20世紀・シネマ・パラダ イス

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Fred Astaire

フレッド・ アステア

Fred Astaire

1899-1987 (アメリカ)


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     代表作
 
Top Hat Swing Time
トップ・ハット
Top Hat
(1935年/アメリカ)
有頂天時代
Swing Time
(1936年/アメリカ)
Easter Parade The Band Wagon
イースター・パレード
Easter Parade
(1948年/アメリカ)
バンド・ワゴン
The Band Wagon
(1953年/アメリカ)
That's Entertainment Towering Inferno
ザッツ・エンターテインメン ト
That's Entertainment
(1974年/アメリカ)
写真はPart2(1976年)より
タワーリング・インフェルノ
Towering Inferno
(1974年/アメリカ)

   
    ハリウッド・ミュージカルの第一人者

 ・1899年、ネブラスカ州生れ。本名はFrederick Austerlitz。4歳の時から、2歳年上の姉アデルと一緒にダンスを習っていた。

 ・1905年、一家でニューヨークへ移住。7歳の時から、姉とのコンビでボードビル劇場を巡演。この頃から芸名をFred Astaire としている。
 (右の写真)7歳のフレッド・アステアと姉のアデル
Adele_and_Fred-1906

Adele_and_Fred-2
 ・1917年、姉とのコンビでブロードウェイ・デビュー。以後、姉が1932年に結婚して引 退するまで、アメリカのみならずロンドンの舞台でもコンビで活躍した。
 * 姉弟コンビが、メアリー・ピック フォード主演の映画 『Fanchon, the Cricket』(1915年) に出演したとの説があるが、これは事実ではないようです。
 (左の写真) 姉のアデルと

 ・姉の引退後、ブロードウェイの舞台「The Gay Divorce(1932年)で主役を務め、その後、映画界への進出を試みてRKO社と契約。1920年代にも、パラマウント社のスクリーン・テストを受けたことがあったが、その時は不合格だった。
 専属契約を交わしたものの、RKO社でのスクリーン・テスト時の評価は、「演技ダ メ、うすらハゲ、踊りが少しできる」という散々なものであった、との伝説が残っている。

 ・銀幕デビュー作は、MGM社に貸し出されて出演したジョーン・クロフォード主演の『ダンシング・レディ』(1933年)。ブロードウェイのスター、フレッド・アステア本人役としてのゲスト出演だった。
 (右の写真) 『ダンシング・レディ』 ジョーン・クロフォードと
Dancing_Lady-2
 
Flying Down to Rio
 ・RKO社での1作目は『空中レビュー時代』(1933年)。ドロレス・デル・リオ主演で、アステアは、ダンスのパートナーとなったジ ンジャー・ロジャースに次いで5番目に名前が表記される扱いだった。
 しかし、映画が公開されると、アステア&ロジャースの見事なダンスは観客を熱狂させ、2人が主演の映画が製作されることになった。
 (左の写真)『空中レビュー時代』 ジンジャー・ロジャースと

 ・アステア&ロジャースの主演第1作目は『コンチネンタル』(1934年)。アステアのブロードウェイのヒット作「The Gay Divorce」 を映画化した作品。
 アステアは、姉以外の特定の人物とダンス・コンビを組むつもりはなかったので、ロジャースとの再共演に難色を示したとも言われている。
 2人のダンスは「Magic (魔法)」と絶賛され、コンビの人気を決定的なものとした。
 (右の写真)『コンチネンタル』 ジンジャー・ロジャースと
The Gay Divorcee

Top Hat-2
 ・アイリーン・ダンを主 役に迎えた『ロバータ』も大ヒットし、続く『トップ・ハット』(1935年)は、RKO社時代 のコンビ最大のヒット作に。アステア&ロジャースの最高傑作とも評されている。
 アステアが歌った「チーク・トゥ・チーク 頬寄せて)」は、彼の代表曲の1つとなった。
 (左の写真)『トップ・ハット』

