20世紀・シネマ・パラダイス
ミケランジェロ・アントニオーニ
Michelangelo Antonioni
1912-2007 (イタリア)
◆
代表作
さすらい
Il grido
(1957年/イタリア)
情事
L'avventuta
(1960年/伊・仏)
夜
La notte
(1961年/伊・仏)
太陽はひとりぼっち
L'eclisse
(1962年/伊・仏)
赤い砂漠
Il deserto rosso
(1964年/伊・仏)
欲望
Blow-Up
(1967年/英・伊)
◆
1960年代に3大映画祭の大賞を制覇
・
1912年
、イタリアのフェラーラ生れ。ボローニャ大学時代に学生演劇に携わり、演劇や映画に興味を抱くようになった。27歳の時にローマへ出て、映画雑誌 「チネマ」 の編集部員となったが、当時のファシスト政権を批判する記事を執筆したかどで解雇された。
・イタリア国立映画実験センターを3ヶ月程で退学した後、
ロベルト・ロッセリーニ
監督の 『ギリシャからの帰還』
(1942年)
の脚本を執筆したり、
マルセル・カルネ
監督の 『悪魔が夜来る』
(1942年)
の助監督を務めたりした。
・戦後、数本のドキュメンタリー映画を撮りつつ、脚本家として活動。
ルキノ・ヴィスコンティ
監督と2本の脚本
(映画化は実現しなかった)
を執筆し、
『にがい米』
(1949年)
のジュゼッペ・デ・サンティス監督のデビュー作 『荒野の抱擁』
(1947年)
等の脚本を執筆した。自身が劇映画の監督としてデビューした後も、
フェデリコ・フェリーニ
監督の 『白い酋長』
(1952年)
の脚本を執筆している。
・38歳の時に初の劇映画 『愛と殺意』
(1950年)
を監督。5作目の 『女ともだち』
(1955年)
でヴェネツィア国際映画祭の銀獅子賞
(監督賞)
を受賞。4人の女性が自分の生き方を追及する過程で、友情が脆くも崩れていく様を描いた。
『女ともだち』 エレオノラ・ロッシ=ドラゴ (左) と イヴォンヌ・フルノー
撮影時。エレオノラ・ロッシ=ドラゴと
・『さすらい』
(1957年)
では、妻から突然に別れを告げられた自身の体験
(1942年結婚-1954年離婚)
を元に、同棲していた恋人から別れを告げられた男の絶望を描いた。日本で最初に公開されたアントニオーニ作品。
『さすらい』 スティーブ・コクラン と
アリダ・ヴァリ
撮影時。スティーヴ・コクラン(右)と
・監督の分身とも言える 『さすらい』 の主人公は悲劇的な最後を遂げたが、本人は新しい恋人 〜 芸術監督を務めていた劇団の新人女優
モニカ・ヴィッティ
〜 を得ていた。
『さすらい』 の興行成績が芳しくなく、新作の製作資金集めに難航。この間、アルベルト・ラットゥアーダ監督の 『テンペスト』
(1958年)
の助監督を務めた。
・『情事』
(1960年)
でカンヌ国際映画祭の審査員特別賞を受賞。倦怠期にあるカップルが友人を誘ってヨット旅行に出立するが、女が忽然と姿を消してしまう。女を捜索しているうちに、男と友人(女性)の間に愛が芽生えて…。
アントニオーニ監督が国際的な名声を得た作品。
『情事』 ガブリエル・フェルゼッティ と モニカ・ヴィッティ
撮影時。モニカ・ヴィッティと
カンヌ国際映画祭
(1960年) にて
モニカ・ヴィッティ(左)、レア・マッセリ(右)と
モニカ・ヴィッティと
・『夜』
(1961年)
でベルリン国際映画祭の金熊賞を受賞。お互いに愛の冷めた中年の夫婦。妻は心の空洞を埋めることが出来ない。夫婦に夜明けは訪れるのか…。
『夜』
ジャンヌ・モロー
と
マルチェロ・マストロヤンニ
撮影時。左から、ジャンヌ・モロー、アントニオーニ監督、
マルチェロ・マストロヤンニ、モニカ・ヴィッティ
・『太陽はひとりぼっち』
(1962年)
で カンヌ国際映画祭の審査員特別賞を受賞。婚約者に別れを告げた女は、友人たちとふざけ合い、新しいボーイフレンドとアバンチュールにふけるが、空虚な心は満たされない…。原題は 「日蝕」。‟愛する” という感情を蝕まれた女を独特の映像で捉えた。
『太陽はひとりぼっち』
アラン・ドロン
と モニカ・ヴィッティ
撮影時。アラン・ドロン(中央)、モニカ・ヴィッティと
・『情事』、『夜』、『太陽はひとりぼっち』 は、
‟愛の不毛3部作”
呼ばれようになった。日本では3作とも1962年
(昭和37年)
に公開され、揃ってキネマ旬報ベスト・テン入り。イタリアの巨匠の1人として認知され、未公開だった旧作の 『女ともだち』 も劇場公開
(1964年)
された。
*
キネマ旬報ベスト・テン … 第4位 『情事』、第5位 『太陽はひとりぼっち』、第8位 『夜』
・『赤い砂漠』
(1964年)
でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受賞。交通事故によるショックからノイローゼとなった人妻の不安と孤独を描いた。
『赤い砂漠』 モニカ・ヴィッティ と リチャード・ハリス
