20世紀・シネマ・パラダイス
ヘディ・ラマー
Hedy Lamarr
1914-2000(オーストリア/アメリカ)
◆
代表作
ブーム・タウン
Boom Town
(1940年/アメリカ)
美人劇場
Ziegfeld Girl
(1941年/アメリカ)
サムソンとデリラ
Samson and Delilah
(1949年/アメリカ)
腰抜けモロッコ騒動
My Favorite Spy
(1951年/アメリカ)
◆
優れた発明家でもあった美人女優
・
1914年
、ウィーン生れ。本名は
Hedwig Eva Maria Kiesler
。映画女優を志し、ドイツ演劇界の「皇帝」マックス・ラインハルトのもとで演技を学んだ後、ウィーンに戻り、1930年に銀幕デビュー。5作目の『春の調べ』
(1933年)
ではヌードになり、スクリーンで全裸を披露した史上初の女優となった。
・1933年、結婚を機に引退。夫は彼女の裸が映ったフィルムを買い占めようとしたという。独占欲の強い男で、籠の中の鳥のような生活を強いられていた彼女は1937年にパリへ逃亡した。
・パリへ来ていたMGM社の
ルイス・B・メイヤー
にスカウトされ、フランス映画
『望郷』
(1937年)
のリメイク作『カスバの恋』
(1938年)
でハリウッド・デビュー。
『風と共に去りぬ』
(1939年)
の
ヴィヴィアン・リー
は、『カスバの恋』でのヘディ・ラマーのヘアスタイルを真似たとも言われている。
(右の写真)『カスバの恋』
シャルル・ボワイエ
と
・従前はヘディ・キースラーの芸名だったが、サイレント期の美人女優バーバラ・ラ・マーにちなんでヘディ・ラマーと名乗るようになった。ルイス・B・メイヤーがバーバラ・ラ・マーのファンだったそうだ。
バーバラ・ラ・マー
Barbara La Marr
(1896-1926年)
サイレント期に美人女優として人気を博したが、怪我の痛み止めとして処方したモルヒネ等のドラッグ中毒となり、29歳の若さで亡くなった。
私生活では、10年間で5度の結婚・離婚を繰り返した。
・ルイス・B・メイヤーは彼女を売り出すために、自社の人気男優たちと共演させた。
『
Lady of the Tropics
』(1939年)
ロバート・テイラー
と
『
I Take This Woman
』(1940年)
スペンサー・トレイシー
と
『ブーム・タウン』(1940年)
クラーク・ゲーブル
と
『同志X』(1940年)
クラーク・ゲーブル
と
『
Come Live with Me
』(1941年)
ジェームズ・ステュアート
と
『
The Heavenly Body
』(1944年)
ウィリアム・パウエル
と
・
『カサブランカ』
(1943年)
のイルザ役をオファーされたが、『カスバの恋』と同じような作品だとの理由で辞退した。
・MGM社には1945年まで在籍し、15作品に出演した。
・パラマウント社の大作史劇『サムソンとデリラ』
(1949年/監督:
セシル・B・デミル
)
に出演。『風と共に去りぬ』
(1939年)
、
『我等の生涯の最良の年』
(1946年)
に次ぐ歴代第3位
(当時)
となる記録的な大ヒットとなり、彼女の代表作となった。
(右の写真)『サムソンとデリラ』
ヴィクター・マチュア
と
『腰抜けモロッコ騒動』(1951年)
ボブ・ホープ
と
『
The Story of Mankind
』(1957年)
・『
The Female Animal
』
(1958年)
に出演したのを最後に引退したが、彼女は発明家としての顔も持っていた。第2次世界大戦中に、作曲家のジョージ・アンタイルの協力を得て、魚雷の無線誘 導システムが通信妨害を受けない技術を開発し、特許を取得した。その技術理論は現在の携帯電話にも取り入れられているというから大したものである。
(左の写真) 『サムソンとデリラ』
・美人で頭脳明晰な女性だったが、決して幸福ではなかったようである。ご本人は身の上の不幸について、「
美人で頭が良いゆえに
」との発言をしていたようであるが…。
バーバラ・ラ・マーの如く、生涯で6回も結婚・離婚を繰り返し、1966年と1991年には万引きで逮捕されている。
(右の写真)『サムソンとデリラ』
・
2000年
、
85歳
で他界。
・『
Calling Hedy Lamarr
』
(2004年)
等、彼女の生涯を描いたドキュメンタリー映画やTV番組が何本か製作されている。
・2014年、ジョージ・アンタイルと共に全米発明家の殿堂入りとなった。
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