20世紀・シネマ・パラダ
イス
◆ オード
リー・ヘップバーンの魅力が満開
大富豪ララビー家のお抱え運転手の娘サブリナは、
子供の頃から主家の次男デイヴィットに恋をしていた。 |
ララビー家でパーティーが開催された晩、この恋は叶わぬものと痛感したサブ
リナは遺書をしたため、車庫で自殺を図ったが、主家の長男ライナスに助けられた。 |
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「お葬式にはデイヴィットは呼ばないで下さい。彼は涙を流しません…」 |
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サブリナは父親の勧めでパリの料理学校に留学した。だが、デイヴィットへの想いを絶ち切れ
ない
でいた。 |
その頃デイヴィットは、新規事業を図るライナスの政略により、4度目の結婚をすることが決
まっていた。 |
2年後、見違える程美しいレディとなって帰国したサブリナは、デイヴィットからパーティー
に誘われた。父親から「月に手を伸ばすな」と諭されたサブリナが応えた。「月が私に手を伸ばしているのよ」。
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パーティーが始まると、デイヴィットは婚約者であるタイソン家の令嬢エリザベスをほったら
かし、サブリナとダンスに興じていた。
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デイヴィットの婚約が破談になれば、タイソン家との合併による新規事業
も棚上げになってしまう。父親とライナスに呼ばれて叱られている途中、デイヴィッドはシャンパングラスで尻に大怪我を負ってしまった。
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テニスコートでデイヴィッドを待っていたサブリナの前にライナスが現れた。ライナスは「弟
の代わりだ」とダンスを踊り、「兄の役目だ」とキスをした。
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ライナスは、事業の障害となるサブリナをパリへ送り出すため、デイヴィッドの代役として
デートを重ね、彼女の気を引こうと画策し始めた。
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ライナスの思惑通り、サブリナはライナスに惹かれ始め、そんな自分に戸
惑いを覚え始めていた…。
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『麗しのサブリナ』 予告編
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◆ 主な出演者など
・原作は、サミュエル・テイラーの戯曲「サブリナ・フェア」
。パラマウント社が、舞台興行中は映画を公開しないという条件で映画化権を取得し、1953年9月から12月にかけて撮影された。舞台劇「サブリナ・フェ
ア」は、ブロードウェイで1953年11月から翌1954年8月まで上演された。
(右の写
真)左から、H. C. ポッター (舞台監督)、ジョゼフ・コットン 、マーガレット・サラヴァン(舞台の主役)、サミュエル・テイラー(作家) |
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・『ローマの休日』(1953年)でライジング・スターとなったオードリー・ヘップバーンの2
作目(ハリウッドでの)という事で、パラマウント社の力の入れようが分かる豪華な共演陣となった。
出演料は、ヘップバーンが1万5千ドル、ホールデンが15万ドル、ボガートが30万ドルだった。 |
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・ライナス役に内定していたケー
リー・グラントが辞退(その後、引退を宣言)したため、脚本を書き直しながら撮影された。その時
間を稼ぐために、ワイルダー監督がヘップバーンに仮病を使わせた事もあったという。
ワイルダー監督が次作『七年目の浮気』の宣伝までしているのはご愛
敬。
(左の写真)ウィリアム・ホールデン(左)、ハンフリー・ボガート |
・ヘップバーンの衣装は「サブリナ・ファッション」
と呼ばれ、大評判となった。イーディス・ヘッドがデザインした衣装と、ヘップバーン自身が
選んだジバンシィの既製服が着用された。その為、黒のカクテル・ドレス等、どちらがデザインしたのかハッキリしない衣装もあり、論争の的となっている。
(右の写真)撮影時。ウィリアム・ホールデンとオードリー・ヘップバーン。この衣装はジバンシィの既製服。 |
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・サブリナのお気に入りの曲で、車の中で口ずさんだ歌は、エディット・ピアフのヒット曲
「バラ色の人生 〜 ラ・ヴィ・アン・ローズ」(1946年)。
ライナスがボートの中でかけたコミック・ソングは
「イエス、ウィ・ハブ・ノー・バナナ」(1922年)。ブロードウェイのレビューでエディ・カンターが歌った曲。
(左の写真)撮影時のオードリー・ヘップバーン
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・アカデミー賞では、監督賞、主演女優賞、脚本賞、撮影賞(白
黒部門)、美術賞(白黒部門)、衣装デザイン賞(白黒部
門)の6部門でノミネートされ、イーディス・ヘッドが自身6度目の衣装デザイン賞を受賞した。
(右の写真)イーディス・ヘッド(左)、オードリー・ヘップバーン |
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