20世紀・シネマ・パラダ
イス
◆ 映画史上No.1とも謳われる 鬼才オーソン・ウェルズの代表作
大邸宅の一室で、初老の男性が「バラの蕾」
という言葉を最後に息を引き取った。最後に手にしていたものは、雪景色の一軒家が入っているガラス玉だった。
故人は、世界一とも言われる大邸宅・通称「ザナドゥ」の領主、新聞王チャールズ・フォスター・ケーン。
彼の死は世界中で報道された。 |
あるニュース映画社で、ケーンの生涯を追ったフィルムの試写会が行われた。その出来に不満
だった編集長は、部下のトムスンに、ケーンの最後の言葉「バラの蕾」
の意味を調べるように命じた。 |
|
|
トムソンは、ケーンの2番目の妻だったスーザ
ン・アレクサンダーを訪ねてナイト・クラブへ
行ったが、彼女は何も話そうとせず、「バラの蕾」の意味も知らない様子だった。 |
トムスンは次に、ケーンの後見人だった銀行家サッ
チャーの記念図書館へ行き、彼の手記を読んだ…。
…サッチャーが、まだ幼いケーンと初めて会ったのは雪深いコロラドの片田舎。ケーンの母親はこの地で下宿屋を営んでおり、ある下宿人から土地の権利書を
家
賃のかたに取得していたが、その土地から金鉱が見つかったのだ。
母親は、財産の管理と
ケーンの教育をサッチャーに託した。ケーン少年は半ば無理やりに両親と別れさせられ、ニューヨークで育てられることとなった。 |
25歳となったケーン青年は、後見人サッチャーから独立した。世界第6位の大富豪となった
ケー
ンは、弱小の「インクワイラー」誌を買収して新聞経営に乗り出した。サッチャーの忠告を無視して事業を拡大していったケーンだったが、1929
年の大恐慌で、全ての事業を失ってしまった…。 |
…サッチャーの手記を読んでも、「バラの蕾」
の意味は判明しなかった。
トムスンは次に、ケーンの事業の片腕の一人だったバーンステインに会いに行った…。 |
|
…ケーン青年は、バーンステインとリーランドを
従えて、「インクワイラー」
誌に乗り込んだ。
|
「インクワイラー」は発行部数が僅か26,000部の弱小新聞社だったが、大手の優秀な記
者たちを大量に引き抜くなどして、6年後にはニューヨー
ク最大の新聞社となった。
|
勢いに乗ったケーンは、大統領の姪のエミ
リー・ノートンと結婚した…。
|
|
…バーンステインも「バラの蕾」
の意味を知らなかった。
バーンステインの勧めもあり、トムスンは次に、ケーンのもう一人の片腕だったリーランドに
会いに病院を訪ねた。
バーンステインがケーンを賞賛したのとは対照的に、リーランドはケーンについて批判的だった…。
|
…ケーンとエミリーは、結婚2ヶ月後には朝食の席でしか顔を合わすことが無くなり、その
関係
は冷え込んでいった。
|
ある雨上がりの晩、ケーンは通りかかった馬車に泥水をかけられてしまい、その場に居合わせ
たオペ
ラ歌手志望の娘スーザン・アレクサンダーと出会い、恋に落ちた。
|
ケーンは州知事に立候補し、当選は確実と思われていた。
|
ケーンに糾弾され、窮地に立たされた現職のゲ
ディス知事が、ケーンとスーザンの関係を嗅ぎつけ、エミリーに暴露した。
|
ゲディスは、自分への攻撃を中止すれば事を公にしないとの取引きを
持
ちかけたが、ケーンは拒んだ。
|
ケーンとスーザンの関係がライバル新聞誌の記事となり、ケーンは知事選で敗北した。
リーランドは、傍若無人ぶりが目に余るケーンを諫めたが、ケーンは聞く耳を持たなかった。リーランドはシカゴへの転勤を願い出て、承諾された。
|
ケーンはエミリーと離婚して、スーザンと再婚した。そして、彼女のために、シカゴにオペラ
劇場を建設し
た。
スーザンはオペラ歌手としてデビューしたが、彼女はプロとしての才能は持ち合わせていなかった。
|
|
インクワイラー誌シカゴ支局では、劇評担当のリーランドが、スーザンの公演評の原稿を途中
ま
で書いて酔い潰れていた。リーランドとケーンは、ここ数年口をきいたことがない関係となっていた。
ケーンは、スーザンを酷評したリーランドの原稿の続きを自ら書き上げ、リーランドにはクビを言い渡した…。
|
|
…トムスンは、リーランドとの面談後も、「バラの蕾」
の意味が分からなかった…。
|
…トムスンは再びスーザンを訪ねた…。
…オペラ公演がインクワイラー誌にまで酷評され、公演を嫌がるスーザンに、ケーンは唄い続けるよう命じた。
|
スーザンは全米各地を公演して廻ったが、唄うことが苦痛でしかなくなった彼女は自殺を図っ
た。
|
ケーンはフロリダに大邸宅「ザナドゥ」
を建設し、スーザンと移り住んだ。しかし、2人の間に生じた溝は埋まらず、満たされないスーザンは、夜毎1人でジグソーパズルに耽けっていた。
|
ケーンは取り巻き連中を大勢引き連れ、スーザンをピクニックに誘い出したが、この日も2人
