20世紀・シネマ・パラダイス

Megaphonebar
Marcel Carne

マルセル・カルネ

Marcel Carne

1906-1996 (フランス)

Megaphonrbar


   代表作

Le_quai_des_brumes-2
Les_Visiteurs_du_Soir
霧の波止場
Le Quai des Brumes

(1938年/フランス)
悪魔が夜来る
Les Visiteurs du Soir

(1942年/フランス)
Les_enfants_du_Paradis Therese Raquin
天井桟敷の人々
Les Enfants du Paradis
(1945年/フランス)
嘆きのテレーズ
Therese Raquin

(1952年/フランス)


    フランス映画不滅の名作『天井桟敷の人々』を監督

 ・1906年、パリ生れ。高級家具職人だった父親の後を継ぐため、職業技術学校へ進学したが挫折。保険会社などで働きながら、写真・映画の学校に通い始めた。

 ・1928年、ある晩餐会で、女優のフランソワーズ・ロゼーの隣となったことがきっかけで映画界入り。ロゼーの夫、ジャック・フェデー監督の『Les Nouveaux Messieurs(1928年)で撮影助手を務めた。
 (右の写真)マルセル・カルネ (下)とジャック・フェデー(左)

 ・撮影助手として働く傍ら、1929年から1933年まで、映画雑誌の編集にも携わっていた。
Feyder_Carne-2

Marcel Carne-2  ・短編ドキュメンタリー『Nogent, Eldorado du dimanche(1929年)を自主製作。同作品を観たルネ・クレール監督に認められ、同監督の 『巴里の屋根の下』(1930年)で助監督に。以後、フェデー監督の『外人部隊』、『ミモザ館』(1934年)『女だけの都』(1935年)等で助監督を務めた。
 (左の写真) 左から、アルベール・プレジャン、
 フェデー、カルネ、ロゼー

 ・『ジェニイの家』(1936年)で本格的な監督デビュー。
 フェデー監督が『鎧なき騎士』の監督としてイギリスに招かれて不在だったため、主役のロゼーが監督としてカルネを推薦したのだった。
 (右の写真)『ジェニイの家』
 フランソワーズ・ロゼー(左)とシャルル・ヴァネル
Jenny

with_Jacques_Prevert-2
 ・『ジェニイの家』の脚本を書いたジャック・プレヴェールとは、その後も、『霧の波止場』、『悪魔が夜来る』、『天井桟敷の人々』等で組んだ名コンビだった。
 プレヴェールは詩人、童話作家としても活躍。シャンソンの名曲「枯葉」の作詞家としても知られている。
 (左の写真)カルネ(右)とプレヴェール

 ・3作目の『霧の波止場』(1938年)で、ヴェネチア国際映画祭の監督賞を受賞。フランス映画界を代表する監督の仲間入りを果たした。
Le_quai_des_brumes
Le_Quai_des_Brumes-3
『霧の波止場』(1938年)
ジャン・ギャバンミシェル・モルガン

撮影時。カルネ監督(後列左から3番目)
ジャン・ギャバン、ミシェル・モルガン(前列)


Hote_du_Nord Le_jour_se_leve-2
『北ホテル』(1938年)
アナベラルイ・ジューベ
『陽は昇る』(1939年)
ジャン・ギャバン、アルレッティ


 ・第2次世界大戦中、フランスがナチス・ドイツに占領され、多くの映画人がアメリカに逃避したが、カルネ監督はフランスに留まり、『悪魔が夜来る』(1942年)を発表。悪魔をナチス、愛し合う男女をフランス人の良心にたとえ、反ナチスの反骨心を示した。
Les_Visiteurs_du_Soir-2 Les_Visiteurs_du_Soir-3
『悪魔が夜来る』(1942年)
ジュール・ベリー
撮影時。左から、カルネ監督、
マリー・デア、ジャック・プレヴェール


 ・『悪魔が夜来る』を完成させたカルネ監督は、非占領地の南フランスのニースで、大作『天井桟敷の人々』の製作に着手。完成までに3年近くも費やし、パリ解放後の1945年に公開された。
 当時のフランス映画人の威信をかけた作品は、フランス国内のみならず、世界中の映画ファンを熱狂させた。
 (右の写真)『天井桟敷の人々』
 ジャン・ルイ・バロー、アルレッティ

Les_enfants_du_Paradis-2
Les_enfants_du_Paradis-3
 ・同作品は、フランス映画芸術アカデミーが、1979年に「映画史上のベストテン」を選出した際、見事第1位に。
 日本でも、キネマ旬報社が1980年に選定した「外国映画史上ベストテン」で第1位になるなど、フランス映画の金字塔的作品となっている。カルネ監督の名は不滅のものとなった。
 (左の写真)撮影時のカルネ監督(帽子の男)

 ・戦後も、『港のマリィ』(1949年)、『愛人ジュリエット』(1950年)『嘆きのテレーズ』(1953年)、『われら巴里っ子』(1954年) 等を監督。
La_Marie_du_Port
uliette_ou_la_Clef_des_Songes
『港のマリィ』(1949年)
ジャンギャン、ニコール・クールセル

『愛人ジュリエット』(1950年)
ジェラール・フィリップ、スザンヌ・クルーティエ

Therese_Raquin-2
L'air_de_Paris
『嘆きのテレーズ』(1953年)
ラフ・ヴァローネ、シモーヌ・シニョレ

『われら巴里っ子』(1954年)
アルレッティ、ジャン・ギャバン


 ・中でも、エミール・ゾラの小説「テレーズ・ラカン」を現代風に脚色した『嘆きのテレーズ』は、キネマ旬報社のベストテン第1位(1954年度)に選出されるなど、高い評価を得た。
 (右の写真) 『嘆きのテレーズ』撮影時
 シモーヌ・シニョレ(左)とカルネ監督(中央)
Therese_Raquin-3

Marcel_Carne-3
 ・1971年ヴェネチア国際映画祭の栄誉金獅子賞を受賞。

 ・1978年、セザール賞の名誉賞を受賞。

 ・1989年、第1回高松宮殿下記念世界文化大賞の演劇・映像部門を受賞。
 (左の写真)『陽は昇る』(1939年)撮影時。ジャン・ギャバン(右)と

 ・1996年90歳で他界。


HOME