20世紀・シネマ・パラダ イス

Megaphonebar
Orson Welles

オーソン・ ウェルズ

Orson Welles

1915-1985 (アメリカ)

Megaphonrbar

  ◆ 代表作 ( 監督作品 )

/Citizen_Kane-2
 市民 ケーン
 Citizen Kane
  
(1941年/アメリカ)
The Magnificent Ambersons  偉大なるアンバーソン家の人々
  The Magnificent Ambersons
  (1942年/アメリカ)
The Lady from Shanghai  上海から来た女
  The Lady from Shanghai
  (1947年/アメリカ)
The_Tragedy_of_Othello-2  オセロ
 The Tragedy of Othello
 (1952年/イタリア・モロッコ)
Touch of Evil  黒い罠
 Touch of Evil
  (1958年/アメリカ)
Falstaff
 フォルスタッフ
 Falstaff
 
(1966年/フラ ンス・スペイン・
 スイス)

    弱冠25歳で頂点を極めた天才児

 ・1915年、ウィ スコンシン州生まれ。9歳の時にピアニストであった母親が死去。1926年、イリノイ州のトッド神学校に入学し、学生演劇などに打ち込んでいたが、在学中 の15歳の時に 発明家であった父親も死去した。
 1931年、学校を卒業後、絵の勉強でアイルランドへ行き、ダブリンの劇場で年齢や経歴を偽り、役者として舞台デビュー。その後、ロンドン、モロッコ、 スペインを旅して回った。

 ・1933年帰国。トッド神学校のロジャー・ヒル校長に招かれ、同校生徒たちによるシェー クスピア劇 「十二夜」 を演出。同舞台のリハーサルを自ら撮影した 『十二夜』 が、ウェルズの映画処女作とされている。
  (右の写真) 青少年期のウェルズに多大な影響を与えたとされるトッド神学校のロジャー・ヒル校長
Roger_Hill

The_Hearts_of_Age
 ・1934年、演劇の世界に進み、「ロミオとジュリエット」 のティボルト役でブロードウェイ・デビュー。
 同年、友人と共同監督、脚本、主役を務めた短編映画 『The Hearts of Age 』 を製作した。 
  (左の写真) 『The Hearts of Age 』 ヴァージニア・ニコルソン

 ・1934年、『The Hearts of Age 』 で老婆役を演じたヴァージニア・ニコルソンと結婚 。
 38年に長女を授かったが、40年に離婚。
  (右の写真) 最初の妻ヴァージニア・ニコルソンと
Virginia_Nicolson

John Houseman  ・1936年、ニューヨークでオール黒人キャストの舞台 「マクベス」 を演出。その後も 「ゆりかごは揺れる」 等をヒットさせ、演劇界の 「神童」 として注目を集めた。
 翌年、舞台製作者ジョン・ハウスマンと 「マーキュリー劇団」 を設立。ジョゼフ・コット ンらが参加した。
  (左の写真) ジョン・ハウスマン(右)と
  *  ジョン・ハウスマン … 舞台、映画製作者として活躍。役者としての実質的なデビュー作 『ペーパー・チェイス』 (1973年) で
     アカデミー賞助演男優賞を受賞。


 ・舞台だけでなくラジオでも活躍。1938年7月、CBSのラジオ番組 「The Mercury Theatre on the Air 」 がスタート。
 10月30日にH・G・ウェルズのSF小説 「宇宙戦争」 を放送した際、火星人の来襲を臨時ニュースの形式で伝え、全米をパニックに陥れた。
 ウェルズは子供の頃からマジック (手品) が趣味であり、人を驚かすことが大好きだったという。火星人来襲の放送はしてやったりであった?
 この一件により、弱冠23歳のウェルズの名は全米に知れ渡った。
Orson Welles-2

