20世紀・シネマ・パラダイス
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メアリー・ピックフォード
Mary Pickford
1892-1979 (カナダ/アメリカ)
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◆ 代表作
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嵐の国のテス
Tess of the Storm Country
(1914年/アメリカ) |
(日本未公開作品)
The Poor Little Rich Girl
(1917年/アメリカ) |
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小公女 The Little Princess (1917年/アメリカ)
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嵐の国のテス
Tess of the Storm Country
(1922年/アメリカ)
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雀
Sparrows
(1926年/アメリカ)
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コケット
Coquette
(1929年/アメリカ)
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◆ 「アメリカの恋人」ハリウッド最初のスーパースター
・1892年、カナダのトロント生れ。本名はGladys Louise Smith。6歳の時に父親が亡くなり、母親が舞台マネージャーをしていた関係で、7歳から舞台に出演していた。
家族で渡米し、1905年にブロードウェイ・デビュー。1907年から芸名をメアリー・ピックフォードとした。 |
・1909年、バイオグラフ社のD・W・グリフィス監督作品で銀幕デビュー。当時、同社は出演者名をクレジットしていなかったが、バイオグラフ・ガールの1人、「金髪の巻毛の女の子」として人気者に。
1911年、カール・レムリのIMP社へ移籍したが、翌年、バイオグラフ社に復帰した。
(右の写真)『ニューヨーク・ハット』(1912年/監督:D・W・グリフィス) |
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・1913年、一旦ブロードウェイに復帰した後、アドルフ・ズーカーのフェーマス・プレーヤーズ社と契約。
『嵐の国のテス』(1914年/監督:エドウィン・S・ポーター)等が大ヒットし、この頃には、アメリカで最も人気のある女優となっていた。
(左の写真)『嵐の国のテス』
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・年に100万ドルを稼いだ最初の女性と言われている。
デビュー当時は1日10ドル、IMP社移籍時には週175ドルだった給料は、フェーマス・プレーヤーズ社で週500ドル、1,000ドル、4,000ド
ルと跳ね上がり、1916年の契約更改時には週10,000ドルに達し、更に、作品の興行収益を歩合で受け取る最初のスターともなった。
(右の写真)『The Poor Little Rich Girl 』
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| ・1919年、グリフィス監督、チャップリン、ダグラス・フェアバンクスと共同で、ユナイテッド・アーチスツ社を設立。
自身の「メアリー・ピックフォード・カンパニー」で製作した作品をユナイテッド・アーチスツ社から配給した。
(左の写真)ユナイテッド・アーチスツ社設立時の様子。
身長は152cmと小柄だった。 |
・私生活では、1911年に俳優のオーエン・ムーアと結婚したが、1920年に離婚し、同年、ダグラス・フェアバンクスと再婚した。
「アメリカの恋人(American Sweet Heart )」 ピックフォードと、「ハリウッドのキング」フェアバンクス。スーパースター同士の結婚第1号で、世界中から祝福された。
(右の写真)夫婦で共演した『じゃじゃ馬ならし』(1929年) |
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・自身初のトーキー『コケット』(1929年)で、第2回アカデミー賞の主演女優賞を受賞。
トレード・マークだった巻毛のロング・ヘアを短く切り、イメージチェンジをして臨んだ作品だった。実は、評判は今ひとつで、夫のフェアバンクスがアカデ
ミー協会の会長だったから受賞できた、との陰口もあったという。ピックフォードもアカデミー協会創設会員36名の中の1人だった。
(左の写真)オスカー像と一緒に |
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・1936年、フェアバンクスと離婚。翌年、『つばさ』(1927年)等に出演した12歳年下の俳優チャールズ・‘バディ’・ロジャースと再婚。2人は『デパート娘大学』(1927年)で共演もしていた。ロジャースとは、彼女が亡くなるまで連れ添った。
(左の写真)チャールズ・ロジャースと
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・1975年、アカデミー賞名誉賞を受賞。大豪邸「ピックフェア」の自室で、映画製作者のウォルター・ミリッシュからオスカー像を受け取った。
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・1979年、87歳で他界。
(右の写真)アカデミー賞名誉賞のオスカー像を手に
・AFI (アメリカ映画協会)が1999年に選定した「伝説のスター・ベスト50」で、女優部門の第24位に。 |
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