20世紀・シネマ・パラダイス
シルヴァーナ・マンガーノ
Silvana Mangano
1930-1989 (イタリア)
◆
代表作
にがい米
Riso Amaro
(1949年/イタリア)
ユリシーズ
Ulisse
(1954年/伊・仏・米)
アポロンの地獄
Edipo Re
(1967年/イタリア)
テオレマ
Teorema
(1968年/イタリア)
ベニスに死す
Death in Venice
(1971年/伊・仏)
家族の肖像
Gruppo di famiglia in un interno
(1974年/伊・仏)
◆
ミス・ローマから大女優へ
・
1930年
、ローマ生れ。父親はイタリア人、母親はイギリス人だった。知人の勧めでフランスへ渡り、『
Le jugement dernier
』
(1945年)
にエキストラ出演したが直ぐに帰国し、モデルとなった。
・16歳の時に美人コンテストで‟ミス・ローマ”に選出され、翌年、ミス・イタリアのコンテストに臨んだが入賞を逃した。ちなみに、この年の上位4名は女優となった。
<優勝> ルチア・ボゼー 1931-2020
シルヴァーナ・マンガーノが妊娠のため降板した『オリーヴの下に平和はない』
(1950年/監督:ジュゼッペ・デ・サンティス)
で銀幕デビュー。『愛と殺意
』(1950年/監督:
ミケランジェロ・アントニオーニ
)
等に出演。
2020年、新型コロナウイルスにより他界。
<準優勝> ジャンナ・マリア・カナーレ 1927-2009
イタリア初のホラー映画『
I Vampiri
』
(1957年)
、『ヘラクレス』
(1958年)
等に出演。
<3位:取消> エレオノラ・ロッシ=ドラゴ 1925-2007
『埋もれた青春』
(1954年/監督:
ジュリアン・デュヴィヴィエ
)
、『刑事』
(1959年/監督:
ピエ
トロ・ジェルミ
)
、『激しい季節』
(1959年)
等に出演。
ミス・コン当時、既にミセスだったため、後で取り消された。
<3位>
ジーナ・ロロブリジータ
1927-
・美人コンテストへの参加がきっかけとなり、端役ながらも映画に出演。本格的に女優を目指すように なり、両親の薦めもあって演劇学校で学びながらエキストラとして数本の映画に出演した。
・
『にがい米』
(1949年)
のオーディションの時にジュゼッペ・デ・サンティス監督の目に留まり、同作のヒロインに抜擢された。
米作りに従事する出稼ぎの季節労働者に扮したが、はち切れんばかりの太腿を露わにし、ダンス・シーンで腕を上げれば腋毛が生えたまま。そのインパクトの大きさゆえ、日本では‟
原爆女優
”という凄いニックネームが付けられた。
(右の写真)『にがい米』
・1949年、映画製作者のディノ・デ・ラウレンティスと結婚。イタリアを代表する大プロデューサーとなる夫が製作した作品に数多く出演し、大女優への道を歩むことになった。
(左の写真)夫のディノ・デ・ラウレンティスと
・7歳から13歳までロシア出身の著名な舞踏家ジア・ルースカヤの舞踏研究所でバレエを習っていたため、『アンナ』
(1951年)
、『マンボ』
(1954年)
といった作品では、彼女のダンス・シーンが見せ場の1つとなった。
(右の写真)『アンナ』でのダンス・シーン
・古代ギリシャの詩人ホメロスの叙事詩「オデュッセイア」を映画化した大作『ユリシーズ』
(1954年)
は、イタリアでその年最大のヒット作となった。
(左の写真)『ユリシーズ』
カーク・ダグラス
と
・夫のラウレンティスは、『戦争と平和』
(1956年)
のヒロインにも起用するつもりでいたが、彼女は子供たちと過ごす時間を欲して辞退。『戦争と平和』は
オードリー・ヘップバーン
がヒロインを務めた。
(右の写真)シルヴァーナ・マンガーノと子供たち
・約3年間の休養の後、『人間と狼』
(1957年)
で銀幕復帰。
ナチスの兵士と通じたために髪の毛を切られるユーゴの娘を演じた『五人の札つき娘』
(1960年)
では坊主頭になり、セクシー女優からの脱皮を図った。
(左の写真)『五人の札つき娘』手前右から時計回りに、シルヴァーナ・マンガーノ、
ヴェラ・マイルズ
、バーバラ・ベル・ゲデス、カルラ・グラヴィーナ、
ジャンヌ・モロー
・
ヴィットリオ・デ・シーカ
、ピエル・パオロ・パゾリーニ、
ルキノ・ヴィスコンティ
等、5人の監督によるオムニバス映画『華やかな魔女たち』
(1967年)
では、全5話を通じて5人の魔女を演じ分けた。
(右の写真)『華やかな魔女たち』 クリント・イーストウッドと
・演技派の女優へと見事に転身し、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の『アポロンの地獄』
(1967年)
、『テオレマ』
(1968年)、
ルキノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』
(1971年)
、『ルードヴィヒ』
(1973年)
、『家族の肖像』
(1974年)
等に出演。イタリアを代表する大女優の1人となった。
『アポロンの地獄』(1967年)
『テオレマ』(1968年)
『ベニスに死す』(1971年)
ビョルン・アンドレセンと
『家族の肖像』(1974年)
ヘルムート・バーガーと
・『家族の肖像』を最後に再び休養期間に。不眠症に悩まされるなど、精神的に不安定だったらしい。私生活では4人の子宝に恵まれていたが、末っ子が飛行機事故で亡くなる
(1981年)
不幸に見舞われ、1983年以後は夫と別居していた。
・父親同様、製作者となった次女ラファエラからの要請でSF映画の大作『デューン / 砂の惑星』
(1984年)
に出演。10年ぶりに銀幕復帰した。
(左の写真) 『デューン / 砂の惑星』
・
マルチェロ・マストロヤンニ
と共演した『黒い瞳』
(1987年)
が最後の映画となった。『にがい米』でブレイクする前の下積み時代、マルチェロ・マストロヤンニとは恋人同士だった時期があったという。
(右の写真) 『黒い瞳』 マルチェロ・マストロヤンニと
・
1989年
、
59歳
で他界。
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