20世紀・シネマ・パラダ イス

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Spencer Tracy

スペン サー・トレイシー

Spencer Tracy

   
1900-1967(アメリカ)


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     代表作
 
Captains Courageous Boys Town
我は海の子
Captains Courageous
(1937年/アメリカ)
少年の町
Boys town

(1938年/アメリカ)
Father of the Bride The_Old_Man_and_the_Sea-4
花嫁の父
Father of the Bride

(1950年/アメリカ)
老人と海
The Old Man and the Sea

(1958年/アメリカ)
Judgment_at_Nuremberg-3
Guess Who"s Coming to Dinner
ニュールンベルグ裁判
Judgment at Nuremberg

(1961年/アメリカ)
招かれざる客
Guess Who's Coming to Dinner
(1967年/アメリカ)


    2年連続でオスカーを獲得したハリウッド黄金 期の名優

 ・1900年、ウィスコンシン州生れ。子供の頃は喧嘩っ早く、何度も放校処 分を喰らっていた。
 1917年、アメリカが第1次世界大戦に参戦すると、カトリック・イエズス会系のマーケット大学付属高校を中退して海軍に入隊したが、前線に派遣される ことなく終戦を迎えた。

 ・1921年、医師を目指してウィスコンシン州のリボン大学へ入学したが、演劇に興味を抱き、翌年、ニューヨークのアメリカン演劇アカデミーのオーディ ションを受け合格。奨学金を得て、同アカデミーで演技を学んだ。

  ・1923年、「ロボット」という言葉を生み出したことで有名な劇「R.U.R.」に、台詞の無いロボット役の1人としてブロードウェイの舞台に立った後、エセル・バリモア主演の 「A Royal Fandango」で本格的なブロードウェイ・デビューを果たした。
 しかし、「A Royal Fandango」は大して評判にならず、トレイシーはその後、ドサ回りを余儀なくされた。
 (右の写真)銀幕デビュー前のスペンサー・トレイシー
Spencer_Tracy-4

Louise_Treadwell  ・1923年に女優のルイーズ・トレッドウェルと結婚。長男、長女を授かったが、長男のジョンは聴覚障害 を抱えており、ルイーズは女優を辞めて育児に専念することとなった。
 (左の写真)妻のルイーズと

 ・1926年、3年ぶりにブロードウェイの舞台に立つチャンスが到来。後に、 「ブロードウェイの父」と呼ばれるジョージ・M・コーハン製作の「Yellow」 である。トレイシーの演技はコーハンに激賞され、コーハン製作の「Baby Cyclone(1927年)にも出演。トレイシーは後年、コーハンとの出会いが無ければ役者を辞めていただろうと述べている。

 ・1930年、死刑囚を演じたブロードウェイでの初主演作「The Last Mile」が8ヶ月のロングランとなる大ヒット。役者として漸く大きな成功を収めた。
 * 「The Last Mile 」 … ロスでの公演ではクラーク・ゲーブルが主演。1932年、1959年(ミッキー・ルーニー主演)と2度映画化された。
 (右の写真)舞台 「The Last Mile
The_Last_Mile

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 ・舞台「The Last Mile」を観たジョン・フォード監督に スカウトされ、同監督の『河上の別荘』(1930年)の主役で本格的な銀幕デビュー。
 生涯の親友となるハンフリー・ボガートも、同作品で長編映画デビューをしている。
 (左の写真)『河上の別荘』 ハンフリー・ボガート(左)と

 ・『河上の別荘』 の前に3本の短編映画に出演している。彼自身は舞台俳優で満足していたが、家族を養うためにギャラの高い映画俳優になったという。各社のスクリーン・テス トを受けていたが、決してハンサムとは言えないマスクでもあり、不合格 ばかりだったが、 『河上の別荘』での演技が評価され、FOX社と契約を交わした。