撮影時。モニカ・ヴィッティと
ヴェネツィア国際映画祭 (1964年) にて
モニカ・ヴィッティと
・『欲望』
(1966年)
は、アントニオーニ監督が新境地を開拓したと言われているサスペンス・タッチの作品。従来よりもエンターテインメント性を追及しているが、そこはアントニオーニ監 督、一筋縄ではいかない作品となっている。イギリスで撮影された英語の作品。
『欲望』 デヴィッド・ヘミングス と ヴァネッサ・レッドグレイヴ
撮影時。
デヴィッド・ヘミングス(左)、
ヴァネッサ・レッドグレイヴと
・『欲望』 には、ロックの3大ギタリストと言われているエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジを輩出した伝説のバンド ‟ヤードバーズ” がゲスト出演し、ジャズのハービー・ハンコックが映画音楽を担当。洋楽ファンからも注目された。
⇐
ヤードバーズ (ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ) の出演シーン
・『欲望』 でカンヌ国際映画祭のパルム・ドール大賞を受賞。
アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
監督に次いで、3大映画祭の大賞制覇という偉業を達成した。『欲望』 はアカデミー賞の監督賞、脚本賞の候補となり、第1回全米映画批評家協会賞の作品賞と監督賞も受賞した。
カンヌ国際映画祭(1966年)にて
モニカ・ヴィッティ(左)、ヴァネッサ・レッドグレイヴと
右から時計回りに、モニカ・ヴィッティ、カルロ・ポンティ (製作者)、
ヴァネッサ・レッドグレイヴ、アントニオーニ監督
・ 『欲望』 を撮った後、ハリウッドのプロデューサーから、ミア・ファロー主演 『ピーター・パン』 の監督のオファーを受け、なぜ自分が指名されたのか理解に苦しんだという。大金を積まれても断った事に、アントニオーニ監督の人となりが窺い知れる。監督 曰く、相手のプロデューサーは、なぜ断られたのか理解していなかったようだった、とのこと。
… 何とも
不毛な
会談だった、というエピソード。
・アメリカで 『砂丘』
(1970年)
、中国でドキュメンタリー 『中国』
(1972年)
を監督。
『砂丘』 撮影時
『中国』 撮影時。左端がアントニオーニ監督
・劇映画としては5年ぶりの 『さすらいの二人』
(1975年)
はカンヌ国際映画祭に出品されたが無冠に終わった。
『さすらいの二人』 マリア・シュナイダー と ジャック・ニコルソン
撮影時。ジャック・ニコルソン(右)と
・アントニオーニ作品は難解、風変りなため一般的には大受けしなかった。『欲望』、『砂丘』、『さすらいの二人』
の3作は、イタリアの大物プロデューサー、カルロ・ポンティが製作資金をバックアップした。
・日本では未公開の 『
Il mistero di oberwald
』
(1980年)
は、ジャン・コクトーの戯曲 「双頭の鷲」 をベースにしたミステリー作品で、1968年に破局したモニカ・ヴィッティがヒロインに起用された。
『ある女の存在証明』
(1982年)
がカンヌ国際映画祭の35周年記念賞を受賞。
『
Il mistero di oberwald
』 モニカ・ヴィッティ
『ある女の存在証明』 トマス・ミリアン と ダニエラ・シルヴェリオ
・1983年、ヴェネツィア国際映画祭の栄誉金獅子賞を受賞。
・1985年、脳卒中で倒れ、映画監督としての復帰は絶望視される。
・1986年、エンリカ・フィコと再婚。ドキュメンタリー 『中国』
(1972年)
で助監督を務めた頃からアントニオーニ監督のパートナーとなり、『ある女の存在証明』
(1982年)
には脇役で出演もした女性。右半身が麻痺し、言語障害も残ったアントニオーニ監督の晩年を支え続けた。
・1994年、アカデミー賞の名誉賞を受賞。
「視覚的な分野での名匠としての業績」に対して贈られた。
(右の写真) プレゼンターを務めたジャック・ニコルソン(左)と
・ヴィム・ヴェンダーズ監督やエンリカ夫人の協力を得て、13年ぶりの新作 『愛のめぐりあい』
(1995年)
を監督。アントニオーニ監督の短編小説集 「あのテベレ川のボーリング」
(1983年出版)
の中の4話を元にしたオムニバス映画。ヴェネツィア国際映画祭の国際批評家連盟賞を受賞した。
『愛のめぐりあい』 ジャンヌ・モロー と マルチェロ・マストロヤンニ
撮影時。ジョン・マルコヴィッチ(中央)、ソフィー・マルソーと
・全3話のオムニバス映画 『愛の神、エロス』
の第3話 「エロスの誘惑〜危険な道筋」
(2004年)
が遺作となった。
・
2007年
、
94歳
で他界。
イングマール・ベルイマン
監督と同じ日に亡くなった。
(左の写真) 妻のエンリカ、ヴィム・ヴェンダーズ監督(右)と
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