20世紀・シネマ・パラダイス

Megaphonebar
John Ford

ジョン・フォード

John Ford

1894-1973 (アメリカ)

Megaphonrbar


  ◆ 代表作

The Iron Horse
The_Informer
アイアン・ホース
The Iron Horse
(1924年/アメリカ)
男の敵
The Informer

(1935年/アメリカ)
Stagecoach-5
The Grapes of Wrath
駅馬車
Stagecoach
(1939年/アメリカ)
怒りの葡萄
The Grapes of Wrath

(1940年/アメリカ)
How Green Was My Valley
My Darling Clementine
わが谷は緑なりき
How Green Was My Valley
(1941年/アメリカ)
荒野の決闘
My Darling Clementine
(1946年/アメリカ)
The Quiet Man-5
The_Searchers-01
静かなる男
The Quiet Man
(1952年/アメリカ)
捜索者
The Searchers
(1956年/アメリカ)


    「西部劇の神様」 ハリウッドを代表する巨匠

 ・1894年、メイン州にて、アイルランドからの移民だった両親の11人兄弟の10番目の子供として生れた。本名はJohn Mertin Feeney。メイン州ポートランド高校時代はフットボールの花形選手だった。 * 1895年生れとの説もある

 ・1914年、映画監督兼俳優だった12歳年上の兄フランシスを頼ってハリウッドへ行き、ユニヴァーサル社に入社。
‟ジャック・フォード”の芸名で俳優としてデビューし、D・W・グリフィス監督の『國民の創生』(1915年)にもエキストラで出演した。

 ・裏方の仕事や助監督も務めるようになり、ユニヴァーサル社の創設者カール・レムリに認められ、『颱風』(1917年)で監督デビュー。
 1920年までに30数作をユニヴァーサル社で監督したが、その内の26作はハリー・ケリー主演の西部劇だった。
 (右の写真)ハリー・ケリー

 
・1920年フォックス社へ移籍。この年に結婚し、後に2人の子を授かった。
harry Carey

 ・『侠骨カービー』(1923年/主演:ジョン・ギルバートを監督した時から、‟ジョン・フォード”と名乗るようになった。

 ・大陸横断鉄道の敷設に取り組む人々を描いた大作『アイアン・ホース』(1924年)を大ヒットさせ、映画監督として名を上げた。パラマウント社の大作西部劇『幌馬車』(1923年)に対抗する作品であり、「西部劇の神様」の第1歩をスタートさせた記念碑的作品となった。
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The Iron Horse-2
『アイアン・ホース』(1924年)
マッジ・ベラミー、ジョージ・オブライエン

『アイアン・ホース』撮影時
フォード監督(一番右)

 ・フォックス社初のトーキー『マザー・マクリー』(1928年)を監督。エキストラではあるが、ジョン・ウェインがフォード監督作品に初出演した。

Arrowsmith  ・サミュエル・ゴールドウィン社で『人類の戦士』(1931年)を監督。病原菌と格闘する医師と彼を支える妻を描いた作品は、アカデミー賞の作品賞など4部門でノミネートされた。
 (左の写真)『人類の戦士』
 ヘレン・ヘイズロナルド・コールマン

 ・アイルランド独立運動を背景にしたドラマ『男の敵』(1935年)を監督。フォックス社は話が地味だとしてNGとしたが、アイルランド移民2世のフォード監督は諦めず、『キング・コング』(1933年)を製作・監督したメリアン・C・クーパーがGOサインを出し、RKO社で映画化が実現。低予算のため、僅か3週間で撮り終えた。
 アカデミー賞で作品賞を含む6部門でノミネートされ、監督賞、主演男優賞ヴィクター・マクラグレン、脚色賞、作曲賞の4部門で受賞した。
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『男の敵』(1935年) ヴィクター・マクラグレン
『男の敵』撮影時。ヴィクター・マクラグレン(右)と

 ・西部劇の金字塔『駅馬車』(1939年)を監督。トーキーでは自身初の西部劇。主役に抜擢したジョン・ウェインの出世作となった。アカデミー賞で作品賞など7部門でノミネートされ、助演男優賞トーマス・ミッチェル、作曲・編曲賞の2部門で受賞した。
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『駅馬車』(1939年)
クレア・トレヴァー、ジョン・ウェイン
『駅馬車』撮影時

 ・『駅馬車』のロケ地のユタ州モニュメント・ヴァレーは、フォード監督お気に入りの地となり、『黄色いリボン』、『捜索者』などもこの地で撮影した。
 同地はナバホ族の居留地であり、フォード監督は彼らをエキストラで雇用し、正規のギャラを支払うことで経済的な支援をしていた。 
 (右の写真)モニュメント・ヴァレーでのフォード監督
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 ・『若き日のリンカーン』(1939年)で主役を務めたヘンリー・フォンダは、フォード監督お気に入りの俳優となり、監督初のカラー作品『モホークの太鼓』(1939年)『怒りの葡萄』(1940年)と3作連続で主役に起用した。
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『若き日のリンカーン』(1939年)
ヘンリー・フォンダ

『若き日のリンカーン』撮影時。フォード監督(一番左)
ヘンリー・フォンダ(左から2番目)

 ・ノーベル賞作家ジョン・スタインベックのピューリッツァー賞受賞作を映画化した『怒りの葡萄』は、アカデミー賞の作品賞など7部門でノミネートされ、自身2度目の監督賞と助演女優賞(ジェーン・ダーウェル)の2部門で受賞した。
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『怒りの葡萄』(1940年)
 ヘンリー・フォンダ、ジェーン・ダーウェル
『怒りの葡萄』撮影時。ヘンリー・フォンダ(左)、
   アリス・フェイ (本作未出演)と

The Long Voyage Home  ・この年は、ジョン・ウェイン主演の『果てなき航路』も作品賞を含む6部門でノミネートされていたが、こちらは無冠に終わった。
 (左の写真)『果てなき航路』 ジョン・ウェイン(左)

 ・快進撃は続いた。『わが谷は緑なりき』(1941年)は、アカデミー賞の10部門でノミネートされ作品賞、監督賞(2年連続3度目)、助演男優賞(ドナルド・クリスプ)、美術賞(白黒部門)撮影賞白黒部門)の5部門で受賞した。
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『わが谷は緑なりき』(1941年)
ウォルター・ピジョンモーリン・オハラ
『わが谷は緑なりき』撮影時
ロディ・マクドウォール

John Ford-3  この年は、映画史上No.1とも言われる『市民ケーン』もノミネートされていたが、オーソン・ウェルズは最も好きな映画監督としてジョン・フォードの名前を挙げており、『市民ケーン』を撮る前には、『駅馬車』を何度も観て勉強したとのエピソードも。
 (左の写真)自身の肖像画をバックに。横にはオスカー像も。

 ・第2次世界大戦中は、米国海軍とOSS(戦略事務局:CIAの前身)の為に戦争ドキュメンタリー『ミッドウェイ海戦』(1942年)、『真珠湾攻撃』(1943年)を製作。アカデミー賞のドキュメンタリー映画賞を受賞した。
 ミッドウェイ海戦では、日本軍のゼロ戦の空爆により腕を負傷した。 
 (右の写真)陸軍に入隊したフランク・キャプラ(左)と
 フォード監督が好きな映画監督はフランク・キャプラだった
Capra and Ford


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