 ・ハリウッド史上最高のダンシング・コンビと謳われ、一世を風靡したアステア&ロジャース。『艦隊を追って』、『有頂天時代』(1936年)も大ヒットし、RKO社 は2人によって経営を立て直すことが出来たとも言われている。
 しかし、コンビ7作目の『踊らん哉』(1937年)が興行的に振るわず、一旦コンビを解消。ア ステアは、ジョーン・フォンテインをパートナーにした『踊る騎士』(1937年)に出演したが、興行成績は更に落ち込んだ。
 (右の写真)『有頂天時代』 ジンジャー・ロジャースと
Swing Time-2

he_Story_of_Vernon_and_Irene_Castle
 ・ロジャースとのコンビを復活させ、『気儘時代』(1938 年)、『カッスル夫妻』(1939年)を撮ったが興行成績は伸びず、ロジャースが 演技派女優への転身を望んでいたこともあり、コンビは解消した。
 2人は7年間で9作品においてコンビを組み、ドル箱 (マネー・メイキング)スター・ベスト10にも「アステア&ロジャース」のコンビとして、1935年(第4位)、1936年(第3位)、1937年(第7位)と3回ランクインした。
 (左の写真)『カッスル夫妻』 ジンジャー・ロジャースと

 ・後年、ジンジャー・ロジャースはアステアについて、「いつも厳しい教師であり、完全 主義者であった」と述べている。撮影中は喧嘩腰になることもよくあったという。

 ・ロジャースとのコンビ解消後、アステアはRKO社を去り、フリーとなって様々な会社で映 画に出演した。
Broadway Melody of 1940 Second Chorus
You'll Never Get Rich
『踊るニュウ・ヨーク』(1940年MGM)
『セカンド・コーラス』(1940年)
『踊る結婚式』 (1941年コロンビア)

 ・ビング・クロスビーと 初共演した『スイング・ホテル』(1942年パラマウント)が大ヒットし、『ジーグフェルド・フォリーズ』(1946年MGM)で、売り出し中のジーン・ ケリーと初共演した。
Holiday Inn
Ziegfeld Follies
『スイング・ホテル』  ビング・クロスビー(左)と
『ジーグフェルド・フォ リーズ』 ジーン・ケリー(左)

 ・ビング・クロスビーと再共演した『ブルー・スカイ』(1946年パラマウント)は、アステアのミュージカル映画で最大のヒット作となったが、突然の引退宣言をしてファンを驚かせた。

 ・撮影中に怪我で降板したジーン・ケリーの代役として、『イースター・パレード』(1948年MGM)で2年ぶりに銀幕復帰。映画は大ヒットし、次作の『ブロードウェイのバークレー夫妻』(1949年MGM)も、前作同様ジュディ・ガーランドとの共演が予定されていたが、ガーランドが病のため降板。 代役としてジンジャー・ロジャースが起用され、10年ぶりにコンビが復活。コンビ最大のヒット作となった。
Easter Parade-2
The_Barkleys_of_Broadway
『イースター・パレード』
 ジュディ・ガーランドと

『ブロードウェイのバーク レー夫妻』
ジンジャー・ロジャースと


 ・1950年、アカデミー賞の名誉賞を 受賞。
 授賞式当日、ニューヨークにいたアステアは、プレゼンターとして登場したジンジャー・ロジャースと電話で会話を交わした。
 (右の写真)アステアが司会を務めた1951年のアカデミー賞にて
 名誉賞を受賞したジョージ・マーフィー(左)と

with_George_Murphy

 ・『土曜は貴方に』(1950年)の演技で、ゴールデン・グローブ賞の主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞。

 ・1954年、『足ながおじさん』(1955年)の製作中に愛妻(当時46歳)を亡くし、降板を考えたが、周囲に説得され出演。その後、『パリの恋人』、『絹の靴下』(1957年)の2作が興行的に振るわず、暫く銀幕から遠ざかった。
The_Band_Wagon-3
Daddy Long Legs
『バンド・ワゴン』(1953年/監督:ヴィンセント・ミネリ
『足ながおじさん』
レスリー・キャロン
Funny Face Silk Stockings
『パリの恋人』
オードリー・ヘップバーン

