20世紀・シ ネマ・パラダイス
ダグラス・ フェアバンクス
Douglas Fairbanks
1883-1939 (アメリカ)
◆
代表作
奇傑ゾロ
The Mark of Zorro
(1920年/アメリカ)
三銃士
The Three Musketeers
(1921年/アメリカ)
ロビン・フッド
Robin Hood
(1922年/アメリカ)
バグダッドの盗賊
The Thief of Bagdad
(1924年/アメリカ)
◆
元祖 ‟ハリウッドのキング”
・
1883年
、コロラド州生れ。ハーバード大学を中退して演劇界へ。
「
Her Lord and Master
」
(1902年)
でブロードウェイ・デ ビュー。若手のスターとして活躍していたが、
D・W・グリフィス
監督の『國民の創生』
(1915年)
に感銘し、映画界へ。
トライアングル・フィルム社と契約し、『快男子』
(1915年)
の主役で銀幕デビューを果たすと、たちまち人気スターとなった。
・1916年、映画製作会社「ダグラス・フェアバンクス・ピクチャーズ社」を設立。1919年、映画産業の独占を目論む大手に対抗するため、
チャールズ・チャップリン
、
メアリー・ピックフォード
、D・W・グリフィス監督と、映画配給会社 「ユナイテッド・アーチスツ社」を設立した。
UA社設立時のニュース映像。後半、楽しいパフォーマンスも披露。
・剣劇アクションのヒーローとして国民的なスーパー・スターとなった。
!
人 気コミックの「スーパーマン」は、原作者の2人がフェアバンクスの『ロビン・フッド』を観て思いついたと言われている。
『奇傑ゾロ』(1920年)
『三銃士』(1921年)
『ロビン・フッド』(1922年)
『バグダッドの盗賊』
(1924年/監督:
ラオール・ウォルシュ
)
・1920年、‟アメリカの恋人‟メアリー・ピックフォー”と結婚。
大スター同士の結婚第1号で世界中から祝福された。
息子で俳優のダグラス・フェアバンクス・ジュニアは、フェアバンクスと前妻との間の子供。
(左の写真)メアリー・ピックフォードと
・2人は、ビバリーヒルズに住んだ最初の映画スターと言われている。
その大豪邸は、2人の名から‘
PickFair
’(ピックフェア)と呼ばれ、ホワイトハウスの次に有名な邸宅と言われていた。
(右の写真)夫婦で共演した『じゃじゃ馬馴らし』(1929年)
・人気の観光名所である
グローマンズ・チャイニーズ・シアター
に、最初に手形等を刻印したのも、この2人だった。
(左の写真)シド・グローマン(左)、メアリー・ピックフォードと(1927年)
・1927年、映画芸術科学アカデミー協会
(アカデミー賞選定の母体)
の創設に携わり、初代会長に就任。アメリカ映画界の発展に貢献し、‟ハリウッドのキング”と称された。
現在、アカデミー協会のビバリーヒルズにある建物には「フェアバンクス映画研究センター」、ハリウッドにある建物には「ピックフォード映画研究センター」という名が付けられている。
・『ダグラスの世界一周』
(1931年/監督:
ヴィクター・フレミング
)
の撮影で来日もした。
人気に陰りが見え始め、イギリス映画『ドン・ファン』
(1934年/監督:
アレクサンダー・コルダ
)
を最後に引退した。
(右の写真)『ドン・ファン』
・1936年、ピックフォードと離婚し、モデル・女優のシルヴィア・アシュリーと3度目の 結婚。フェアバンクスが亡くなるまで連れ添った。
この女性は生涯に5度結婚しており、フェアバンクスは2度目の相手。そして、4度目の相手は
ク ラーク・ゲーブル
。
「ハリウッドのキング」と呼ばれた2人と結婚した。
(左の写真)3度目の妻、シルヴィア・アシュリーと
・
1939年
、
56歳
で他界。
亡くなる1週間程前には、親友チャップリンの
『独裁者』
(1940年)
の撮影現場を訪れ、笑顔を見せていたという。心臓発作による急死だった。
チャップリン曰く、「
ハリウッドの俳優仲間で親友と呼べるのは、フェアバンクスだけだった
」。
(右の写真)『独裁者』撮影中のチャップリン(左)と
・1940年、アカデミー賞名誉賞が贈呈された。
・1941年、ハリウッド・フォーエバー墓地にあるフェアバンクスの墓に、チャップリンが大理石の記念碑を贈呈した。
(左の写真)記念式典でのチャップリン
HOME