20世紀・シネマ・パラダ イス

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Gene Kelly

ジーン・ケリー

Gene Kelly

 
1912-1996 (アメリカ)

 

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     代表作
 
Anchors_Aweigh
On_the_Town
錨を上げて
Anchors Aweigh
(1945年/アメリカ)
踊る大紐育
On the Town
(1949年/アメリカ)
An_American_In_Paris-3
Singin'_in_the_Rain-2
巴里のアメリカ人
An American in Paris
(1951年/アメリカ)
雨に唄えば
Singin' in the Rain
(1952年/アメリカ)
Les_Demoiselles_de_Rochefort
That's_Entertainment,_Part_II
ロシュフォールの恋人たち
Les Demoiselles de Rochefort
(1967年/フランス)
ザッツ・エンターテインメン ト
That's Entertainment
(1974年/アメリカ)
写真はPart2(1976年)より


     伝説のミュージカル・スター

 ・1912年、ペンシルベニア州生れ。8歳の時に母親の薦めでダンス教室に通い始めたが、好きになれずに辞めてしまった。その頃は、野球選手となって地元のピッツバーグ・パイレーツに入団することを夢みていた。

 ・15歳の時にダンスを再開。ダンスが上手いと女の子にもてるからだった。
 ペンシルベニア州立大学に入学したが、世界大恐慌の煽りで家計が苦しくなり、自宅から通えるピッツバーグ大学に編入。
 大学卒業後は、家計を支えるために母親が開設していたダンス・スタジオで教師を務めていた。
 (右の写真)子供の頃のジーン・ケリー
Gene_Kelly-4

Pal_Joey
 ・1937年、ニューヨークへ渡り、舞台「Leave It to Me(1938年)でブロードウェイ・デビュー。ダンサー、俳優、振付師として活動を続け、主役を務めた舞台「Pal Joey(1940年)がヒット。
 * Pal Joey」 … フランク・シナトラ主演『夜の豹』(1957年)として映画化された。
 (左の写真)舞台「Pal Joey」 ビビエン・シーガルと

 ・映画製作者デビッド・O・セルズニックと契約を交わし、ハリウッドへ。ミュージカル映画の革命児として大輪の花を咲かせることとなる。

 ・1941年、女優のベッツィ・ブレアと結婚。翌1942年に長女を授かったが、1957年に離婚した。
 * ベッツィ・ブレア … アーネスト・ボーグナイン主演の『マーティ』(1955年)等に出演した。
 (右の写真)最初の妻ベッツィ・ブレア、長女と
Betsy_Blair

For_Me_and_My_Gal
 ・MGM社に貸し出され、ジュディ・ガーランド主演の『For Me and My Gal(1942年)で銀幕デビューを果たした。
 ジーン・ケリーの契約はMGM社によって買い取られたが、彼の才能はそれ程見出されておらず、その後の4作品はB級ミュージカルへの出演が続いた。
 (左の写真)『For Me and My Gal』 ジュディ・ガーランドと

 ・コロンビア社に貸し出され、リタ・ヘイワースと共演した『カバーガール』(1944年)が大ヒット。
 フィルムを重ね焼きして、2人のケリーが踊るシーンが評判となったが、これは本人のアイデアであり、MGM社に彼の才能を認めさせるきっかけにもなったという。
 (右の写真)『カバーガール』 2人のケリーが踊るシーン
Cover_Girl

 ・『カバーガール』出演後、海軍航空隊の映画班で兵士の教育映画『Combat Fatigue Imitability(1945年)に出演。同作で監督も務め、監督業に関心を持つきっかけとなった。
 
Anchors_Aweigh-2
 ・フランク・シナトラと共演した『錨を上げて』(1945年)は、その年のMGM社最大のヒット作となり、ケリーはアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。
 アニメ ‟トムとジェリー”のジェリーとダンスをするシーンは、ミッキーマウスを希望していたが、ディズニー社から許可を得ることが出来なかった。
 (左の写真)『錨を上げて』 ジェリーと

Ziegfeld_Follies
The_Pirate
『ジーグフェルド・フォ リーズ』(1946年)
フレッド・アステア(右)と
『踊る海賊』(1948年)
ジュディ・ガーランドと
The_Three_Musketeers
Take_Me_Out_to_the_Ball_Game
『三銃士』(1948年)
ラナ・ターナー

『私を野球につれてって』(1949年)
フランク・シナトラ(左)と

 ・『踊る大紐育』(1949年)ではスタンリー・ドーネンと共同で監督デビューを果たし、フィルム・ノワール作品『Black Hand(1950年/日本未公開)では純粋な演技だけに初挑戦した。
 (右の写真)『踊る大紐育』 フランク・シナトラ(左)、ジュールス・マンシン(中央)と
On_the_Town-2

An_American_In_Paris-2
 ・『巴里のアメリカ人』(1951年/監督:ヴィンセント・ミネリは、アカデミー賞で作品賞を含む6部門で受賞。同年、ジーン・ケリーの「俳優、歌手、監督、ダンサーという多芸さ、特に振付師としての輝かし功績」に対して名誉賞が贈られた。授賞式では、スタンリー・ドーネンが代理人としてオスカー像を受け取った。
 (右の写真)『巴里のアメリカ人』 レスリー・キャロンと