は大喧嘩をした。
スーザン 「あなたは私を愛してはいない。私の愛が欲しかっただけ。私の愛を金で買
おうとしたのよ…」。
|
|
ついに、スーザンは懇願するケーンを振り切って、「ザナドゥ」から去って行った…。
|
…トムスンは、最後に「ザナドゥ」へ行き、ケーンの執事をしていたレイモンドに会った。レイモンドは、スーザンが去った日に、ケーンがガラス玉を手にして、「バ
ラの蕾」と呟くのを聞いていた。しかし、「バラの
蕾」の意味することはついに分からぬままだった。
|
主のいなくなった「ザナドゥ」
には、ケーンが世界中から収集した美術品が残されていた。その数は博物館が10館も作れる程であった。遺品のガラクタ類が焼却処分される中、ケー
ンがコロラド時代に遊んだ雪橇に、「バラの蕾」の文字が書かれてあった。
|
|
『市民ケーン』 予告編
|
◆ 主な出演者など
・22歳の時に「マーキュリー劇団」を率いて、ニューヨークの演劇界で「神童」
と称され、23歳の時に火星人来襲のラジオ放送で、その名を全米に轟かせた鬼才オーソン・ウェルズ。
彼が25歳の時に、初の劇場用長編映画として製
作・監督・脚本(共同)・主演をこなしたのが『市民ケーン』。
(右の写真)オーソン・ウェルズ
|
|
|
・予算以外は一切口出しをしないとの破格の条件で、RKO社と契約を交わしたウェルズ。当
初は、ジョ
セフ・コンラッドの小説「闇の奥」の映画化を企画したが、予算的にNGとなった。
* ジョセフ・コンラッドの
「闇の奥」 … フランシス・フォード・コッポラ監督『地獄の黙示録』(1979年)の原作。
(左の写真)撮影時のオーソン・ウェルズ(左)とジョゼフ・コット
ン |
・次に、ニコラス・ブレイクのミステリー小説「短刀を忍ばせ微笑む者」
が候補となったが、主役として考えていたキャロル・ロンバードをキャスティングす
ることが出来ず、これもNGとなった。
* ニコラス・ブレイク …
本名セシル・デイ・ルイス。イギリスの詩人。ニコラス・ブレイク名義でミステリー小説も執筆。俳優ダニエル・デイ・ルイスの父親。
(右の写真)撮影時。ドロシー・カミンゴア(左)、オーソン・ウェルズ |
|
|
・『市民ケーン』は、脚本家のハーマン・J・マンキウィッツとウェルズが共同で執筆した作
品。
ウェルズは撮影に入る前に、『カリガリ博士』(1920年)や『駅馬車』(1939年)等を鑑賞して勉強。特に、敬愛していたジョ
ン・フォード監督の『駅馬車』は、繰り返し40回も観たと言われている。
(左の写真)撮影時のオーソン・ウェルズ
|
・新人監督のウェルズをサポートしたのが、伝説の名カメラマン、グレッグ・トーランド。
彼が開発したパン・フォーカスの技法など、斬新なカメラ・ワークを大いに発
揮。ウェルズは最高のカメラマンだったと賞賛している。
(右の写真)撮影時のオーソン・ウェルズ。後ろの白シャツがグレッグ・トーランド。 |
|
・映画のモデルとされた新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハースト(1863-1951)は、
本作
の公開を阻止しようと、自らの新聞・ラジオを総動員。
RKO社の広告、宣伝をボイコットし、同社の幹部やウェルズを誹謗中傷した。更には、フィルムを焼却処
分すれば、製作費の全額を支払うとの提案まで持ち出したとされている。
(右の写真)新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハースト |
|
|
・ハーストの妨害が逆に宣伝にもなり、映画の公開だけでもスキャンダルとなった。
批評家からは絶賛されたが、ハーストの報復を恐れて上映を拒否する映画館も多く、興行成績は赤字となった。
アカデミー賞では、作品賞を含む9部門でノミネートされたが、受賞は脚
本賞のみに留まった。
(左の写真)『市民ケーン』公開中の劇場とオーソン・ウェルズ |
・「バラの蕾」
については、ハーストの母親のニックネームだったとする説、ハーストのペットの犬の名前だったとする説など諸説がある。中には、ハーストが愛人の女優マリオン・デイヴィスの恥部を「バラの蕾」
と呼んでいた、という説まである。
(右の写真)ハーストの愛人、女優のマリオン・デイヴィス |
|
|
・撮影で使用された「バラの蕾」
の雪橇は3つ作られていたが、その1つは、1982年にスティーブン・スピルバーグ監督が約6万ドルで購入した。
(左の写真)「バラの蕾」の橇を手にするスティーブン・スピルバーグ監督 |
・「映画の教科書」と賞賛され、後世に計り知れない程の影響を与えた
『市民ケーン』。
AFI(アメリカ映画協会)が1998年に選定した「アメリカ映画100年ベスト100」では、堂々の第1位に選出された。 |
|
|