Too_Much_Johnson
 ・短編喜劇映画 『Too Much Johnson(1938年) を監督。
 製作当時に公開されることなく、フィルムが消失したと思われていたが、2008年にイタリアで発見され、2013年、サイレント映画祭で公開された。
  (左の写真) 『Too Much Johnson 』 左から、ヴァージニア・ニコルソン、
   ジョゼフ・コットン、ルース・フォード

  ・1939年、彼の才能に目をつけたRKO社と契約。予算を除き、映画製作に関して一切口を挟まないとの破格の条件であった。

 ・1940年、女優のジェラルディン・フィッツジェラルドが、ウェルズと不倫の末、男子マ イケル・リンゼイ・ホッグを出産。
 * ジェラルディン・フィッツジェラルド (右の写真) 
  … 『嵐が丘』 (1939年)、『質屋』 (1964年)等に出演。 

Geraldine Fitzgerald
   * マイケル・リンゼイ・ホッグ … ビートルズの 『レット・イッ・ビー』(1970年)、サイモン&ガーファンクルの
  『セントラル・パーク・コンサート』(1982年)、ローリング・ストーンズの 『ロックン・ロール・サーカス』 (1996年)
   等の監督

  ・1941年、製作、監督、脚本(共同)、 主役を務めた 『市民ケーン』 公開。
Citizen Kane-2   モデルとなった新聞王ハーストから妨害を受け、映画の公開だけでもスキャンダルとなった。大ヒッ トとはならなかったが、世界中の批評家から絶賛 され、メジャー・デビュー作で頂点を極めた。
 アカデミー賞では作品賞を含む9部門でノミネートされ、脚本賞 (オーソン・ウェルズとハーマン・J・マンキ ウィッツ)を受賞。
  (左の写真) 『市民ケーン』 宣伝用スチール

 ・1942年、製作、監督、脚色、ナレーションを務めた 『偉大なるアンバーソン家の人々』 公開。
 オリジナル版は2時間を超す作品であったが、試写での評判があまり芳しくなかった為、ウェルズが不在の間に88分にカットされてしまった。
  (右の写真) 『偉大なるアンバーソン家の人々』 撮影時。主演のアン・バクスター
The Magnificent Ambersons-2
 同作は商業的に失敗作となり、ウェルズを招いたRKO社のジョージ・シェーファー社長は責 任を問われて辞任。
 次作 『イッツ・オール・トゥルー』 の撮影で南米へ行っていたウェルズは、同作の製作中止の決定を受けることとなった。

Chaplin
 ・同年、チャップリンに 殺人鬼を題材にした映画の主役を打診。
 後に、チャップリンが自ら脚本を書いて完成させた 『殺人狂時代』 (1947年) に、原案者としてウェルズの名前がクレジットされた。
  (左の写真) チャップリンと

 ・1943年、製作、脚色(ジョゼフ・コットンと共同)、 出演した 『恐怖への旅』 (監督:ノーマン・フォスター) 公開。
 『偉大なるアンバーソン家の人々』 の後、『イッツ・オール・トゥルー』 の撮影へ行く前に製作された作品で、ウェルズが大部分を監督したとも言われている。 
  (右の写真) 『恐怖への旅』 ジョゼフ・コットン(左)とウェルズ
Journey_Into_Fear

Rita Hayworth
 ・1943年、女優のリタ・ ヘイワースと結婚 (再婚同士)。
 44年に女の子 (ウェルズにとっては次女) を授かったが、48年に離婚。
  (左の写真) リタ・ヘイワースと

 ・RKO社を追われたウェルズは、ジョーン・フォンテイン主演の 『ジェーン・エア』 (1944 年)へ出演後、映画界から離れて舞台やラジオで活動。戦時国債キャンペーンにも協力した。

 ・1946年、独立系の製作者サム・スピーゲルの下で監督、出演した 『The Stranger 』 公開。
  ナチスの残党狩りを描いたフィルム・ノワール作品で、商業的な成功を収めた。
  (右の写真) 『The Stranger 』 左から、エドワード・G・ロビンソンロレッタ・ヤング
   ウェルズ
The_Stranger
 ・同年、マーキュリー劇団がブロードウェイで 「Around the World (80日間世界一周) の公演を行ったが、資金難に陥ったウェルズは、コロンビア社の社長ハリー・コーンに資金援助を 依頼し、その見返りとして、映画を製作することとなった。

