20世紀・シネマ・パラダ
イス
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鉄道員
Il Ferroviere
監督:ピエトロ・ジェルミ
(1956年/イタリア)
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◆ 主題曲も
大ヒットしたホーム・ドラマの名作
クリスマス・イヴ。もうすぐ50歳になる鉄道機関士のアンドレア・マルコッチは、駅まで迎えに来た末っ子のサンド
ロを先に家に帰し、同僚のリヴェラーニと行きつけの酒場へ入った。ギターの上手
いアンドレアは人気者で、ちょいと一杯のつもりが日付の変わる時刻まで飲んだくれてしまった。 |
… アンドレアの長女ジュリアは、
両親に内緒で交際していた食料品店の息子レナートの
子供を身籠って結婚していた … このクリスマス・イヴ、ジュリアは流産してしまった。 |
アンドレアは、娘が流産した時に酔潰れていた自分を責め、気の滅入った日々を送っていた。
そ
んなある日、彼の機関車に若い男性が飛び込んで自殺した。ショックを受けて動揺していたアンドレアは、赤信号を見落とし、危うく衝突事故を起こしかけてし
まった。 |
アンドレアは信号見落とし事故の取り調べを受けた。その帰り、彼は酒場でヤケ酒を煽り、迎
えに来た妻のサラを追い返したが、サンドロが迎えに来てようやく家路についた。 |
アンドレアは特急列車の機関士から構内のボロ機関車の運転手に左遷され、給料も減ってし
まった。 |
ジュリアは夫との仲がギクシャクし、出来心で浮気をした相手から付きまとわれていた。サン
ドロが相手の男の車の窓を割り、警察に補導された。事情を知ったアンドレアがジュリアを折檻し、止めに入った長男のマルチェロとも喧嘩になった。マルチェロは家から出ていった。
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鉄道の労働組合のストライキが決行された。アンドレアはリヴェラーニの制止を振り切って特
急列車を発車させた。翌朝、アパートの階段に、「マルコッチはスト破りだ」
と落書きされていた。アンドレアは職場に行かず、場末の酒場に入り浸るようになり、やがて家にも帰らなくなった。
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ジュリアはレナートと別れ、洗濯工場に住込みで働き始めていた。サンドロはレナートに頼ま
れてジュリアの荷物を届けに行き、久しぶりに姉と再会した。
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家族がバラバラになってしまったが、幼いサンドロは自分が進級すれば父親が喜んで家に戻っ
てくると信じ、勉強に励んだ。そして、進級したサンドロは父親を迎えに行った…。
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『鉄道員』 予告編
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◆ 主な出演者など
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・アンドレア役 …
ピエトロ・
ジェルミ
・サンドロ役 … エドアル
ド・
ネヴォラ
・サラ役 … ルイザ・デラ・ノーチェ
・ジュリア役 … シルヴァ・コシナ
・リヴェラーニ役 … サーロ・ウルツィ
・マルチェロ役 … レナート・スペツィアリ
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・ピエトロ・ジェルミが監督・脚色・主演の3役をこなしたイタリア・ネオレアリズモ後期の
名作ホーム・ドラマ。 |
日本では昭和33年(1958年)に公開され、キネマ旬報ベスト・テンの第5位に。読者投
票では男女とも第1位に選出された。
(右の写真)後列右から時計回りに、ルイザ・デラ・ノーチェ、エドアルド・ネヴォラ、ピエトロ・ジェルミ、レナート・
スペツィアリ、シルヴァ・コシナ |
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◆
ピックアップ … ピエトロ・ジェルミ
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Pietro Germi 1914〜1974
(イタリア)
・1914年、ジェノヴァ生れ。ローマの映画実験センターで学んだ後、1939年から映画界で働くようになった。脇役の俳優、助監督、脚
本家としてキャリアを積み、『証人』(1945年)で映画監督としてデビュー。監督4作目の
『越境者』(1950年)でベルリン国際映画祭ドラマ部門の銀熊賞、5作目の『街は自衛する』(1951年)でヴェネツィア国際映画祭のイタリア映画賞を受賞。
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・監督10作目で主演も兼ねた『鉄道員』(1956年)が
国際的な成功を収め、次作の『わらの男』(1958年)、『刑事』(1959
年)でも主演を兼ねた。
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・監督・主演した社会派の3部作『鉄道員』、『わらの男』、『刑事』は、いずれも高い評価
を得て成功を収めた。その後は、他の監督作品に出演することはあったが、自作に出演
することはなく、一貫してコメディ作品を監督。『イタリア式離婚狂想曲』(1961年)で米アカデミー賞
のオリジナル脚本賞を受賞(監督賞にもノミネートされていた)。『蜜がいっぱい』(1965年)で
カンヌ国際映画祭のパルム・ドールを受賞( 『男と女』 との同時受賞)した。 |
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『イタリア式離婚狂想曲』
(1961年)
ダニエラ・ロッカ、マルチェロ・マストロヤンニ
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『蜜がいっぱい』
(1965年)
ヴィルナ・リージ
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・ダスティン・ホフマンを主役に迎えた『アルフレード アルフレード』(1972年)が最後の監督作品となった。
(右の写真)『アルフレード アルフレード』撮影時。ダスティン・ホフマン(右)と
・1974年、60歳で他界。 |
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