20世紀・シネマ・パラダイス

Megaphonebar
Victor Fleming

ヴィクター・フレミング

Victor Fleming

1889-1949 (アメリカ)

Megaphonrbar


  ◆ 代表作

Red_Dust-2
Captains Courageous
紅塵
Red Dust
(1932年/アメリカ)
我は海の子
Captains Courageous

(1937年/アメリカ)
The Wizard of Oz Gone_with_the_Wind
オズの魔法使
The Wizard of OZ

(1939年/アメリカ)
風と共に去りぬ
Gone with the Wind

(1939年/アメリカ)


    『風と共に去りぬ』で不滅の名を残す

 ・1889年、カリフォルニア州生れ。14歳で学校を辞めて自動車工となり、後にカーレーサーに転身。映画俳優・監督のマーシャル・ニーランの運転手となったことがきっかけで、1910年に映画界入り。カー・スタントマンなどを経て、アラン・ドワン監督の撮影助手・撮影監督となった。グリフィス監督の『イントレランス』(1916年)の撮影にも携わった。
 * マーシャル・ニーラン … 映画創生期から俳優として活躍し、後に監督に転身。ハワード・ヒューズ監督の『地獄の天使』(1930年)の脚本も手がけた。
 * アラン・ドワン … 映画創生期から1960年代まで映画監督、プロデューサーとして活躍。手掛けた作品は430本超。

 ・第1次世界大戦中は陸軍通信隊のカメラマンとして活動。ベルサイユ平和会議の模様を撮影した。

 ・ダグラス・フェアバンクス主演の『暗雲晴れて』(1919年)で監督デビュー。アクション映画や西部劇を多く撮り、元カーレーサーで狩猟を好むなどアウトドア派だったこともあり、「男性映画の監督」と目されるようになった。

 ・1922年、パラマウント社と契約。人気女優クララ・ボウの『人罠』(1926年)、『フラ』(1927年)、ドイツの名優エミール・ヤニングスに第1回アカデミー賞主演男優賞をもたらした『肉体の道』(1927年)、ゲーリー・クーパー初のトーキーで彼の出世作となった『ヴァジニアン』(1929年)といった作品を監督。
 (右の写真)クララ・ボウと
Victor_Fleming_&_Clara_Bow

Victor_Fleming_&_Emil_Jannings Victor_Fleming_&_Gary_Cooper
『肉体の道』(1927年) 撮影時
エミール・ヤニングス(右)と
『狼の唄』(1929年)撮影時
ゲーリー・クーパー(右)と


with_Douglas_Fairbanks_1931-2
 ・ダグラス・フェアバンクス製作のドキュメンタリー『ダグラスの世界一周』(1931年)では、フェアバンクスとの共同監督、撮影、編集を務めた他、自ら出演もした。来日して、日本人スターの早川雪洲、上山草人も出演した。
 (左の写真)左から、早川雪洲、ダグラス・フェアバンクス、
 上山草人、ヴィクター・フレミング


 ・1932年、MGM社に移籍。クラーク・ゲーブルジーン・ハーロー主演の大ヒット作『紅塵』(1932年)、ウォーレス・ビアリー主演の『宝島』(1934年)スペンサー・トレイシーにアカデミー賞主演男優賞をもたらした『我は海の子』(1937年)、クラーク・ゲーブル、スペンサー・トレイシー、マーナ・ロイ主演の『テスト・パイロット』(1938年)等を撮った他、FOX社でヘンリー・フォンダの銀幕デビュー作『運河のそよ風』(1935年)を監督した。
 (右の写真)『紅塵』撮影時。右から、ジーン・ハーロー、クラーク・ゲーブル、
 
メアリー・アスター、フレミング監督
Red_Dust-3

The White Sister Reckless
『ホワイト・シスター』(1933年)撮影時
ヘレン・ヘイズ(中央)、クラーク・ゲーブル(右)と
『無軌道行進曲』(1935年)撮影時
ウィリアム・パウエル(中央)、ジーン・ハーローと
The_Farmer_Takes_a_Wife
Victor_Fleming_&_Spencer_Tracy
『運河のそよ風』(1935年)撮影時
ヘンリー・フォンダ(中央)、ジャネット・ゲイナー
『我は海の子』(1937年)撮影時
スペンサー・トレイシー(右)と

  ・1939年、ハリウッド映画史に燦然と輝く2本の名作を監督。1本はミュージカル・ファンタジーの『オズの魔法使』。もう1本は20世紀最大のヒット作『風と共に去りぬ』

The Wizard od Oz  ・『オズの魔法使』は、当初は「ターザン」シリーズのリチャード・ソープが監督だったが、ジョージ・キューカーに交替。その後、キューカーが『風と共に去りぬ』の監督として引き抜かれ、フレミングは会社に押し付けられての起用だった。しかも、撮影完了直前に、『風と共に去りぬ』の撮影に回され、『オズの魔法使』の残りはキング・ヴィダーが撮った。 (左の写真)『オズの魔法使』撮影時のフレミング(左)、
 ジュディ・ガーランド(中央)

 ・『オズの魔法使』 に引き続き、キューカーの後釜として『風と共に去りぬ』の監督に起用されたが、超大作を任 されたことによる重圧や、女優陣との軋轢により神経をすり減らし、撮影途中でダウン。撮影に喧しく口をはさむ製作者デビッド・O・セルズニックに対する当てつけだったとの説もある。
 (右の写真)『風と共に去りぬ』撮影時
 ヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル(後)と
Gone with the Wind-2

Fleming Oscar  ・1939年度のアカデミー賞で、『風と共に去りぬ』は作品賞を含む8部門と特別賞の合計9つのオスカーを獲得。フレミングは監督賞を受賞した。
 『オズの魔法使』は作品賞など5部門でノミネートされ、作曲賞、歌曲賞を獲得したほか、主演のジュディ・ガーランドが特別賞を受賞した。
 (左の写真)オスカー像を手にするフレミング監督

 ・その後、『ジキル博士とハイド氏』(1941年)、『Tortilla Flat (1942年)、『ジョーという名の男』(1943年)と、3作連続でスペンサー・トレイシーの主演作を監督
 
『ジョーという名の男』は、スティーブン・スピルバーグ監督のお気に入りの作品で、『オールウェイズ』(1989年)としてリメイクされた。
 (右の写真) 『ジキル博士とハイド氏』撮影時
 イングリッド・バーグマン、スペンサー・トレイシー(右)と
jekyll  & Hyde

 ・第2次世界大戦中、陸軍航空隊に入隊していたクラーク・ゲーブルの復員後の第1作目『冒険』(1945年)、イングリッド・バーグマン主演の大作『ジャンヌ・ダーク』(1948年)を監督。
Adventure Joan of Arc
『冒険』撮影時
グリア・ガースン、クラーク・ゲーブル(右)と
『ジャンヌ・ダーク』撮影時
イングリッド・バーグマンと

 ・1949年、『ジャンヌ・ダーク』完成後間もなく、心筋梗塞により59歳で他界。

Victor_Fleming-2  ・AFI(アメリカ映画協会)が1998年に選定した「アメリカ映画100年ベスト100」において、『風と共に去りぬ』が第4位、『オズの魔法使』が第6位。
 トップ10に2作品がランクインした監督はヴィクター・フレミングだけである。


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