20世紀・シネマ・パラダ イス

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Judy Garland

ジュディ・ ガーランド

Judy Garland

 
1922-1969 (アメリカ)


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     代表作

Love_Finds_Andy_Hardy The_Wizard_of_Oz
初恋合戦
Love Finds Andy Hardy

(1938年/アメリカ)
オズの魔法使
The Wizard of Oz

(1939年/アメリカ)
Meet Me in St. Louis Easter_Parade
若草の頃
Meet Me in St. Louis
(1944年/アメリカ)
イースター・パレード
Easter Parade
(1948年/アメリカ))
A Star Is Born Judgment at Nuremberg
スタア誕生
 A Star Is Born

(1954年/アメリカ)
ニュールンベルグ裁判
Judgment at Nuremberg
(1961年/アメリカ)

 
    ハリウッドで一時代を築いた伝説のミュージカル・スター

 ・1922年、ミネソタ州生まれ。本名はFrances Ethel Gumm
 父親は舞台芸人、母親はピアニストという芸能一家で、2歳の時から、父親が経営していた映画館で、2人の姉と一緒に歌を披露していた。
 7歳の時に、姉妹が所属していた歌劇団のクリスマス・ショーに「Gumm Sisters」として出演。その時のステージの様子が、『The Big Revue(1929年)という短編映画で残っている。
 (右の写真)「Gumm Sisters」中央が末っ子のジュディ・ガーランド
Gumm Sisiters

La_Fiesta_de_Santa_Barbara  ・姉妹トリオは「Garland  Sisiters」に名称を変更。
  *Garland = 花輪、花飾り
 
バスター・キートンゲーリー・クーパーロバー ト・テイラー等がカメオ出演したMGM社の短編映画『La Fiesta de Santa Barbara(1935年)にも出演したが、長女の結婚を機にトリオは解散。ジュディは歌唱力を認められ、MGM社と契約 した。
 (左の写真)『La Fiesta de Santa Barbara 』一番左がジュディ

 ・MGM社の短編映画『Every Sunday(1936年)で、1歳年上のディア ナ・ダービンと共演。同社の大ボス、ルイス・B・メイヤーが、同じ年頃の少女スターは2人も必要ないとし、「太った方 ( ジュディのこと)をクビにしろ」 と命じたが、部下のアーサー・フリードが間違って (間違ったふりをしたとの説もある)ダービンをクビにしたとの伝説が残っている。
 (右の写真) ディアナ・ダービン (左) と
With Deanna Durbin

Broadway_Melody_of_1938  ・MGM社の大スター、クラー ク・ゲーブルの36歳の誕生日パーティーで、「You Made Me Love You(1913年)の替歌を披露。これが好評で、映画『踊る不夜城』(1937年)の 中でも歌い、「Dear Mr. Gable」として親しまれることとなった。
 (左の写真)『踊る不夜城』 で、クラーク・ゲーブルの写真を前に歌うジュディ・ガーランド

 ・『Thoroughbreds Don't Cry(1937年)で、2歳年上のミッキー・ルーニーと 初共演。以後、『初恋合戦』(1938年)、『青春一座』(1939年)など、合計10本の映画で共演。少年少女カップルとして絶大な人気を誇った。ミッキーは後年、ジュディとの関係を、「恋愛関係ではなかったが、兄妹以上の特別な間柄だった 」と語っている。
 (右の写真)『Thoroughbreds Don't Cry 』 ミッキー・ルーニーと
Thoroughbreds_Don't_Cry

The Wizard of Oz-2 ・1939年、17歳の時に、代表作となるミュージカル・ファンタジー『オズの魔法使』(監督:ヴィクター・フレミングに出演。
 アメリカでは、1950年代後半以降TVで繰り返し放映され、史上最も鑑賞された映画とも言われている。
 (左の写真)『オズの魔法使』
  映画の中でジュディが素晴らしい歌声を披露した主題歌「虹の彼方に」は、全米レコード協会等が2001年に主催した「20世紀の名曲」 投票で第1位に選出されるなど、ハリウッド・ミュージカルが生んだスタンダード・ナンバーとして、今なお広く愛されている。
 (右の写真)『オズの魔法使』撮影時。ヴィクター・フレミング監督(左)、案山子役のレイ・ボルジャー(右)と
The_Wizard_of_Oz-3

