20世紀・シネマ・パラダ イス

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Steve_McQueen

スティーブ・マックイーン

Steve McQueen

 
1930-1980 (アメリカ )

 

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     代表作
 
The_Magnificent_Seven  荒野の七人
 The Magnificent Seven
 (1960年/アメリカ)
The_Great_Escape
 大脱走
  The Great Escape
  (1963年/アメリカ)
The_Sand_Pebbles
 砲艦サンパブロ
 The Sand Pebbles
 (1966年/アメリカ)
Bullitt
 ブリット
 Bullitt
 (1968年/アメリカ)
Le_Mans
 栄光のル・マン
 Le Mans
 (1971年/アメリカ)
The_Getaway
 ゲッタウェイ
 The Getaway
 (1972年/アメリカ)
Papillon
 パピヨン
 Papillon
 (1973年/アメリカ)
The_Towering_Inferno
 タワーリング・インフェルノ
 The Towering Inferno
 (1974年/アメリカ)

     ◆  1960〜1970年代の銀幕を駆け抜けた不屈のアクション・ヒーロー

 ・1930年、インディアナ州生れ。本名は Terence Steven McQueen 。生後6ヶ月の時に両親が離婚し、3歳から8歳まで母方の伯父が営むミズーリ州の農場で育てられた。8歳、12歳の時に母親が再婚、再々婚したが、どちらの継父とも馴染めず、非行に走るようになった。

 ・14歳の時にタイヤのホイールを盗んで警察に捕まり、両親によって、私立の全寮制の男子校 Boys Republic (カリフォルニア州) に入れられた。
 不良少年たちを更生するための同校で約2年過ごし、卒業時には模範生になっていた。
 スターとなってから同校を定期的に慰問し、優等生のための奨学金制度も作った。また、映画出演料の一部として少年たちの衣服等を要求してもいたという。
 (右の写真) Boys Republic を慰問した時のマックイーン(右から2番目)
Boys_Republic

USMC
 ・Boys Republic 卒業後、暫らくは職を転々としながら漂流生活を送っていたが、1947年に海兵隊に入隊。無断でガールフレンドの家に2週間も宿泊したかどで、41日間も営倉にぶち込まれたこともあったが、その後は規律を守り、1950年に名誉除隊した。
 (左の写真) 海兵隊時代のマックイーン (中央)

 ・海兵隊を除隊後、ニューヨークでタクシーの運転手などをしていたが、ガールフレンドの勧めもあり、G.I法の恩給
を受けて、ネイバーフッド・プレイハウスで演技を学び始めた。
 また、週末にはオートバイのレースに参加し、賞金を稼いでもいた。
 オフ・ブロードウェイの舞台を経て、ブロードウェイ劇 「夜を逃れて」 (1955年〜)で主役のベン・ギャザラの代役を務め、後任として出演もした (1956年)。 
 (右の写真) ブロードウェイ劇 「夜を逃れて」。
  ヴィヴィアン・ブレイン、フランク・シルヴェラ(右)と

A_Hatful_of_Rain

Neile_Adams  ・1956年、フィリピンからの移民で女優のニール・アダムスと結婚。
 TV番組 「ヒッチコック劇場」 で共演(1960年) もした。
 長女、長男を授かったが1972年に離婚した。
 (左の写真) 最初の妻ニール・アダムスと

 ・B級映画 『Girl on the Run (1953年) の端役で銀幕デビュー。ポール・ニューマン主演の 『傷だらけの栄光』 (1956年/監督:ロバート・ワイズ) やTVドラマに端役で出演していたが、ブロードウェイ劇 「夜を逃れて」 の公演が終了すると、映画の仕事を求めてハリウッドへ移った。
Girl_on_the_Run
Somebody_Up_There_Likes_Me
Girl on the Run (1953年) 右の白シャツがマックイーン
『傷だらけの栄光』 ポール・ニューマン(右)と

 ・ジョン・ドリュー・バリモア (ドリュー・バリモアの父親)主演の 『ニューヨークの顔役』 (1958年) で銀幕に初めて名前がクレジットされ、次作のB級SF映画 『マックイーンの絶対の危機 (人喰いアメーバの恐怖)』(1958年) で初めて主役を務めた。日本ではマックイーンの人気にあやかって1965年に劇場公開された。
Never_Love_a_Stranger
The_Blob
ニューヨークの顔役』 (1958年)
ジョン・ドリュー・バリモア(左)と
『マックイーンの絶対の危機』(1958年)

 ・賞金稼ぎに扮したTVドラマ 『拳銃無宿 (原題:Wanted Dead or Alive )』 (1958年〜1961年) で人気に火が付いた。
 日本でもTV放映 (1959年〜1961年) された。
 (右の写真) TV 『拳銃無宿』
Wanted_Dead_or_Alive

The_Great_St._Louis_Bank_Robbery
Never_So_Few
『セントルイス銀行強盗』 (1959年)
『戦雲』 (1959年/監督:ジョン・スタージェス
フランク・シナトラ(左から2番目) とマックイーン(右端)


The_Magnificen_Seven  ・初のメジャー作品、フランク・シナトラ主演の 『戦雲』 (1959年) でジョン・スタージェス監督に認められ、同監督の 『荒野の七人』 (1960年) に出演。とにかく目立とうとして主役のユル・ブリンナーを怒らせていたという。お茶の間のスターから銀幕のスターへの出世作となった。
 (左の写真) 『荒野の七人』 (1960年)  ユル・ブリンナー(右)と

