20世紀・シネマ・パラダ イス

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Citizen Kane

       市民ケーン
        Citizen Kane
        監督:オーソ ン・ウェルズ
        (1941年/アメリカ)
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  映画史上No.1とも謳われる 鬼才オーソン・ウェルズの代表作

 大邸宅の一室で、初老の男性が「バラの蕾」 という言葉を最後に息を引き取った。最後に手にしていたものは、雪景色の一軒家が入っているガラス玉だった。
 故人は、世界一とも言われる大邸宅・通称「ザナドゥ」の領主、新聞王チャールズ・フォスター・ケーン。 彼の死は世界中で報道された。
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 あるニュース映画社で、ケーンの生涯を追ったフィルムの試写会が行われた。その出来に不満 だった編集長は、部下のトムスンに、ケーンの最後の言葉「バラの蕾」 の意味を調べるように命じた。 Citizen_Kane-4

Citizen_Kane-5  トムソンは、ケーンの2番目の妻だったスーザ ン・アレクサンダーを訪ねてナイト・クラブへ 行ったが、彼女は何も話そうとせず、「バラの蕾」の意味も知らない様子だった。

 トムスンは次に、ケーンの後見人だった銀行家サッ チャーの記念図書館へ行き、彼の手記を読んだ…。

 …サッチャーが、まだ幼いケーンと初めて会ったのは雪深いコロラドの片田舎。ケーンの母親はこの地で下宿屋を営んでおり、ある下宿人から土地の権利書を 家 賃のかたに取得していたが、その土地から金鉱が見つかったのだ。
 母親は、財産の管理と ケーンの教育をサッチャーに託した。ケーン少年は半ば無理やりに両親と別れさせられ、ニューヨークで育てられることとなった。
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 25歳となったケーン青年は、後見人サッチャーから独立した。世界第6位の大富豪となった ケー ンは、弱小の「インクワイラー」誌を買収して新聞経営に乗り出した。サッチャーの忠告を無視して事業を拡大していったケーンだったが1929 年の大恐慌で、全ての事業を失ってしまった…。
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 …サッチャーの手記を読んでも、「バラの蕾」 の意味は判明しなかった。
 トムスンは次に、ケーンの事業の片腕の一人だったバーンステインに会いに行った…。
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 『市民ケーン』 予告編



  主な出演者など

Citizen Kane-44 ケーン役 オーソン・ウェルズ
リーランド役 ジョゼ フ・コットン
バーンステイン役 … エヴェロット・スローン
スーザン役 … ドロシー・カミンゴア

 ・22歳の時に「マーキュリー劇団」を率いて、ニューヨークの演劇界で「神童」 と称され、23歳の時に火星人来襲のラジオ放送で、その名を全米に轟かせた鬼才オーソン・ウェルズ。
 彼が25歳の時に、初の劇場用長編映画として製 作・監督・脚本(共同)・主演をこなしたのが『市民ケーン』。
 (右の写真)オーソン・ウェルズ
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Citizen Kane-46  ・予算以外は一切口出しをしないとの破格の条件で、RKO社と契約を交わしたウェルズ。当 初は、ジョ セフ・コンラッドの小説「闇の奥」の映画化を企画したが、予算的にNGとなった。
 * ジョセフ・コンラッドの 「闇の奥」 … フランシス・フォード・コッポラ監督『地獄の黙示録』(1979年)の原作。
 (左の写真)撮影時のオーソン・ウェルズ(左)とジョゼフ・コット ン

 ・次に、ニコラス・ブレイクのミステリー小説「短刀を忍ばせ微笑む者」 が候補となったが、主役として考えていたキャロル・ロンバードをキャスティングす ることが出来ず、これもNGとなった。
 * ニコラス・ブレイク … 本名セシル・デイ・ルイス。イギリスの詩人。ニコラス・ブレイク名義でミステリー小説も執筆。俳優ダニエル・デイ・ルイスの父親。
 (右の写真)撮影時。ドロシー・カミンゴア(左)、
オーソン・ウェルズ
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Citizen Kane-47  ・『市民ケーン』は、脚本家のハーマン・J・マンキウィッツとウェルズが共同で執筆した作 品。
 ウェルズは撮影に入る前に、『カリガリ博士』(1920年)『駅馬車』(1939年)等を鑑賞して勉強。特に、敬愛していたジョ ン・フォード監督の『駅馬車』は、繰り返し40回も観たと言われている。
 (左の写真)撮影時のオーソン・ウェルズ
 
 * ハーマン・J・マンキウィッツ … 『晩餐八時』(1933年)、『打 撃王』(1942年)等の脚本家。ジョゼ フ・L・マンキウィッツの兄。

 ・新人監督のウェルズをサポートしたのが、伝説の名カメラマン、グレッグ・トーランド
 彼が開発したパン・フォーカスの技法など、斬新なカメラ・ワークを大いに発 揮。ウェルズは最高のカメラマンだったと賞賛している。
 (右の写真)撮影時のオーソン・ウェルズ。後ろの白シャツがグレッグ・トーランド。
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Citizen Kane-48  ・トーランドは、ニュース映画の中でケーンにインタビューする記者役で出演も した。
 (左の写真)グレッグ・トーランド(右)の出演シーン
 * グレッグ・トーランド … ウィリアム・ワイラー監督の『嵐が丘』、『偽りの花園』、『我等の生涯の最良の年』、ジョン・フォード監督 の『怒りの葡萄』ハ ワード・ホークス監督の『教授と美 女』などを撮影。『嵐が丘』 でアカデミー賞撮影賞を受賞した。

 ・映画のモデルとされた新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハースト(1863-1951)は、 本作 の公開を阻止しようと、自らの新聞・ラジオを総動員。
 RKO社の広告、宣伝をボイコットし、同社の幹部やウェルズを誹謗中傷した。更には、フィルムを焼却処 分すれば、製作費の全額を支払うとの提案まで持ち出したとされている。
 (右の写真)新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハースト
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 ・ハーストの妨害が逆に宣伝にもなり、映画の公開だけでもスキャンダルとなった。
 批評家からは絶賛されたが、ハーストの報復を恐れて上映を拒否する映画館も多く、興行成績は赤字となった。
 アカデミー賞では、作品賞を含む9部門でノミネートされたが、受賞は脚 本賞のみに留まった。 
 (左の写真)『市民ケーン』公開中の劇場とオーソン・ウェルズ 

 ・「バラの蕾」 については、ハーストの母親のニックネームだったとする説、ハーストのペットの犬の名前だったとする説など諸説がある。中には、ハーストが愛人の女優マリオン・デイヴィスの恥部を「バラの蕾」 と呼んでいた、という説まである。
 (右の写真)ハーストの愛人、女優のマリオン・デイヴィス 
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Rosebud Sled  ・撮影で使用された「バラの蕾」 の雪橇は3つ作られていたが、その1つは、1982年にスティーブン・スピルバーグ監督が約6万ドルで購入した。
 (左の写真)「バラの蕾」の橇を手にするスティーブン・スピルバーグ監督

 ・「映画の教科書」と賞賛され後世に計り知れない程の影響を与えた 『市民ケーン』。
 AFI(アメリカ映画協会)が1998年に選定した「アメリカ映画100年ベスト100」では、堂々の第1位に選出された。
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