20世紀・シネマ・パラダ
イス
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嘆きのテレーズ
Therese Raquin
監督:マルセル・カルネ
(1953年/フランス)
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◆ 2転3転
するラストが秀逸。日本で高く評価されたマルセル・カルネ監督の傑作
病弱でマザコンの夫カミーユと、
息子を溺愛している姑のラカン夫人と暮らしているテ
レーズ。
ある日、リヨン駅で貨物点検の仕事をしていたカミーユが、イタリア人のトラック運転手ローランと
知り合い、意気投合。酒に酔い潰れ、ローマンに抱えられて帰宅した。 |
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ラカン家では、毎週決まって木曜日に友人を招いて競馬ゲームをしており、ローランも招待
された。
ローランは、テレーズが満ち足りぬ思いでいることを察した。 |
ローランは意を決してテレーズを訪ね、駆け落ちしようと訴えた。
幼い頃に両親を亡くしたテレーズは、生地店を営む叔母のラカンに引き取られて以来、病弱な従兄のカミーユを看病し、結婚させられた過去を語り、駆け落ち
は無理な相談だと応えた。 |
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競馬ゲームの木曜日。ローランは、1人で窓辺に佇んでいるテレーズに近づいた。そし
て、想い合っている2人は黙って唇を重ねた…。 |
ローランとテレーズは初めて外で密会した。10数年間、裁縫と看病と店の会計だけの生活
だったと言うテレーズに、ローランは改めて駆け落ちを迫った…。 |
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テレーズは姑の目を盗み、自宅でローランと逢びきを重ねた。ローランはカミーユに全てを打ち明け、離婚を承諾させる決心を固めた。
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2人の関係を知ったカ
ミーユは、パリの叔母の家で3日間一緒に過ごし、それでもテレーズの気持ちが変わらなければ離婚に応じると言い出した。叔母の家に軟禁するつもりでいる夫
の本心を知らず、テレーズはパリ行きを承諾した。
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テレーズとカミーユはパリ行きの汽車に乗った。後を追って来たローランとテレーズが密会し
ている所へカミーユが現れた。2人の男は取っ組み合いを始め、ローランはカミーユを車外へ突き落してしまった。自首すると言うローランをテレーズが制し
た。
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カミーユの死体が発見された。自殺か他殺か、それとも事故か。警察の捜査が始まった。息子
の死を知らされたラカン夫人は卒倒し、全身不随で口も利けない体となってしまった。
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ローランと会うと夫の死顔が甦ってくる…。テレーズはローランに
別れ話を切り出した。
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テレーズは、姑から猜疑心に満ちた目を向けられながらも彼女の世
話を見続けていた。
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そんな
ある日、汽車で同じ客室にいた復員兵が訪ねて来た。復員兵は、テレーズが警察に証言した内容が
事実
と異なることを知っており、口止料として50万フランを要求してきた。
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テレーズが頼れるのはローランしかいない。2人は再び結びつい
た。
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ローランが復員兵と対峙
したが、容易に引き下がる相手ではない。復員兵は、「金曜日までに金を用意しろ」と捨て台詞を吐き、立ち去った。
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警察の捜査の結果、カミーユは事故死との結論に至り、過失責任を
問われた鉄道会社からテ
レーズに弔慰金が支給された。そして、金曜日になり、復員兵が金を取りにやって来た…。
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◆ 主な出演者など
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・テレーズ役 … シモーヌ・シニョレ
・ローラン役
… ラフ・ヴァローネ
・カミーユ役
… ジャック・デュビー
・姑のラカン夫人役
… シルヴィー
・復員
兵役 … ローラン・ルザッフル |
・原作は、自然主義の文豪エミール・ゾラが1867年に発表した小説「テレーズ・ラカ
ン」。サイレント期の1915年と1928年(監督:ジャッ
ク・フェデー)に映画化されており、物語の舞台を20世紀にアレンジした本作は3度目の映画化作
品。
(右の写真)『テレーズ・ラカン』(1928年)。オリジナル・ストーリーでは、夫のカミーユはボートの転落を装って
殺害された。
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・
原作では、結婚したテレーズとローランが、殺害したカミーユの亡霊(幻覚)に悩まされ、新たな悲劇に見舞われる…という展開だが、本作では原作には登場し
ていない第3者(復員兵)が加えられた。従って、2転、3転するラストはマルセル・カルネ監督が脚色した独自のストーリーである。
(左の写真)撮影時。左から、シモーヌ・シニョレ、ラフ・ヴァローネ、マルセル・カルネ監督 |
・ヴェネツィア国際映画祭に出品され、銀獅子賞を受賞。この年は金獅子賞が該当作品なしと
され、本作の他、『雨月物語』(日本/監督:溝口健二)、『赤い風車』(イ
ギリス/監督:ジョン・ヒューストン)等、合計6作品に銀獅子賞が贈られ
た。
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◆ ピック・アップ … ラフ・ヴァローネ
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Raf Vallone
1916-2002 (イタリア)
・1916年、イタリアのトロペーアで生れ、子供の頃にトリノに引っ越した。若い頃はサッカー選手として活躍。ユース・チームを経て、ト
リノFCに昇格したセリアAでのデビュー・シーズン(1934〜1935年)には、チームがコッパ・イタ
リアで優勝するのに貢献した。
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・1941年、サッカー選手を引退し、スポーツ新聞の記者となった。翌1942年、アリダ・ヴァリ主
演の『われら生きるもの』(1942年)に
端役で出演したが、俳優になるつもりはなく、ジャーナリストとしての仕事を続けていたが、ジュゼッペ・デ・サンティス監督にスカウトされて『にがい米』(1949年)に出演。
作品が大ヒットし、俳優となる決心をした。 |
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