20世紀・シネマ・パラダイス
スタンリー・ドーネン
Stanley Donen
1924- 2019(アメリカ)
◆
代表作
踊る大紐育
On the Town
(1949年/アメリカ)
雨に唄えば
Singin' in the Rain
(1952年/アメリカ)
掠奪された七人の花嫁
Seven Brides for Seven Brothers
(1954年/アメリカ)
パリの恋人
Funny Face
(1957年/アメリカ)
シャレード
Charade
(1963年/アメリカ)
いつも2人で
Two for the Road
(1967年/アメリカ・イギリス)
◆
ジーン・ケリーのパートナーとしてミュージカルの一時代を築く
・1924年、サウスカロライナ州生れ。ユダヤ人のため友達ができず、映画館で多くの時間を過ごした。特にお気に入りだったのは、
フレッド・アステア
と
ジンジャー・ロジャース
が初共演した『空中レビュー時代』
(1933年)
で、30〜40回は観たという。フレッド・アステアに憧れ、ダンスを習い始めた。
・1940年、ニューヨークへ移り、ブロードウェイのミュージカル劇「
Pal Joey
」
(1940年)
にコーラス・ダンサーとして出演。16歳でブロードウェイ・デビューを果たし、同作で主役を務めていた
ジーン・ケリー
と出会った。
・ブロードウェイでの2作目「
Best Foot Forward
」が映画化
(1943年)
され、端役で出演した他、アシスタント振付師を務めたのが映画界での最初の仕事だった。
・ジーン・ケリーに請われ、『カバーガール』
(1944年)
、『錨を上げて』
(1945年)
でアシスタント振付師を務め、彼と共同で『踊る大紐育』
(1949年)
を初監督。作品は大ヒットした。
(右の写真)『踊る大紐育』撮影時。左から、
フランク・シナトラ
、スタンリー・ドーネン、ジーン・ケリー
・フレッド・アステア主役の『恋愛準決勝戦』
(1951年)
、
エリザベス・テイラー
主演のコメディ・ロマンス作『
Love is Better Than Ever
』
(1952年)
を単独で監督。『
Love is Better Than Ever
』にはジーン・ケリーがカメオ出演した。
『恋愛準決勝戦』撮影時
ジェーン・パウエル、フレッド・アステア(右)と
『
Love is Better Than Ever
』撮影時
エリザベス・テイラーと
・ジーン・ケリーとの共同監督による2作目
『雨に唄えば』
(1952年)
は、ハリウッド・ミュージカルを代表する作品の1つとなった。ジーン・ケリーとはもう1作『いつも上天気』
(1955年)
を共同で監督したが、撮影中に関係が悪化し、最後のコラボレーションとなった。
(左の写真)『雨に唄えば』撮影時。左から、ドナルド・オコナー、スタンリー・ドーネン、ジーン・ケリー
・『掠奪された七人の花嫁』
(1954年)
、『パリの恋人』
(1957年)
、『くたばれ!ヤンキース』
(1958年)
といったミュージカルの良作を撮ったが、ミュージカル映画の人気が後退した1960年代以降は、サスペンス映画『シャレード』
(1963年)
等を撮った。
『パリの恋人』(1957年)撮影時
オードリー・ヘップバーン
と
『無分別』(1598年)撮影時
ケーリー・グラント
(中央)、
イングリッド・バーグマン
と
『芝生は緑』(1960年)撮影時
デボラ・カー
、
ロバート・ミッチャム
(右)と
『シャレード』(1963年)撮影時
ケーリー・グラント(中央)、オードリー・ヘップバーンと
『アラベスク』(1966年)撮影時
グレゴリー・ペック
(左)、ソフィア・ローレンと
『いつも2人で』(1967年)撮影時
アルバート・フィニー
(左)、オードリー・ヘップバーンと
・劇場用映画の監督は『アバンチュール・イン・リオ』
(1984年)
が最後となった。マイケル・ジャクソン主演で「ジキル博士とハイド氏」を監督する企画があったが、マイケルの児童性的虐待の疑惑によりお流れとなった。1993年には、ブロードウェイでミュージカル「赤い靴」を演出した。
(右の写真) アカデミー賞授賞式にて
・1998年、アカデミー賞名誉賞を受賞。フレッド・アステアが『トップ・ハット』
(1935年)
で歌った「頬寄せて」とタップ・ダンスを披露した。
アカデミー賞授賞式。プレゼンターはマーティン・スコセッシ監督。
・私生活では5度結婚・離婚をしているが、最初の妻はドーネンと離婚した11年後にジーン・ケリーと再婚した。
・
2019年
、
94歳
で他界。
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