20世紀・シネマ・パラダイス

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Audrey_Hepburn

オードリー・ヘップバーン

Audrey Hepburn

 1929- 1993 (イギリス)

 

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   代表作

Roman_Holiday-1
 ローマの休日
  Roman Holiday
 (1953年/アメリカ)
Sabrina
 麗しのサブリナ
  Sabrina
  (1954年/アメリカ)
Love_in_the_Afternoon
 昼下りの情事
 Love in the Afternoon
 (1957年/アメリカ)
The_Nun's_Story
 尼僧物語
 The Nun's Story
 (1959年/アメリカ)

Breakfast_at_Tiffany's
 ティファニーで朝食を
 Breakfast at Tiffany's
 (1961年/アメリカ)
Charade
 シャレード
 Charade
 (1963年/アメリカ)
My_Fair_Lady
 マイ・フェア・レディ
 My Fair Lady
  (1964年/アメリカ)
Wait_Until_Dark
 暗くなるまで待って
 Wait Until Dark
 (1967年/アメリカ)

    銀幕の妖精 日本で最も愛された外国人俳優

 ・1929年、ベルギーのブリュッセル生れ。本名は Audrey Kathleen Hepburn Ruston 。父親はボヘミア出身のイギリス人、母親はオランダ人で再婚同士だった。1935年、父親が家族を捨てて出奔。母親と幼いオードリーはオランダのアーネム (1935年〜)、イギリスのケント(1937年〜)、再びオランダのアーネム(1939年〜) へと移り住んだ。
 (右の写真) 母親と赤ん坊の頃のオードリー
Audrey_Hepburn_&_Mother

Audrey_Hepburn_1944
 ・1940年5月、オランダがナチス・ドイツに占領され、育ち盛りの10代前半を占領下で過ごすこととなった。
 占領後期には食料難により栄養失調となったが、プリマドンナを夢見て音楽学校でバレエを習い続けていた。
 (左の写真) 1944年、学生時代のオードリー

 ・戦後、アムステルダムに移住。
 通っていたバレエ教室に訪ねて来た映画関係者にスカウトされ、オランダのPR映画 『オランダの七つの教訓』 (1948年) に出演。スチュワーデスの役で3〜4分の出演だった。
 (右の写真) 『オランダの七つの教訓』
Nederlands_in_Zeven_Lessen

Audrey_Hepburn_London
 ・1948年、バレリーナとしての素養が認められ、奨学金を得てロンドンのランバート・バレエ学校に入校。
 生活費を稼ぐ為に、ミュージカル劇 「ハイ・ボタン・シューズ」 (1948年)にコーラス・ガールとして出演。その後も舞台 「ソース・タルタル」(1949年)、「ソース・ピカンテ」(1950年) に出演した。
 (左の写真) 舞台出演時のオードリー (右端)

 ・舞台出演中にスカウトされ、本格的に映画女優の道を歩むこととなった。
 『若気のいたり』、『素晴らしき遺産』、『ラベンダー・ヒル・モブ』、『若妻物語』(1951年/英) に端役で出演。
 『モンテカルロへ行こう』 (1952年/英・仏) で初の主役を務め、『初恋』 (1952年/英) ではバレリーナ役 (ヒロインの妹) を演じた。
 (右の写真) 『モンテカルロへ行こう』 マルセル・ダリオと
Monte_Carlo_Baby-2

 ・1951年、フランスで 『モンテカルロへ行こう』 の撮影中、女流作家のコレットと出会い、彼女の新作の戯曲 「ジジ」 のヒロインを演じることが決まった。
Gigi-2
 更に、ロンドンへ戻ってから、ハリウッド映画 『ローマの休日』 のヒロインに抜擢されることも決まった。
 同年11月から翌52年5月まで、ブロードウェイの舞台 「ジジ」 に出演。その後 『ローマの休日』 の撮影に臨んだ。
  (左の写真) 舞台 「ジジ」 キャスリーン・ネスビット(右)と
  
* 「ジジ」 … レスリー・キャロン主演 『恋の手ほどき』 (1958年) として映画化された。

 ・私生活では、ロンドンの舞台に出演していた頃に実業家のジェームズ・ハンソンと出会い、恋に落ちた。
 2人は婚約し、ウェディング・ドレスも出来上がっていたが、オードリーが女優として飛躍するにつれ、2人の間に溝が生じ、婚約は解消された。
 (右の写真) 婚約者だったジェームズ・ハンソンと
  * この時のウェディング・ドレスは2009年にオークションに出品された。
with_James_Hanson