 ・ワーナー・ブラザーズ社に貸し出されて出演した『春なき2万年』(1932年)や、鉄道王に扮 した『力と栄光』(1933年)などの演技は高い評価を得たが、スターの座を掴む程の成功では なかった。また、『青空天国』(1933年)で共演したロレッタ・ヤングとは不倫の関係になったと言われてい る。
Me_And_My_Gal
20000_Years_in_Sing_Sing
『金髪乱れて』(1932年/監督:ラオール・ウォルシュ
ジョーン・ベネット
『春なき2万年』(1932年/監督:マイケル・カーティス
ベティ・デイビス
The_Power_and_the_Glory
A_Man's_Castle
『力と栄光』(1933年)
コリーン・ムーア
『青空天国』(1933年/監督:フランク・ボーゼージ
ロレッタ・ヤングと

 ・FOX社の5年間で20作以上に出演したが、役柄を巡って監督や会社の首脳陣と衝 突し、更には、酒に酔って警察沙汰になることもあって、同社からお払い箱にされてしまった。

 ・1935年、MGM社と契約。周囲の反対を押し切って、トラブル・メーカーだったトレイシーとの契約を決定したアービング・G・タルバーグは、「スペンサーは、MGMで最も貴重なスターの1人になるだろう」と語ったと伝えられている。
The_Murder_Man
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MGM社での最初の作品 『舗道の殺人』(1935年)
ヴァージニア・ブルースと
『諾?否?』(1935年/監督:サム・ウッド
マーナ・ロイ

 ・フリッツ・ラング監督の ハリウッドでの初作品『激怒』(1936年)が、トレイシーにとって初のヒット作に。クラーク・ゲーブルと共演した『桑港 -サンフランシスコ(1936年)は、その年最大のヒット作品となり、トレイシーはアカデミー賞主演男優賞に初のノミーネート。映画スターとしての地位を確立した。
Fury
San Francisco
『激怒』(1936年)
シルヴィア・シドニー
『桑港 -サンフランシスコ 』(1936年)
クラーク・ゲーブル(左)と

 ・『我は海の子』(1937年/監督:ヴィクター・フレミングで、アカデミー賞主演男優賞 を受賞。
Captains Courageous-2 Mannequin-2
『我は海の子』(1937年)
フレディ-・バーソロミュー
Mannequin 』(1937年/監督:フランク・ボーゼージ)
ジョーン・クロフォード

 ・実在の人物フラナガン神父を演じた『少年の町』(1938 年)で、2年連続アカデミー賞主演男優賞受賞という快挙を達成。作品は大ヒットし、続編『感激の町』(1941年)も製作された。
 * 女優では、ルイーゼ・ライナーが『巨星ジーグフェルド』(1936年)、『大地』(1937年)で2年連続受賞している。
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『テスト・パイロット』(1938年/監督:ヴィクター・フレミング)
クラーク・ゲーブル(左)、マーナ・ロイと
『少年の町』(1938年)
ミッキー・ルーニー


『少年の 町』で獲得したオスカー像には、何故か人気コミックの主人公の名前 「ディック・トレイシー(Dick Tracy)」が彫られているとか
 
(右の写真)主演女優賞を受賞したベティ・デイビスと
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 ・ ハリウッドきっての名優としての地位を確立。人気の方でも、ドル箱(マネー・メイキング)ス ター・ベストテンの常連となった。1938年(5位)、1939年(3位)、1940年(2位)、1941年(5位)、1942年(10位)、1944年 (5位)、1945年(5位)、1948年(9位)、1950年(9位)、1951年(10位)と合計10回ランクインした。
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Jekyll and Hyde
『ブーム・タウン』(1940年)
クラーク・ゲーブル、クローデット・コルベール
ジキル博士とハイド氏』(1941年/監督:ヴィクター・フレミング)
イングリッド・バーグマン(左)、ラナ・ターナー

Katharine_Hepburn  ・キャサリン・ヘッ プバーンからの熱烈なオファーを受けて、『女性No.1』(1942年/監督:ジョージ・スティーヴンスで初共演。以後、『火の女』(1942年)、『Without Love(1945 年)、『大草原』(1947年)、『愛の立候補宣言』(1948年)、『アダム氏とマダム』(1949年)、『パットとマイク』(1952年)、『Desk Set(1957年)、 『招かれざる客』(1967年)の合計9作で共演。ハリウッド史に残る黄金コンビとなり、私生活でもパートナーとなった。
 (左の写真)キャサリン・ヘップバーンと

