20世紀・シネマ・パラダイス

Megaphonebar
John Huston1-2

ジョン・ヒューストン

John Huston

1906-1987 (アメリカ)

Megaphonrbar


  ◆ 代表作

The Maltese Falcon The_Treasure_of_the_Sierra_Madre-6
マルタの鷹
The Maltese Falcon
(1941年/アメリカ)
黄金
The Treasure of the Sierra Madre
(1948年/アメリカ)
The_African_Queen-2
Moulin Rouge
アフリカの女王
The African Queen
(1951年/アメリカ)
赤い風車
Moulin Rouge
(1952年/イギリス)
Moby Dick The_Misfits-3
白鯨
Moby Dick
(1956年/アメリカ)
荒馬と女
The Misfits

(1961年/アメリカ)
The Man Who Would Be King Prizzi's Honor
王になろうとした男
The Man Who Would Be King
(1975年/アメリカ・イギリス)
女と男の名誉
Prizzi's Honor
(1985年/アメリカ)


    骨太な男性映画の傑作を数多く撮った名監督

 ・1906年、ミズーリ州生まれ。父親は名優ウォルター・ヒューストン。15歳の時にカリフォルニア州のアマチュア・ボクシングのライト級チャンピオンになり、高校を中退してプロを目指したが断念。映画が大好きで、チャップリンがヒーローだった。

 ・19歳の時にブロードウェイの舞台に立ち、高校時代のガールフレンドと結婚したが1年で離婚。メキシコへ放浪の旅に出て、一時期、騎兵隊に 入隊していた。メキシコ滞在中から小説や戯曲を執筆しており、ニューヨークへ戻ってからは雑誌や新聞のライターをしていた。

 ・1929年、父親を頼ってハリウッドへ。ウィリアム・ワイラー監督の『砂漠の生霊』(1929年)、『嵐』(1930年)等にエキストラで出演した後、同監督が父親のウォルター主演で撮った『北海の漁火』(1931年)で脚本家(共同)としてデビュー。その後、『モルグ街の殺人事件』(1932年)、父親が主演の『死の拳銃狩』(1932年)等の脚本に携わった。
 (右の写真)父親のウォルター・ヒューストン(左)と
Walter and John

 ・1933年、サンセット大通りで車を運転中に事故で人を殺めてしまい、ロンドン、パリへ放浪の旅に出た。パリでは路上の肖像画家として生計を立てていた時期もあった。
 *  事故で亡くなったのは、『空中レビュー時代』(1933年)等に出演したブラジル人俳優ラウル・ローリンの妻でダンサーのトスカ・イザベル

 ・放浪の旅から帰国し、1937年に再婚。ウィリアム・ワイラー監督の『黒蘭の女』(1938年)の脚本家(共同)として映画界に復帰。『偉人エーリッヒ博士』(1940年)の脚本(原案)で、初めてアカデミー賞にノミネートされた。また、1940年には、父親のウォルター主演のブロードウェイ劇の演出も手掛けた。

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 ・ダシール・ハメットのハードボイルド小説を映画化した『マルタの鷹』(1941年)で監督デビュー。主演はハンフリー・ボガート。ヒューストンが、ボガート主演の『ハイ・シェラ』(1941年/監督:ラオール・ウォルシュの脚本を手掛けていたことが出演のきっかけになった。父親のウォルターも特別出演した。
 (左の写真)『マルタの鷹』メアリー・アスター、ハンフリー・ボガート

 ・『マルタの鷹』は、アカデミー賞の作品賞、助演男優賞(シドニー・グリーンストリート)、脚色賞(ジョン・ヒューストン)の3部門でノミネートされるなど、監督デビュー作として大成功を収めた。ヒューストンは、『ヨーク軍曹』(監督:ハワード・ホークスの脚本家としてもアカデミー賞にノミネートされた。
 (右の写真)『マルタの鷹』撮影時。左から、ヒューストン監督、ピーター・ローレ、メアリー・アスター、ハンフリー・ボガート
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In_This_Our_Life  ・2作目は、ベティ・デイビスオリヴィア・デ・ハヴィランド主演の『追憶の女』(1942年)
 オリヴィア・デ・ハヴィランドとは恋愛関係になった。
 (左の写真)『追憶の女』(1942年)撮影時。オリヴィア・デ・ハヴィランド(左)、ベティ・デイビス(右)と

 ・『マ ルタの鷹』の出演者ハンフリー・ボガート、メアリー・アスター、シドニー・グリーンストリートが再集結した反日プロパガンタ映画『パナマの死角』(1942年)の撮影中、第2次世界大戦 が激化し、陸軍通信隊に入隊。同作の残りはヴィンセント・シャーマン監督が撮った。
 (右の写真)『パナマの死角』撮影時。ハンフリー・ボガート(左)、メアリー・アスターと
Across_the_Pacific

 ・1942年から1946年まで陸軍通信隊で戦時ドキュメンタリー映画を4本監督。その中の1本『Let There Be Light』は、兵士の戦争後遺症を描いた最初の映画とされている。

Evelyn Keyes  ・1945年、2番目の妻と離婚。翌1946年、女優のイヴリン・キースと3度目の結婚した。
 * イヴリン・キース … 『風と共に去りぬ』で、スカーレット・ オハラの妹役を演じた。
 (左の写真)
イヴリン・キースと


 ・戦後の最初の作品『黄金』(1948年)は、その年のワーナー・ブラザーズ社最大のヒット作となり、批評家からも絶賛された。アカデミー賞では、作品賞、助演男優賞(ウォルター・ヒューストン)、監督賞、脚色賞(ジョン・ヒューストン)の4部門でノミネートされた。 
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The Treasure of the Sierra Madre-4
『黄金』(1948年)
ハンフリー・ボガート(左)、ウォルター・ヒューストン

