20世紀・シネマ・パラダイス

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Humphrey Bogart

ハンフリー・ボガート

Humphrey Bogart

   
1899-1957 (アメリカ)

 愛称:ボギー(Bogie)

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     代表作
 
The Maltese Falcon Casablanca
マルタの鷹
The Maltese Falcon

(1941年/アメリカ)
カサブランカ
Casablanca
(1942年/アメリカ)
To Have and Have Not The Treasure of the Sierra Madre-3
脱出
To Have and Have Not

(1944年/アメリカ)
黄金
The Trasure of the Sierra Madre
(1948年/アメリカ)
The African Queen The_Caine_Mutiny-3
アフリカの女王
The African Queen

(1951年/アメリカ)
ケイン号の叛乱
The Caine Mutiny
(1954年/アメリカ)
Sabrina The_Desperate_Hours
麗しのサブリナ
Sabrina

(1954年/アメリカ)
必死の逃亡者
The Desperate Hours
(1955年/アメリカ)


    本国で伝説のスターNo.1に選出されたボギー

 ・1899年12月25日(クリスマスの日)、ニューヨーク生れ。父親は外科医、母親はイラストレーターとして成功した裕福な家庭で、妹が2人いた。 * 1899年1月23日生れ、1900年1月23日生れ、とする説あり。
 両親は彼がイェール大学へ進学することを望んでいたが、名門トリニティー・スクールを放校処分に。時は第1次世界大戦下。自ら志願して海軍に入隊した。 
 (右の写真)子供の頃のボギー   
  
英国の故ダイアナ妃(プリンセス・オブ・ウェールズ)は遠い親戚にあたる。
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 ・戦後除隊し、実家の隣人だった演劇プロデューサー、ウィリアム・A・ブラディの劇団に雇われ、彼の娘で女優のアリス・ブラディ主演の舞台のステージ・マネージャーを務めるようになった。
 * アリス・ブラディ … 映画でもサイレント期から活躍。 『襤褸と宝石』(1936年)、『オーケストラの少女』(1937年)、『若き日のリンカーン』(1939年)等 に出演。 『シカゴ』(1937年)でアカデミー賞助演女優賞を受賞。

 ・ブラディ父娘の勧めで、アリス主演の舞台「Drifting(1921年)の日本人執事役でデビュー。以後、舞台俳優として活動した。

Helen_Menken-2
 ・1926年、舞台女優のヘレン・メンケンと結婚したが、翌年離婚した。
 (左の写真)最初の妻ヘレン・メンケンと
 ・1928年、舞台女優のメアリー・フィリップスと再婚したが、1937年に離婚した。
 (右の写真)2番目の妻メアリー・フィリップスと
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 ・ヘレン・ヘイズ主演の短編映画『The Dancing Town(1928年)で銀幕デビュー。

Up the River  ・自身初の長編映画は、『河上の別荘』(1930年/監督:ジョン・フォード
同じく長編映画への初出演だったスペンサー・トレーシーとは、私生活で親友となった。
 
「ボギー」の愛称も、スペンサー・トレーシーが最初にそう呼んだと言われている。
 (左の写真)『河上の別荘』 スペンサー・トレーシー(右)と

 ・ハリウッドとブロードウェイを行ったり来たり。鳴かず飛ばずの状況が続いていたが、逃亡中の殺人犯を演じたブロードウェイ劇「化石の森」(1935年)が大ヒット。同作の映画化権を取得したワーナー・ブラザーズ社は、殺人犯役にエドワード・G・ロビンソンを起用するつもりだったが、主役のレスリー・ハワードが、共演がボギーでないなら自分も出演しないと主張したため、映画にも出演することができた。
 (右の写真)映画『化石の森』
The_Petrified_Forest-2
The Petrified Forest
 ボギーは期待に応える好演をして、ワーナー社との契約を勝ち取った。ボギーは、映画俳優として世に出るきっかけを作ってくれたレスリー・ハワードへの恩義を忘れず、1952年に授かった娘に「レスリー・ハワード・ボガート」と命名している。
 (左の写真)『化石の森』 左から、ボギー、レスリー・ハワード、ベティ・デイヴィス

