20世紀・シネマ・パラダ
イス
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怒りの葡萄
The Grapes of Wrath
監督:ジョ
ン・フォード
(1940年/アメリカ)
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◆ ジョン・フォードがアカデミー賞監督賞を受賞した社会派映画の名作
殺人罪で入獄していた小作人の息子トム・
ジョードは、仮釈放となり、4年ぶりに家族のいるオクラホマの農場へ向かっていた。道中、元説教師のケーシーと一緒になった。 |
トムが漸く実家に着くと、そこは空家になっていた。小作人仲間のミューリーから、トムの家族
は2週間前にジョン伯父のところへ行ったと知らされた。近辺の農家は皆、大資本に土地を奪わ
れ、移転を余儀なくされていたのだった。 |
トムはジョン伯父の家で家族や親戚と再会を果たした。 |
新しい家族、妹ローザシャーンの
結婚相手コニーも加わっていた。 |
だが、ジョン伯父の家も立ち退きを迫られていた。トムの家族と親戚は、800人の求人があ
るというカリフォルニアに行くことにした。 |
ケーシーも同行することになり、トム等12人は中古のオンボロトラックで新天
地カリフォルニアに向かって出発した。 |
道中、オクラホマの地を離れることを嫌がっていたじい様が、「疲れた」
との言葉を最後に逝ってしまった。
葬式の費用も無いので、遺体は道端に葬った。
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あるキャンプ場で、カリフォルニアには3,000人もの労働者が集まり、十分な金を稼ぐこ
とはできないとの話を聞かされた。
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他に行くあてもないト
ム達は、カリフォルニアを目指し、国道66号を西へと進んで行った。
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やっとカリフォルニアに到着したが、ばあ様は緑豊かな新天地を見ることなく、トラックの
荷台で息を引き取っていた。
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トム達はキャンプ場へ入ったが、そこは労働者たちであふれていた。
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食事の準備をしていると、朝から何も食べておらず腹を空かした子供たちが大勢集まって来
た。マー(母親)は彼等にも食事を振る舞ってやった。
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仕事のブローカーがやって来た。契約書を見せろという労働者との間で諍いが起
こり、キャンプ場の警備員が労働者に向けて発泡した。トムが警備員を殴り倒したが、仮釈放が取り消される恐れがあるので、ケーシーが身代わりを申し出て逮
捕された。
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この頃、各地の農場で、虐げられた労働者のストや暴動が発生し、社会問題となっていた。そ
の
為、季節労働者の流入を拒む農場もあった。
キャンプ
場が焼き払われるという噂を耳にしたトム達は、別の場所へ移ることにした。
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トム達は、別の農園で桃摘みの仕事に就くことができた。コニーが身重のローザシャーンを置
き去りにして逃げ出してしまっ
たので、一同は8人になっていた。
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夕食後、散策に出かけたトムは、川辺でケーシーと再会した。ケーシーは資本家と対立す
る労働者グループの一員になっており、トムに労働者の団結の必要性を訴え
た。
そこへ、ストの首謀者を捜索しに来た警備員が現れ、ケーシーは棍棒で殴られて死んでしまった。トムはケーシーの仇を討ったが、顔を殴られて負傷し、家族
の
いる
キャンプ小屋に逃げ戻った。
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翌日から、顔の傷を目当てに警備員殺しの犯人の捜索が始まった。
家族に迷惑はかけられないので1人で逃げると言うトムを、マーが引き留めた。「土地を失ってから、家族がバラバラになってしまった…。力を貸して
おくれ…」。
その日の夜、トムをトラックの荷台に隠して、家族は桃農園から出て行った。
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トム達が偶然に辿り着いたのは、これまでとは違う国営のキャンプ場だった。清潔な共同シャ
ワーやトイレも設置されており、家族は大喜びだ。ここには、地元の保安官でさえ令状がない限り立ち入ることが出来ない。そして、正規の斡旋人の紹介で仕事
に就くこともできた。
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国営キャンプ場の存在を心良く思っていない地元のボス連中が、土曜の夜のダンス・パー
ティーの最中に騒動を起こそうとしたが、トムはキャンプ場の自治会メンバーと協力して、これを未然に防ぐことに成功した。
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しかし、前の農園で警備員を殺してしまったトムには、警察の捜査の手が迫っていた…。
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『怒りの葡萄』 予告編
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◆ 主な出演者など