 ・『ローマの休日』 の撮影後、舞台 「ジジ」 の全米公演に出立 (1952年10月から翌53年5月まで)

 ・1953年7月、グレゴリー・ペックが開いたパーティーで、未来の夫メル・ファーラーと出会ったが、当時の彼は妻帯者 (53年12月に離婚)だった。

Roman_Holiday
 ・自身初のハリウッド映画 『ローマの休日』 (1953年) が公開され、世界のアイドルに。
 ほぼ無名の新人を大抜擢したウィリアム・ワイラー監督 「ハリウッドからグラマーという言葉がなくなるだろう 」 。
 アカデミー賞主演女優賞の他、多くの賞を受賞した。
 (左の写真) 『ローマの休日』 グレゴリー・ペック

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 アカデミー賞授賞式。司会:ドナルド・オコナー、候補者発表:ゲーリー・クーパー



 ・『麗しのサブリナ』 の撮影後、ブロードウェイの舞台劇 「オンディーヌ」 (1954年2月〜6月) に出演。トニー賞の演劇主演女優賞を受賞した。
 公演中に、共演者のメル・ファーラーと相思相愛の関係となった。
  (右の写真) 舞台 「オンディーヌ」 メル・ファーラーと
Ondine

Sabrina
 ・ハリウッドでの2作目 『麗しのサブリナ』 (1954年)公開。
 監督はビリー・ワイルダー、共演はハンフリー・ボガートウィリアム・ホールデン。パラマウント社の力の入れようが分かる豪華な顔ぶれとなった。
 オードリーは米・英のアカデミー賞主演女優賞等にノミネートされた。
 (左の写真) 『麗しのサブリナ』 ハンフリー・ボガート(左)、ウィリアム・ホールデンと

 ・1954年9月、スイスでメル・ファーラーと結婚。
 オードリー25歳、メル・ファーラー37歳。彼は3度の離婚歴 (1度目と3度目は同じ相手) があり、4人の子持ちだった。
 次作の 『戦争と平和』 (1956年)、TVドラマ 「マイヤーリング」 (1957年) で共演もした。
 (右の写真) メル・ファーラーとの結婚式時
Mel_Ferrer_Wedding

 ・イタリア・アメリカ合作の文芸大作 『戦争と平和』(1956年) に出演。
War_and_Peace
 製作者ディノ・デ・ラウレンティスの妻シルヴァーナ・マンガーノが出演を辞退し、オードリーが起用された。
 撮影前、初めての子共を流産 (1955年3月)していた。
 キング・ヴィダー監督 「一緒に仕事をした女優の中で、オードリーは一番のお気に入り 」。
 (左の写真) 『戦争と平和』 メル・ファーラー(左)、ヘンリー・フォンダ

 ・自身初のミュージカル映画 『パリの恋人』 (1957年/監督:スタンリー・ドーネンでは、ハリウッド・ミュージカルの第一人者フレッド・アステアを相手に、バレエで鍛えたダンスだけでなく、歌声も披露した。オードリーがパリジェンヌに扮した最初の作品。
 (右の写真) 『パリの恋人』 フレッド・アステアと
Funny_Face

Love_in_the_Afternoon
 ・『昼下りの情事』 (1957年/監督:ビリー・ワイルダー) の相手役はゲーリー・クーパー。日本で最も人気のあった外国人男優と女優の共演が実現した。
 オードリーは前作に引き続きパリジェンヌに扮した。
 (左の写真) 『昼下りの情事』 ゲーリー・クーパーと
 

 ・夫のメル・ファーラーが監督した 『緑の館』 (1959年) は、オードリーの主演作で初めての失敗作となった。
 舞台 「オンディーヌ」 では水の妖精を演じたが、本作では森の妖精のような女性を演じた。
 (右の写真) 『緑の館』 アンソニー・パーキンス
Green_Mansions

The_Nun's_Story-2
 ・『尼僧物語』 (1959年) は、脚本に感銘したオードリーが最も強い思いで撮影に臨んだ作品。米アカデミー賞の主演女優賞にノミネート (3度目) され、英アカデミー賞の主演女優賞を受賞 (2度目) した。
 フレッド・ジンネマン監督オードリーほど仕事に献身的な人は見たことがない 」。
 (左の写真) 『尼僧物語』 ピーター・フィンチと

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