 ・スタンリー・ドーネンとの共同監督による2作目『雨に唄えば』(1952年)は、AFI(アメリカ映画協会)が2006年に選定した「ミュージカル映画ベスト25」で第1位に選定されるなど、ハリウッドのミュージカルを代表する作品となり、ジーン・ケリーが雨の中で踊って唄うシーンはキャリアのハイライトとなった。
 (右の写真)『雨に唄えば』
Singin'_in_the_Rain-3

Brigadoon
It's Always Fair Weather
『ブリガドーン』(1954年)
シド・チャリシー

『いつも上天気』(1955年)
シド・チャリシーと


Invitation_to_the_Dance  ・欧州へ渡り、3作品に出演。その中の1作『舞踏への招待』(1954年)は台詞がなく、全編バレエの野心作で、ベルリン国際映画祭のグランプリ(金熊賞)を受賞したが、興行的には惨敗だった。
 (左の写真) 『舞踏への招待』
 * 欧州に凍結されていたMGM社の資金を利用するためであり、ケリーにとっては税金対策でもあったと言われている。

 ・ミュージカル映画の人気は下降の一途を辿っており、『魅惑の巴里』(1957年)を最後に16年間在籍していたMGM社と決別した。

 ・古巣のブロードウェイへ戻り、日本人のミヨシ梅木、日系アメリカ人のパット鈴木をヒロインとした舞台「フラワー・ドラム・ソング」(1958年)を監督。1年以上のロングラン・ヒットとなり、映画化(1961年/監督:ヘンリー・コスター)もされた。
 (右の写真)舞台「フラワー・ドラム・ソング」のリハーサル中。パット鈴木(左)、ミヨシ梅木(右)と。
Flower_Drum_Song
 * ミヨシ梅木 … ナンシー梅木の芸名で出演した『サヨナラ』(1957年)で、日本人俳優では初のアカデミー賞(助演女優賞)を受賞。映画版「フラワー・ドラム・ソング」にも出演した。

Inherit_the_Wind
Let's_Make_Love
『風の遺産』(1960年/監督:スタンリー・クレイマー
ディック・ヨーク(中央)、スペンサー・トレイシー(右)と
『恋をしましょう』(1960年/監督:ジョージ・キューカー)撮影時
マリリン・モンローイヴ・モンタン(右)と

Jeanne_Coyne  ・1960年、振付師で、元スタンリー・ドーネン夫人(1948-1951年)のジーン・コインと再婚。2児を授かり、1973年に彼女が亡くなるまで連れ添った。
 (左の写真)2番目の妻ジーン・コインと

What_a_Way_to_Go
Les_Demoiselles_de_Rochefort-2
『何という生き方!』(1964年)
シャーリー・マクレーン

『ロシュフォールの恋人たち』(1967年)
フランソワーズ・ドルレアックと


 ・バーブラ・ストライサンド主演の『ハロー・ドーリー!』(1969年)ジェームズ・ステュアートヘンリー・フォンダ主演の『テキサス魂』(1970年)等を監督した。
/Hello,_Dolly!
The_Cheyenne_Social_Club
『ハロー・ドーリー!』(1969年)撮影時
バーブラ・ストライサンドと

『テキサス魂』(1970年)撮影時
ジェームズ・ステュアート(左)、ヘンリー・フォンダ(右)と

 ・MGM社創立50周年記念のミュージカルのアンソロジー 『ザッツ・エンターテインメント』(1974年)が大ヒット 『ザッツ・エンターテインメント パート2』(1976年)ではフレッド・アステアとのダンスも披露。ハリウッド・ミュージカルの2大レジェンドの共演はファンを歓喜させた。このシーンはケリーが振付と監督をした。
 (右の写真)『ザッツ・エンターテインメント パート2』フレッド・アステア(右)と
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Xanadu
 ・人気歌手オリヴィア・ニュートン・ジョン主演の『ザナドゥ』(1980年)では、ローラー・スケートで優雅に滑るシーンも披露。ケリーは当時67歳。
 『ザッツ・エンターテインメント パート3』(1994年)が最後に出演した劇場用映画となった。
 (左の写真)『ザナドュ』 オリヴィア・ニュートン・ジョンと

 ・1990年、著述家のパトリシア・ウォードと3度目の結婚。ケリーの回想録の作家として契約したのがきっかけだったという。彼が亡くなるまで連れ添った。
 (右の写真)3番目の妻パトリシア・ウォードと
Patricia_Ward

Gene_Kelly_Oscar.
 ・ゴールデン・グローブ賞のセシル・B・デミル賞(1981年)、AFI(アメリカ映画協会)の生涯功労賞(1985年)、国家芸術メダル(1994年)、フランスのセザール賞の名誉賞(1996年)等、数多くの賞や名誉を授かった。

 ・1996年83歳で他界。

 (左の写真)オスカー像と

 ・1999年、AFIが選定した「伝説のスター・ベスト50」で、男優部門の第15位に選出。 

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