The Lady fron Shanghai-2  ・1947年、コロンビア社で製作、監督、脚本、主役を務めたフィルム・ノワール作品 『上海から来た女』 公開。
 共演は、当時既に別居していた妻のリタ・ヘイワース。
 ハリー・コーンによって勝手に編集されたが、特に欧州では高い評価を得た。
  (左の写真) 『上海から来た女』 撮影時。リタ・ヘイワースと

 ・1948年、リパブリック社で、低予算のシェークスピア映画 『マクベス』 を監督、脚色、主演
 同作を撮った後、同じくシェークスピアの 『オセロ』 の製作資金を稼ぐためヨーロッパへ旅立った。
  (右の写真) 『マクベス』
Macbeth

The_Third_Man
 ・イタリアで 『Black Magic(1949年) に出演した後、イギリスで 『第 三の男』 (監督:キャロル・リードに 出演。
 有名な台詞、「スイスの平和が何を生んだ? 鳩時計だけさ 」 は、ウェルズが自ら考案した。
  (左の写真) 『第三の男』 ジョゼフ・コットン(左)と

 ・ロンドン滞在中、ウェルズ同様シェークスピアを敬愛するローレンス・オリヴィエを表敬訪問。
 オリヴィエは、製作、監督、主演したシェークスピアの 『リチャード三世』 (1955年) のバッキンガム公役に、ウェルズを起用を希望していたという。
  (右の写真) 左からローレンス・オリヴィエ、ヴィヴィ アン・リー
   ウェルズ
 
Olivier Welles

The Tragedy of Othello  ・1952年、製作、監督、脚色、主演した 『オセロ』 公開。
 『第三の男』 や、タイロン・パワー主演の 『狐の王子』 (1949年)、『黒ばら』 (1950年) へ出演して製作 資金を稼ぎ、更に、『黒ばら』 で使用した衣装やカメラを借用して、3年がかりで撮影した作品。
 カンヌ国際映画祭でパルム・ドール(グランプリ)を受賞。

 ・イギリスのラジオで、ウェルズが 『第三の男』 で演じたハリー・ライムに扮した番組 「The Lives of Harry Lime (1951年〜) がスタート。1955年、同ラジオ番組のいくつかのエピソードを基に製作、監督、脚本、主演した 『Mr. Arkadin (「秘められた過去」) が公開されたが、この作品も会社によって勝手に編集されたものであった。
  (右の写真) 『Mr. Arkadin
Mr. Arkadin

Paola Mori  ・1955年、『Mr. Arkadin 』 に出演したイタリア人女優のパオラ・モリスと結婚。女の子(三女) を授かった。
 法的にはウェルズが亡くなるまで夫婦であったが、実質的な夫婦関係は60年代前半に終わっている。
  (左の写真) 3番目の妻パオラ・モリスと

 ・1956年、アメリカに戻り、『白鯨』 (1956 年/監督:ジョン・ヒューストン等に出演。
 ジョン・ヒューストン監督とは親友となった。
  (右の写真) 『白鯨』 でのオーソン・ウェルズ
Moby Dick

Touch of Evil-2  ・1958年、10年ぶりにハリウッドで 『黒い罠』 を監督、脚本、出演。
 当初は出演だけの予定だったが、主演のチャールトン・ヘストンがウェルズの監督起用を望んだという。
 旧友のジョゼフ・コットンやマレーネ・ディートリッヒ等が、ウェルズのため に低いギャラで出演。
  (左の写真) 『黒い罠』 マレーネ・ディートリッヒ(左)とウェルズ
 冒頭の3分20秒に及ぶ長回しのシーンは伝説となっており、一見の価値あり。ハリウッドで のキャリア復活をかけて、ほぼ予定通りの予算とスケジュールで完成させたが、またしても会社 (ユニヴァーサル社) に勝手に編集されたものが公開された。
  結果として、ウェルズのハリウッドでの最後の監督作品となった。
  (右の写真) 『黒い罠』 撮影時。チャールトン・ヘストン(右)と
Touch_of_Evil-3