『絹の靴下』
 シド・チャリシーと

  ・1957年、プライベートで来日。以前、MGM社のスタジオで面識のあった淀川長治さんを訪ねて、1人で「映画の友」編集部へ。カーテンを上げ下げする棒をステッキ代わりにタップを踊ってみせたという。

 ・1950年代後半からはTVにも出演。1958年に放映された「An Evening with Fred Astaire」は、エミー賞で9部門受賞した。
 アステアはTVの昼メロが大好きで、番組を観ることが出来なかった時は、家政婦に電話でストーリーを聞いていたというエピソードも。

 ・1961年、ゴールデン・グローブ賞のセシル・B・デミル賞を受賞。

Finian's_Rainbow
 ・『渚にて』(1959年/監督:スタンリー・クレイマーなど、非ミュージカル映画に3本出演した後、ブロードウェイの大ヒット作(1947年初演)を映画化した『フィニアンの虹』(1968年/監 督:フランシス・フォード・コッポラ)に出演。アステア主演の最後のミュージカルとなった。
 (左の写真) 『フィニアンの虹』

 ・ジョン・レノン&ヨーコ・オノのドキュメンタリー映画『イマジン』(1972年)にカメオ出演。

 ・MGM社の創立50周年を記念して製作されたミュージカルのアンソロジー 『ザッツ・エンターテインメント』(1974年)に、進行役の1人として出演。

 ・オールスター・キャストの大作パニック映画『タワーリング・インフェルノ』(1974年)で、アカデミー賞助演男優賞にノミネート。
 (右の写真)『タワーリング・インフェルノ』
 ジェニファー・ジョーンズ

Towering_Inferno-3

That's_Entertainment!-2  ・『ザッツ・エンターテインメント part U』(1976年)に進行役として登場。
 当時76歳のアステアは、64歳のジーン・ケリーと一緒に歌とダンスを披露。アステアの銀幕でのラスト・ダンスとなった。
 (左の写真)『ザッツ・エンターテインメント part U』
 ジーン・ケリー(右)と


 ・ヘレン・ヘイズと 共演したTVドラマ「A Family Upside Down(1978年)でエミー賞の主演男優賞を受賞。

 ・TVドラマ「宇宙空母ギャラクティカ」(1979年)に自ら志願してゲスト出演。ダンスを披露した最後の映像作品となった。

 ・1980年、45歳年下の女性と再婚。

 ・ホラー映画『ゴースト・ストーリー』(1981 年)に出演。アステアとメルヴィン・ダグラス、ダグラス・フェアバンクス・ ジュニア、3人の最後の映画となった。
 (右の写真)『ゴースト・ストーリー』 左から、
 ダグラス・フェアバンクス・ジュニア、ジョン・ハウスマン、
 アステア、メルヴィン・ダグラス
Ghost Story

Astaire AFI
 ・1981年、AFI(アメリカ映画協会)の生涯功労賞を受賞。授賞式のホストはデヴィッド・ニーヴンが務めた。
 (左の写真)AFI 生涯功労賞受賞時

 ・華麗で優雅なダンスにより、ハリウッド・ミュージカルの第一人者となったフレッド・ アステア。
 子供の頃からアステアの大ファンだったという ‟King of Pop” マイケル・ジャクソンをはじめ、あとに続くダンサーたちに多大な影響を与えた。
 (右の写真)マイケル・ジャクソンと
 
with_Michael_Jackson

 ・1987年88歳で他界。


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 フレッド・アステア  トリビュート動画



 ・AFI(アメリカ映画協会)が1999年に選定した「伝 説のスター・ベスト50」で、男優部門の第5位に選出。

Fred Astaire-2
Fred Astaire-3


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