The_Honeymoon_Machine Hell_Is_for_Heroes The_War_Lover
『ガールハント』 (1961年)
 ブリジット・バズレンと
『突撃隊』 (1962年/監督:ドン・シーゲル) 『戦う翼』 (1962年)

 ・ジョン・スタージェス監督との3作目 『大脱走』 (1963年)でアクション・スターとしての地位を確たるものとした。
 『マンハッタン物語』 (1963年/監督:ロバート・マリガン)でゴールデン・グローブ賞の主演男優賞 (ドラマ部門)にノミーネートされた。
 (右の写真)  『大脱走』
The_Great_Escape

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『雨の中の兵隊』 (1963年)
ジャッキー・グリーソン(左)と
『マンハッタン物語』 (1963年)
ナタリー・ウッド
『ハイウェイ』 (1965年)
リー・レミックと
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『シンシナティ・キッド』 (1965年) 『ネバダ・スミス』 (1966年)

 ・『砲艦サンパブロ』 (1966年/監督:ロバート・ワイズ でアカデミー賞の主演男優賞、ゴールデン・グローブ賞の主演男優賞 (ドラマ部門)にノミネート。
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『砲艦サンパブロ』  (1966年)
キャンディス・バーゲンと
『華麗なる賭け』 (1968年)
フェイ・ダナウェーと


 ・『ブリット』 (1968年/監督:ピーター・イェーツ) のカーチェイスは後の映画に多大な影響を与えた。オートバイや車のチェイス・シーンで、マックイーンほど観客を熱狂させたスターはかつていなかった。
 『華麗なる週末』 (1969年) でゴールデン・グローブ賞の主演男優賞 (ミュージカル・コメディ作品)にノミネート。
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The_Reivers
『ブリット』 (1968年)
ジャクリーン・ビセットと

『華麗なる週末』 (1969年)
ミッチ・ボーゲルと

 ・『栄光のル・マン』 (1971年) は、 モータースポーツを愛し、レースに出場もしていたマックイーンが究極のカー・レース映画を目指した作品。恩師とも言えるジョン・スタージェスが監督に起用 されたが、作品の方向性でマックイーンと対立して解任された。本作の製作過程を描いたドキュメンタリー映画  『スティーブ・マックイーン その男とル・マン』 (2015年) も製作された。
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『栄光のル・マン』 (1971年)
『栄光のライダー』 (1971年) *ドキュメンタリー
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『ジュニア・ボナー』 (1972年/監督:サム・ペキンパー)
ロバート・プレストン(右)と

『ゲッタウェイ』 (1972年/監督:サム・ペキンパー)
アリ・マッグローと

Ali_MacGraw  ・1973年、『ゲッタウェイ』 で共演したアリ・マッグローと再婚したが、1978年に離婚した。
 (左の写真) アリ・マッグローと

 ・『パピヨン』 (1973年/監督:フランクリン・J・シャフナー) で実在の脱獄囚を演じてゴールデン・グローブ賞の主演男優賞 (
ドラマ部門)
にノミネート。大作パニック映画 『タワーリング・インフェルノ』 (1974年) では、18年前の 『傷だらけの栄光』 (1956年) で主役とエキストラの差があったポール・ニューマンと同格に扱われた。
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『パピヨン』 (1973年)
『タワーリング・インフェルノ』 (1974年)
ポール・ニューマン(右)と

 ・ 人気のバロメーター、ドル箱 (マネー・メイキング)スター・ベストテンには、1967年に第10位で初登場。以後、68年(第7位)、69年(第3位)、70年(第3位)、71年(第4位)、72年(第8位)、73年(第3位)、74年(第5位)、75年(第9位)、と9年連続でランクインした。

 ・人気絶頂の最中、暫らく銀幕から遠ざかり、ファンをやきもきさせた。4年ぶりの新作 『民衆の敵』 (1978年) で演技派への脱皮を試みたが興行的に惨敗した。日本での公開は1983年。
 (右の写真) 『民衆の敵』 ビビ・アンデショーン
An_Enemy_of_the_People

 ・西部開拓時代の賞金稼ぎに扮した 『トム・ホーン』 (1980年)、現代の賞金稼ぎに扮した 『ハンター』 (1980年) でファンが待ち望んでいた勇姿を復活させたが、『ハンター』 が遺作となった。
Tom_Horn
The_Hunter
『トム・ホーン』 (1980年)
『ハンター』 (1980年)

Barbara_Minty  ・1980年1月、モデルのバーバラ・ミンティと3度目の結婚。マックイーンの最期の数ヵ月を支えた彼女は、その後再婚もせず、2006年に著書 「Steve McQueen - The Last Mile 」 を出版している。
 (左の写真) バーバラ・ミンティと

 ・『ハンター』 の撮影後、末期癌に冒されていることが判明。アメリカの医師団からお手上げだと宣言され、メキシコでかなりいかがわしい治療を受けたりもしたという。
 1980年50歳で他界。遺灰は太平洋に撒かれた。

 ・アメリカではアクション俳優として最大級の尊称 ‟The King of Cool ” と呼ばれた。日本でも高い人気を誇り、特に同性の若いファン、映画少年、映画青年たちから絶大な支持を得たアクション・ヒーローだった。
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< スティーブ・マックイーン写真館 >

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