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・トム・ジョード役 … ヘンリー・フォンダ
・母親役 … ジェーン・ダーウェル
・父親役 … ラッセル・シンプソン
・ケーシー役 … ジョン・キャラダイン
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・1939年に出版されたジョン・スタインベックの小説「怒りの葡萄」
は、大ベストセラーとなり、翌年、ピューリッツァー賞を受賞した。
題名は聖書から採ったもので、葡萄の汁が布にしみ込んでいくが如く、怒りがじわじわと広がっ
ていく様子を指している。
20世紀FOX社のダリル・F・ザナックが、10万ドルで映画化権を取得し
た。
(右の写真)ジェーン・ダーウェル、ヘンリー・フォンダ
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・スタインベックの小説で映画化された作品としては、『廿日鼠と人間』(1939年/監督:ルイス・マイルストーン)、『エデンの東』(1955年/監督:エリア・カザン)なども有名。
彼は映画の脚本も執筆しており、『救命艇』(1944年/監督:ア
ルフレッド・ヒッチコック)、
『ベニイの勲章』(1945年)でアカデミー賞の原案賞、『革命児サパタ』(1952年/監督:エリア・カザン)で同脚本
賞にノミネートされている。1962年、ノーベル文学賞を受賞。
(左の写真) ジョン・スタインベック |
・スタインベックは、映画『怒りの葡萄』でのヘンリー・フォンダの演技に満足し、以後、2
人は友人となった。
スタインベックの葬儀(1968年没)では、フォンダが詩を朗読した。
(右の写真)ジェーン・ダーウェル、ヘンリー・フォンダ
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・ジョン・フォード監督とヘ
ンリー・フォンダが組んだのは、『若き
日のリンカーン』、『モホークの太鼓』(1939年)に引き続き3作目。
ダリル・F・ザナックは、トム・ジョード役に自社のタイロン・パワーを起用する考え
だったが、この役を熱望していたヘンリー・フォン
ダは、20世紀FOX社と7年契約をする条件
でこの役を得た。
(左の写真)ヘンリー・フォンダ
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フォード監督は僅か7週間で撮影を完了させ、使用したフィルムも通常の半分以下だったという。
フォード監督は、トムが母親と別れてキャンプ場を後にするシー
ンをラストとしていたが、その後に出てくる父親と母親がトラックの中で語り合うシーンは、ダリル・F・ザナックが付け加えたとされている。
(右の写真)左から、フォード監督、ジェーン・ダーウェル、ヘンリー・フォンダ |
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・撮影は、『市民ケー
ン』(1941年/監督:オーソン・ウェルズ)、
『偽りの花園』(1941年/監督:ウィリアム・ワイ
ラー)で、「パン・フォーカス」の技法を開発した伝説の名カメラマン、グレッグ・トーランドが担当。
(左の写真)左から、エディ・クイラン、ドリス・ボードン、ジョン・キャラダイン、ヘンリー・フォンダ
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・アカデミー賞では、作品賞、主演男優賞など7部門でノミネートされ、作品賞の有力候補と
されていたが、大資本による搾取、独占を批判したメッセージが敬遠され、監督賞と助演女優賞(ジェー
ン・ダーウェル)の2部門での受賞に留まった。
(右の写真)ジョン・フォード監督と出演者たち
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・AFI(アメリカ映画協会)が1998年に選定した
「アメリカ映画100年ベスト100」で第21位。ジョン・フォード監督作品では最上位にランクされた。
(左の写真)左から、ジェーン・ダーウェル、ヘンリー・フォンダ、ラッセル・シンプソン
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◆ ピック・
アップ … ジェーン・ダーウェル
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Jane Darwell 1879-1967
(アメリカ)
・1879年、ミズーリ州生まれ。
・舞台女優として活躍し、1914年に短編映画で銀幕デビュー。翌年までに20本近くの映画に出演した後、舞台での活動に戻った。
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『輝く瞳』(1934年)
シャーリー・テンプル(中央)と |
『風と共に去りぬ』
(1939年)
クラーク・ゲーブルと
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・ヘンリー・フォンダの推薦で出演した『怒りの葡萄』(1940年)で、アカデミー賞助演女優賞を受賞。
フォード監督とフォンダのコンビ作品『荒野の決闘』(1946年)に
も出演した。
(右の写真)アカデミー賞授賞式でのジェーン・ダーウェル(右) |
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・1950年代以降はTVでも活躍。
・ウォルト・ディズニー本人からの要請で出演した『メリー・ポピンズ』(1964年)が遺作となった。
(左の写真) 『メリー・ポピンズ』
・1967年、87歳で他界。 |
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