Judy Garland Oscar
 ・1940年、アカデミー賞特別賞を受賞。
 『オズの魔法使』でのパフォーマンスに対して贈られた賞だった。
 (左の写真)子供用の小さいオスカー像 を手にするジュディ。ミッキー・ルーニーと。ミッキー・ルーニーも前年、ディアナ・ダービンと共に特別賞を受賞している。

 ・1941年、18歳の時に音楽家のデビッド・ローズと結婚したが、1944年に離婚した。
 この間、ジュディは妊娠したが、イメージを損なうとの理由で中絶を余儀なくされた。
 (右の写真)最初の夫デビッド・ローズと
David Rose
 * デビッド・ローズ … 後に、TVの人気大河ドラマ「大草原の小さな家」のテーマ曲等を作曲。

 ・1940年代、ハリウッドを代表する女性ミュージカル・スターとして大活 躍。ことダンスに関しては手厳しいフレッド・アステアをして、「彼女は史上最高の エンターテイナー」と言わしめている。
Ziegfeld_Girl /Meet_Me_in_St._Louis-2
『美人劇場』(1941年)
ヘディ・ラマー(左)、 ラナ・ターナー(右)と
『若草の頃』(1944年)
The Pirate Easter_Parade-2
『踊る海賊』(1948年)
ジーン・ケリー
『イースター・パレード』(1949年)
フレッド・アステアと

Vincente Minnell
 ・1945年、ジュディ主演の大ヒット作『若草の頃』(1944年)を手掛けたヴィンセント・ミネリ監督と再婚。夫婦となってからも、『踊る海賊』(1948年)等で組んだ。
 (左の写真)2番目の夫ヴィンセント・ミネリと
 ・1946年、後に女優となり、『キャバレー』(1971年)でアカデミー賞主演女優賞を受賞した長女のライザ・ミネリを出産。
 (右の写真) 長女のライザ・ミネリと
 
Liza Minnelli

Liza_Minnelli-2
 ・ミュージカル・スターとして一時代を築いたが、周りの大人たちの勧めで、ティーンエイジ からドラッグ類を常用。当時は副作用について無知だったため、出番が無い時は睡眠薬を、撮影が押している時には覚醒剤の類いを与えられていたという。

 ・1940年代後半からドラッグの副作用による神経症が現れ始め、遅刻や欠勤の常習犯に。自殺未遂まで起こし、問題児扱いされるようになってしまっ た。(左の写真) 長女のライザ・ミネリと

 ・『ブロードウェイのバークレー夫妻』(1949年)、 『アニーよ銃をとれ』(1950年)といった作品を途中降板させられ、『Summer Stock(1950年)への出演を最後に、MGM社から解雇されてしまった。

 ・ハリウッドから離れ、コンサート活動をスタート。
 1951年から1952年にかけて、ニューヨークのパレス劇場で行われたショーは記録的な大成功を収め、トニー賞の特別賞を受賞した。
 (右の写真)パレス劇場で
On Stage

Sidney Luft
 ・1951年、ヴィンセント・ミネリと離婚。翌年、彼女のショーをプロデュースしたシド ニー・ラフトと3度目の結婚。1952年に次女、1955年に長男を授かった。次女のローナ・ラフトも後に女優になった。
 (左の写真)家族と

 ・夫のシドニー・ラフトが製作した『スタア誕生』(1954 年/監督:ジョージ・キューカーで、4年ぶりに銀幕復帰。アカデミー賞主演女優賞にノミネートされ、最有力候補と噂された。
 授賞式前日に長男を出産したばかりの彼女の病室には、マスコミも詰めかけていたが、オスカーは『喝采』のグレース・ケリーに。得票差6票は 当時の最小記録だった。
 (右の写真)『スタア誕生』 ジェームズ・メーソン
A Star Is Born-3
 ジュディには、同作品を配給したワーナー・ブラザーズ社の後方支援も無かった。というの も、映画は大ヒットしたが、彼女の欠勤により撮影が長引き、製作費が膨らんだため赤字となったから。その結果、ジュディはワーナー・ブラザーズ社からも 見離されてしまった。
A Star Is Born-2  素晴らしいパフォーマンスを披露したジュディがアカデミー賞で敗れたことに憤った人も多 く、グルーチョ・マルクスは授賞式後、「ブリンクス以来、最大 の略奪だ」と、ジュディに慰めの電報を送ったという。 
 * ブリンクス … 1950年、ボストンで起こった強盗事件を指す。
 