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Thirty_Seconds_Over_Tokyo
『ジョーという名の男 』(1943年/監督:ヴィクター・フレミング)
アイリーン・ダン
『東京上空三十秒』(1944年/監督:マーヴィン・ルロイ
ロバート・ウォーカー(左)、ヴァン・ジョンソン(中央)と

 ・1945年、15年ぶりに、ブロードウェイの舞台「The Rugged Path」で主役を務めた。

 ・『花嫁の父』(1950年・監督:ヴィンセント・ミネリが大ヒットし、12年ぶり4度目のアカデミー賞主演男優賞候補に。 翌年、続編の『可愛い配当』も製作された。

 ・『The Actress(1953年/監督:ジョージ・キューカーで、ゴールデン・グローブ賞の主演男優賞を受賞。
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The_Actress
『花嫁の父』(1950年)
エリザベス・テイラー
The Actress』(1953年)
ジーン・シモンズ(左)、テレサ・ライト

 ・『日本人の勲章』(1955年/監督:ジョン・スタージェスで、5度目のアカデミー賞主演男優賞候補となり、同作でカンヌ国際映画祭の主演男優賞を受賞。同作を最後にMGM社との契約を更新せずに独立した。

 ・『老人と海』(1958年/監督:ジョン・スタージェス)で、6度目のアカデミー賞主演男優賞候補に。
Bad Day at Black Rock The_Old_Man_and_the_Sea-2
『日本人の勲章』(1955年)
ジョン・エリクソン(右)と
『老人と海』(1958年)

 ・『風の遺産』(1960年/監督:スタンリー・ク レイマーで、7度目のアカデミー賞主演男優賞候補に。

 ・『ニュールンベルグ裁判』(1961年/監督:スタンリー・クレイマー)で、8度目のアカデミー賞主演男優賞候補に。ラスト13分の演説シーンを1テイクで撮り終えたトレイシーに、撮影現場の役者やクルーから盛大な拍手が送られたという。
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『風の遺産』(1960年)
フレドリック・マーチ(左)と
『ニュールンベルグ裁判』(1961年)

 ・『おかしなおかしなおかしな世界』(1963年/監督:スタンリー・クレイマー) の撮影後、体調が悪化してダウン。
 出演予定だった『シャイアン』(1964年/監督:ジョン・フォード)、『シンシナティ・キッ ド』(1965年/監督:ノーマン・ジェイソン)は、2作ともエドワード・G・ロビンソンが代わりに出演した。 
 (右の写真)『おかしなおかしなおかしな世界』
It's_a_Mad,_Mad,_Mad,_Mad_World

 ・トレイシーは、長男の障害は自分の浮気が原因であると責任を感じており、過度の飲酒癖は、 その罪悪感から逃れるためだったとも言われている。
 キャサリン・ヘップバーンとパートナーとなってからも、障害も持つ長男を育 てている妻に負い目を感じて別れることが出来ず、キャサリンもその事を承知の上での関係だった。病に倒れてからは、キャサリンと妻のルイーズが交代で看病してい た。

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 ・1967年、奇跡的に回復し、キャサリン・ヘップバーンと 共に、『招かれざる客』(監督:スタンリー・クレイマー)の撮影に臨み、撮影が終了した17日後に帰らぬ人となった。享年67歳
 最期を看取ったのはキャサリン・ヘップバーンだった。
 (左の写真 『招かれざる客』 キャサリン・ヘップバーンと

 ・没後に公開された『招かれざる客』 は、キャサリンとのコンビの最大のヒット作品となった。2人揃ってアカデミー賞の主演賞にノミーネートされ、キャサリンは史上最多(当時)となる3度目のオス カーを受賞。トレイシーは受賞を逃し、黄金コンビでのダブル受賞とはならなかったが、彼の主演男優賞ノミネート9回というのは、ローレンス・オリビエと並び、同賞の最多記録(2014年現在)となっている。


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 スペンサー・トレイシー  トリビュート動画。ナレーターはバート・レイノルズ。



 ・AFI(アメリカ映画協会)が1999年に選定した「伝 説のスター・ベスト50」で、男優部門の第9位に選出。

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