 ・1930年代後半からは映画の仕事に専念。サミュエル・ゴールドウィン社に貸し出されて出演した『デッド・エンド』(1937年/監督:ウィリアム・ワイラー、当時流行していたギャング映画の代表的スターだったジュームズ・キャグニー主演の『汚れた顔の天使』(1938年/監督:マイケル・カーティス、『彼奴は顔役だ!』(1939年/監督:ラオール・ウォルシュ)等のヒット作に出演。この時期、ボギーの主演作も数本製作されたが、どれもB級映画でヒットしなかった。
Marked_Woman
Dead_End
『札つき女』(1937年)
ベティ・デイビスと

『デッド・エンド』(1937年)
ジョエル・マクリー(左)と
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The Roaring Twenties
『汚れた顔の天使』(1938年)
ジェームス・キャグニー(右)と
『彼奴は顔役だ!』(1939年)
フランク・マクヒュー(左)、ジェームズ・キャグニー(中央)と

 ・1938年、『札つき女』(1937年)で共演したメイヨ・メソットと3度目の結婚。
 メイヨ・メソットは酒豪・酒乱で、ボギーはかなり手を焼いたという。1945年に離婚したが、彼女は1956年に急性アルコール中毒で亡くなった。
 (右の写真)3番目の妻メイヨ・メソットと
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High Sierra  ・1941年、キャリア飛躍の年となった。
 ポール・ムニ、ジョージ・ラフトなどが辞退し、主役に抜擢された『ハイ・シェラ』(監督:ラオール・ウォルシュ)が、ボギーの主演映画では初のヒット作品となった。
 (左の写真)『ハイ・シェラ』 アイダ・ルピノと

 ・同1941年、『マルタの鷹』も大ヒット。『ハイ・シェラ』の脚本家(共同)だったジョン・ヒューストンの監督デビュー作だが、主役候補だったジョージ・ラフトが、新人監督の作品には出たくないと辞退し、ボギーが起用された。
 本作の探偵サム・スペード役により、ハードボイルドの大スター、ボギー伝説の幕が開いた。
 (右の写真)『マルタの鷹』 メアリー・アスター
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 ・永遠の名作『カサブランカ』(1942年/監督:マイケル・カーティス)ボギーの人気は決定的なものに。‟ボギー・スタイル”と言われるソフト帽にトレンチコートはダンディズムのひとつの極致を示し、彼が演じたリック・ブレインは今なお多くの映画ファンを惹きつけている。
 日本では、「ボギー、あんたの時代は良かった…(「カサブランカ・ダンディ」1979年/作詞:阿久悠)なんてヒット曲まで生れた。
 アカデミー賞主演男優賞に初ノミネートされたが受賞は逃した。
 (左の写真)『カサブランカ』

 ・1943年ド ル箱 (マネー・メイキング)スター・ベストテンの第7位に初のランクイン。以後、1944年(第7位)、1945年(第6位)、1946年(第6位)、 1947年(第5位)、1948年(第6位)、1949年(第9位)、1955年(第8位)と合計8回ランクインした。

 ・『脱出』(1944年/監督:ハワード・ホークスで、映画初出演の新人女優ローレン・バコールと共演。
 (右の写真)『脱出』 ローレン・バコールと
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Bogart Bacall  ・1945年、ローレン・バコールと4度目の結婚。時にボギー45歳、バコール20歳。
 1949年に長男、1952年に長女を授かった。
 (左の写真) ローレン・バコール、長男と

 ・レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説「大いなる眠り」の映画化作品『三つ数えろ』(1946年/監督:ハワード・ホークス)で、探偵フィリップ・マーロウを演じた。
 ヒロイン役はローレン・バコール。翌年、『潜行者』でも共演した。
 (右の写真)『三つ数えろ』 ローレン・バコールと
The Big Sleep

Bogart 1947 ・1947年、‟赤狩り”に抗議するため、下院非米活動委員会の公聴会が開かれたワシントンD.C.へ乗り込んだ。しかし、‟赤”との疑いを受け、「私は共産主義者ではない」との声明を雑誌で発表せざるを得ない状況に追い込まれ、抗議活動は尻すぼみに終わった。
 (左の写真)ワシントンでのボギーとバコール

 ・人気スターとなってからも、汚れ役に厭わず挑んだ。
 名作『黄金』(1948年/監督:ジョン・ヒューストン)では、黄金への欲望に取り憑かれて身を滅ぼす男を好演した。
 (右の写真)『黄金』
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Key Largo ・ローレン・バコールとは4本の劇場用映画で共演したが、『キー・ラーゴ』(1948年/監督:ジョン・ヒューストン)がその最後の作品となった。
 (左の写真)『キー・ラーゴ』 ローレン・バコールと

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