の写真) 『風と共に去りぬ』 でヴィヴィアン・リーと |
・『プレシャス』(2009年)でアカデミー賞助演女優賞を受賞した黒人女優のモニークが、ハティが授賞式で着ていたのと似た衣装で授賞式に登場。黒人初のオスカー俳優であるハティをレスペクトした。
(右の写真)オスカー像(楯)を手にするハティ・マクダニエル |
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・『風と共に去りぬ』は、本国アメリカでも何度かリバイバル公開されている。1961年には、南北戦争100周年記念として、初公開時と同じアトランタの劇場で上映会が行われた。既に、レスリー・ハワード(1943年没)、マーガレット・ミッチェル(1949年没)、ヴィクター・フレミング(1949年没)、クラーク・ゲーブル(1960年没)が故人となっていたが、セルズニック、ヴィヴィアン・リー、オリヴィア・デ・ハヴィランドが、再びアトランタの地を訪れている。
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| 『風と共に去りぬ』 1961年、南北戦争100周年記念上映会のニュース映像
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・AFI(アメリカ映画協会)が1998年に選定した「アメリカ映画100年ベスト100」で、第4位にランクイン。
・AFIが2005年に選定した「アメリカ映画 名セリフ ベスト100」で、以下のセリフがランクイン。 |
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<第1位> 「Frankly, my dear, I don't give a damn.」(俺には関係ない)。
セルズニックは、「Damn」が禁止用語(当時)であることを承知の上で使用し、後で罰金を支払った。 |
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<第31位> 「After all, Tomorrow is another day.」。
日本では、「明日は明日の風が吹く 」の訳が有名。
『風と共に去りぬ』と言えばこのセリフ。 |
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<第59位> 「As God is my witness, I'll never be hungry again.」(神よ、ご覧ください。2度と飢えはしません)。
過酷な撮影スケジュールで、ヴィヴィアン・リーは本当に疲労困憊していた。 |
・日本では、キネマ旬報社が1999年に選定した「オールタイム・ベストテン 外国映画編」で、第5位にランクイン。
・1999年、セルズニックに与えられた『風と共に去りぬ』の作品賞のオスカー像が競売に出され、King of Pop マイケル・ジャクソンが150万ドル(日本円で約1億5千万円)で落札。大きな話題となったが、その後、「盗品」扱いとして、アカデミー協会が1ドルで回収している。 |
| 『風と共に去りぬ』 予告編
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