20世紀・シネマ・パラダイス
マーヴィン・ルロイ
Mervyn LeRoy
1900-1987 (アメリカ)
◆
代表作
犯罪王リコ
Little Caesar
(1931年/アメリカ)
仮面の米国
I Am a Fugitive from a Chain Gang
(1932年/アメリカ)
哀愁
Waterloo Bridge
(1940年/アメリカ)
心の旅路
Random Harvest
(1942年/アメリカ)
キュリー夫人
Madame Curie
(1943年/アメリカ)
若草物語
Little Women
(1949年/アメリカ)
◆
幅広いジャンルでヒット作を手掛けたハリウッドの名匠
・
1900年
、カリフォルニア州生れ。1906年のサンフランシスコ大地震で被災し、家計を助けるために新聞販売員や寄席芸人として働いたこともあった。
成人となると、いとこの映画製作者
ジェシー・L・ラスキー
を頼ってハリウッドへ行き、ラスキーが創設者の1人でもあるフェーマス・プレイヤーズ・ラスキー社
(パラマウント社の前身)
に入社。裏方として働き、俳優としても、
グロリア・スワンソン
主演の『放埓娘』
(1923年)
、
アドルフ・マンジュー
、
ノーマ・シアラー
主演の『縺れ行く情火』
(1924年)
等、数本の映画に出演した。
・ファースト・ナショナル社
(1929年、ワーナー・ブラザーズ社に買収)
へ移籍し、
メアリー・アスター
主演の『蛮婚崇拝』
(1927年)
で監督デビュー。
(右の写真)『高速度娘蕾の巻』(1928年)の撮影現場に訪れた
チャップリン
(左)、主演の
セルマ・トッド
と
・
エドワード・G・ロビンソン
主演のギャング映画『犯罪王リコ』
(1931年)
が大ヒットし、一流監督の仲間入りを果たした。
(左の写真)『犯罪王リコ』撮影時。エドワード・G・ロビンソン(右)と
・ポール・ムニ主演の『仮面の米国』
(1932年)
は、本物の脱獄囚の手記に基づく作品で、全米でセンセーションを巻き起した。
ジョージア州など南部の刑務所内の非人道的な実態が世論からの批判にさらさ れ、囚人たちを鎖で繋ぐ「チェーン・ギャング」等が廃止されることとなった。
(右の写真)『仮面の米国』中央がポール・ムニ
・1938年、製作者
アービング・G・タルバーグ
(1936年没)
の後任として、破格の待遇でMGM社に招かれ、製作者として
『オズの魔法使』
、『マルクス兄弟珍サーカス』
(1939年)
等を手掛け、大ヒットさせた。しかし、製作業よりも、より現場に近い監督業の方が好きだったようで、再び自らメガホンを手に取るようになった。
(左の写真)『オズの魔法使』のフィルムをチェックするマーヴィン・ルロイ
・MGM社での初監督作品は
『哀愁』
(1940年)
。
恋愛映画の古典的名作として、今なお多くの映画ファンに愛されている作品。ルロイ監督の1番の代表作となった。
(右の写真)『哀愁』撮影時。
ヴィヴィアン・リー
と
『塵に咲く花』
(1941年)撮影時
グリア・ガースン
、
ウォルター・ピジョン
(右)と
『
Johnny Eager
』
(1941年)撮影時
ロバート・テイラー
(左)と
・記憶喪失者の恋愛映画の定番となった『心の旅路』
(1942年)
で、アカデミー賞監督賞にノミネート。
(左の写真)『心の旅路』撮影時
グリア・ガースン、
ロナルド・コールマン
(右)と
・伝記映画『キュリー夫人』
(1943年)
、戦争映画『東京上空三十秒』
(1944年)、
恋愛映画『帰郷』
(1948年)
、MGM社創立25周年記念作の『若草物語』
(1949年)
、ローマ史劇『クォ・ヴァディス』
(1951年)
等、幅広いジャンルでヒット作を手掛けた。
『キュリー夫人』撮影時
グリア・ガースン(左)、
マーガレット・オブライエン
と
『東京上空三十秒』撮影時。
ヴァン・ジョンソン
(左)、ロバート・ウォーカー(右から2番目)と
『若草物語』撮影時。右から、
ジューン・アリソン
、
ロッサノ・ブラッティ
、ピーター・ローフォードと
『クォ・ヴァディス』撮影時
ロバート・テイラー(左)、
デボラ・カー
と
・1955年、ワーナー・ブラザーズ社に復帰。
グリア・ガースンと12年ぶりに組んだ『荒野の貴婦人』を監督し、
ジョン・フォード
監督が主役の
ヘンリー・フォンダ
と衝突し、途中降板した『ミスター・ロバーツ』
(1955年)
の監督を引き継ぎ、完成させた。
(右の写真)『荒野の貴婦人』撮影時。グリア・ガースンと
・ホラー・スリラー『悪い種子』
(1956年)
、FBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーの協力下で撮った『連邦警察』
(1959年)
等を監督。
(左の写真)『連邦警察』撮影時。FBI長官ジョン・エドガー・フーヴァー(左)、
ジェームズ・ステュアート
(右)と
・自ら映画製作会社を設立して撮った75作目の監督作品『その日その時』
(1966年)
を最後に引退したが、
ジョン・ウェイン
が監督・主演した『グリーン・ベレー』
(1968年)
をサポートした。
(右の写真)『その日その時』撮影時。監督作品75作を祝うケーキを贈られる。隣は主演のジーン・セバーグ
・1974年、自伝「
Take One
」を出版。
・1975年、アカデミー賞のアービング・G・タルバーグ賞を受賞。
監督賞ノミネートは1回だけだったが、9作品が作品賞候補となっていた。
*
『特輯社会面』(1931年)、『仮面の米国』(1932年)、『風雲児アドヴァース』(1936年)、『オズの魔法使』(1939年/製作)、『塵に咲 く花』(1941年)、『心の旅路』(1942年)、『キュリー夫人』(1943年)、『クォ・ヴァディス』(1951年)、『ミスタア・ロバーツ』 (1955年/共同監督)
・
1987年
、
86歳
で他界。
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