黄金』撮影時。左から、ウォルター・ヒューストン、
ティム・ホルト、ヒューストン監督、ジャック・ホルト


 ・同じく1948年に公開された『キー・ラーゴ』では、クレア・トレヴァーがアカデミー賞助演女優賞にノミネートされた。
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Key Largo
『キー・ラーゴ』(1948年)
ハンフリー・ボガート(左)、エドワード・G・ロビンソン
『キー・ラーゴ』撮影時
ハンフリー・ボガート(左)、ローレン・バコール

 ・1948年度のアカデミー賞。『黄金』は作品賞は逃したが他の3部門で受賞。自らは2つのオスカーを獲得し、父親のウォルターには、4度目のノミネートで初のオスカーをもたらした。同一作品で親子での受賞は史上初の快挙だった。また、『キー・ラーゴ』のクレア・トレヴァーにもオスカーをもたらした。
 (右の写真)アカデミー賞授賞式にて。父親のウォルター(左)、クレア・トレヴァーと
Huston_Oscar

 ・『キー・ラーゴ』を無断で編集され、ワーナー・ブラザーズ社と決別。独立系の製作者サム・スピーゲルの下で、ジェニファー・ジョーンズ主演の『We Were Strangers(1949年)を撮った後、MGM社と契約した。

 ・MGM社で『アスファルト・ジャングル』(1950年)を監督。アカデミー賞の助演男優賞(サム・ジャフェ)、監督賞、脚色賞(ジョン・ヒューストン&ベン・マドー)、撮影賞(白黒部門)の4部門でノミネートされた。
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The Asphalt Jungle
『アスファルト・ジャングル』(1950年)
ジーン・ヘイゲン、スターリング・ヘイドン

『アスファルト・ジャングル』撮影時
マリリン・モンロー

 ・1950年、イヴリン・キースと離婚。同年、23歳年下のバレリーナ、リッキー・ソマと4度目の結婚。彼女との間で授かった息子のトニーは、後に、ヒューストン監督の遺作となった『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』(1987年)の脚本を書いた。そして、トニーが生まれる9日前に、父親のウォルターが他界した。

 ・MGM社での2作目、南北戦争における若い兵士の苦悩を描いた『勇者の赤いバッジ』(1951年)は、ヒューストン監督が次作のロケで不在の間に、約半分の長さにカットされて公開。失敗作となった。ヒューストン監督曰く、「オリジナル版は自分の最高傑作だったかもしれない」。
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『勇者の赤いバッジ』(1951年)
オーディ・マーフィ (右)
『勇者の赤いバッジ』撮影時
オーディ・マーフィ (右)と

 ・『アフリカの女王』(1951年)は、再びサム・スピーゲルと組んだ作品(配給はユナイテッド・アーチスツ社)。アフリカでのロケ中、撮影を放ったらかして狩猟に熱中していたというエピソードが伝わっている。
 作品は大ヒットし、アカデミー賞の主演男優賞、主演女優賞、監督賞、脚色賞(ジョン・ヒューストン&ジェームズ・エイジー)の4部門でノミネートされ、ハンフリー・ボガートに念願のオスカーをもたらした。
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『アフリカの女王』(1951年)
ハンフリー・ボガート、キャサリン・ヘップバーン
『アフリカの女王』撮影時
狩猟用のライフル銃を手にするヒューストン監督

Katharine_Hepburn ・キャサリン・ヘップバーンは、同作の撮影時の様子を綴った『「アフリカの女王」とわたし』(1987年)を出版。
 また、撮影時のヒューストンをモデルにした小説とその映画『ホワイトハンター ブラックハート』(1990年)が製作されているが、映画の監督、主演であるクリント・イーストウッドの最も好きな映画の1つは、ヒューストン監督の『黄金』である。
 (左の写真)『アフリカの女王』撮影時。キャサリン・ヘップバーンと

 ・『アフリカの女王』は、AFI(アメリカ映画協会)が1998年に選定した「アメリカ映画100年ベスト100」において、ヒューストン監督作品では最上位の17位にランクイン。他には、『マルタの鷹』が23位、『黄金』が30位に選出された。
 アフリカでのロケ中に、後にオスカー女優となる長女のアンジェリカが生まれている。
 (右の写真)『アフリカの女王』撮影時。ハンフリー・ボガート(左)と
Humphrey_Bogart

 ・1952年、ハリウッドで猛威を奮っていた‟赤狩り”に嫌気がさし、アイルランドへ移住。1964年に同国の市民権を取得した。

 ・19世紀のフランスの画家ロートレックを描いた『赤い風車』(1952年)は、フランスで撮影したイギリス映画。アカデミー賞の作品賞 (ジョン・ヒューストン他)、監督賞など7部門でノミネートされ、美術賞と衣装デザイン賞の2部門を受賞。
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Moulin_Rouge-4
『赤い風車』(1952年)
ホセ・フェラー、ザ・ザ・ガボール

『赤い風車』撮影時
ホセ・フェラー(右)と

 ・英・米・伊合作の『悪魔をやっつけろ』(1953年)は、私生活でも親友だったハンフリー・ボガートとの最後のコラボになった。ヒューストンは、ボガートの葬儀(1957年)で弔辞を読んだ。
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Beat the Devil
『悪魔をやっつけろ』(1953年)
左から、ジェニファー・ジョーンズ、
ハンフリー・ボガート、ジーナ・ロロブリジータ
『悪魔をやっつけろ』撮影時
ジーナ・ロロブリジータと

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