 ・1959年から70年まではヨーロッパで活動。『審判』、『フォルスタッフ』 の2作品を撮ったほか、『わが命つきるとも』、『パリは燃えているか』 (1966年)、『007 カジノ・ロワイヤル』 (1967年) 等に出演。フランスでTVドラマの監督も務めた。
The Trial
 ・1963年、『審判』 公開。フランスで監督、脚色(共 同)、出演した作品。
 原作はフランツ・カフカ。主演はアンソニー・パーキンスジャンヌ・モロー
 当作品に出演したクロアチア人女優のオヤ・コダールとは、ウェルズが亡くなるまで連れ添うこととなった。
 (左の写真) 『審判』 の撮影時。左からウェルズ、ジャンヌ・モロー、アンソニー・パーキンス

 ・1966年、『フォルスタッフ』 公開。監督、脚色、主演したフランス、スペイン、スイス合作の作品。
 シェークスピアの 「ヘンリー四世」 など数本の戯曲を脚色した、ウェルズ本人のお気に入りの作品。
  (右の写真) 『フォルスタッフ』
Falstaff

  ・1970年、アメリカへ戻り、劇場用映画としては最後の監督作品となった 『フェイク』 を撮った。
 役者としては、『宝島』 (1971年)、『さすらいの航海』(1976 年)等に出演。TVでは、「オーソン・ウェルズ劇場」 (1973年)に出演したり、大 ヒットした大河ドラマ 「将軍 SHOGUN」 (1980年) のナレーターを務めたりした。
Oja Kodar
 ・1974年、『フェイク』 公開。監督、脚本、主演したフランス、西ドイツ、イラン合作の作品.。
 私生活で最後のパートナーとなったオヤ・コダールや、ジョゼフ・コットン等が出演。
    (左の写真) 『フェイク』 より。オヤ・コダールと

 ・類い稀なる才能を持ちながら、十分な活躍の場を得られなかったウェルズ。40年代後半か ら50年代前半にかけてアメリカを離れたのは、‟赤狩り”のブラック・リストに載ったためと も言われている。
 後世の映画人に与えた影響は計り知れず、その業績を称えて数々の栄誉が授けられた。
   ・1970年、アカデミー賞の名誉賞
   ・1975年、AFI (アメリカ映画協会) の生涯功労賞
   ・1982年、フランス政府のレジオンドヌール勲章
   ・1984年、全米監督協会のDWグリフィス賞(功労賞) など。 
Orosn Welles-3
 ・日本では英会話教材のナレーターや、ウィスキーのCMなどでもお馴染みだった。

youtubelogo
 ニッカウヰスキーのCM  (1976年) …  悪戯っ子が大人になったようなウェルズ


 ・1985年70歳で他界。
 死後、未完成のフィルムが関係者によって再編集され公開されている。
 ・『イッツ・オール・トゥルー』 … 1942年に製作中止となった作品。再構成した作品が1993年に公開。
 ・『ドン・キホーテ』 … 1955年から69年まで製作していた未完成作品。1986年のカンヌ国際映画祭で断片 フィルムが初公開。
 ・『黒い罠』 … 1998年に修復版が公開。
The Other Side of the Wind
 ・『風の向こう側』 … ジョン・ヒューストン、ピー ター・ボグダノヴィッチを主演に迎え、1970年から76年まで製作していた未完成作品。ウェルズの生誕100周年となる2015年に公開予定。
 (左の写真) 左からジョン・ヒューストン、ウェルズ、ピーター・ボグダノヴィッチ

F for Fake

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