ゴールデン・グローブ賞の主演女優賞(コメディ・ミュージカル部門)は受賞した。(左の写真) 『スタア誕生』

 ・その後、神経症が悪化し、再び自殺未遂を起こした。銀幕からは遠ざかり、舞台を中心に活 動。1955年には、CBS初の本格的なカラー番組「Ford Star Jubilee」の第1回放映で、TVに初出演。

 ・『ニュールンベルグ裁判』(1961年/監督:ス タンリー・クレイマーで、7年ぶりに銀幕復帰。ミュージカルから一転、シリアスな演技を披露し、アカデミー賞助演女優賞にノミネートされたが、オスカーには手が届かなかった。
 (右の写真)『ニュールンベルグ裁判』
Judgment_at_Nuremberg-2

Judy_at_Carnegie_Hall  ・1961年に、ニューヨークのカーネギー・ホールで行ったコンサートを収録したライヴ・ アルバム「Judy at Carnegie Hall 」 が、ビルボードのアルバム・チャートで13週連続No.1となる大ヒットを記録。
 翌年のグラミー賞で、最優秀女性歌唱賞最優秀アルバム賞を受賞した。
 (左の写真)「Judy at Carnegie Hall」 のレコード・ジャケット

 ・1962年、ゴールデン・グローブ賞のセシル・B・デミル賞を受賞。39歳での受賞は 同賞の最年少記録。

 ・1962年2月、TV番組 「ジュディ・ガーランド・ショー」放映。
 フランク・シナトラディーン・マーティンをゲストに迎えた同番組は大好評となり、ジュディは同年12月に、CBSと当時のTV史上最高額のギャラでレ ギュラー番組としての契約を締結。
 (右の写真)左から、ディーン・マーティン、ジュディ、フランク・シナトラ
The Judy Garland Show
 「ジュディ・ガーランド・ショー」 は、1963年9月から翌年の3月まで計26回、毎週日曜日に放映された。
 最初の収録時のゲストには、ジュディの要望でミッキー・ルーニーが招かれ、他の回では、ドナルド・オコナー、バーブラ・ストライサンド、娘のライザ・ミ ネリ、ローナ・ラフトなどがゲスト出演した。
The Judy Garland Show-2 The_Judy_Garland_Show-3
ミッキー・ルーニーと バーブラ・ストライサンド と

 ・『愛と歌の日々』(1963年)が最後の劇場用映画となった。『哀愁の花びら』(1967年)にもキャストされたが、欠勤を繰り 返し、降板させられた。

 ・1965年、シドニー・ラフトと離婚後、俳優のマーク・ハーロンと4度目の結婚をした が、1967年に離婚。1969年、音楽家のミッキー・ディーンズと5度目の結婚。
Mark Herron Mickey Deans
ライザ・ミネリ(左)、 マーク・ハーロン(右)と ミッキー・ディーンズと

 ・1969年、5度目の結婚の僅か3カ月後、ロンドンで他界。享年47 歳。誤って睡眠薬を多量に飲んだことが死因とされている。
 彼女が亡くなった日、『オズの魔法使』の舞台となったカンザスでは、映画同様に竜巻が発生したと伝えられている。

 ・葬儀はニューヨークで執り行われた。ライザ・ミネリは弔辞をミッキー・ルーニーに頼みたかったが、彼は大変なショックを受けていてその役を務める ことができず、代わりに『スタア誕生』で共演したジェームズ・メーソンが弔辞を読んだ。

Judy and Liza  ・1973年、ライザ・ミネリが 『キャバレー』(1972年)でアカデミー賞主演女優賞を受賞。
 「母が果たせなかった生涯の夢を果たすことができた。このオスカーは母のものです」と涙ながらにスピーチ。
 きっと、天国のジュディも自分のこと以上に喜んだに違いない。
  (左の写真)長女のライザ・ミネリと


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 コンサートで「虹の彼方に」を唄うジュディ・ガーランド。ライザ・ミネリも登場。

 

 ・1997年、グラミー賞の特別功労賞(生涯業績賞) を受賞。

 ・1998年、アルバム「Judy at Carnegie Hall 」がグラミーの殿堂入り。

 ・1999年、AFI(アメリカ映画協会)が選定した「伝説のスター・ベスト50」で、女優部門の第8位に選出。

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