20世紀・シネマ・パラダ
イス
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フランク・シナトラ
Frank Sinatra
1915-1998 (アメリカ)
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◆ 代表作
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錨を上げて
Anchors Aweigh
(1945年/アメリカ) |
踊る大紐育
On the Town
(1949年/アメリカ) |
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地上より永遠に
From Here to Eternity
(1953年/アメリカ) |
黄金の腕
The Man with the Golden Arm
(1955年/アメリカ)
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オーシャンと十一人の仲間
Ocean's Eleven
(1960年/アメリカ)
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影なき狙撃者
The Manchurian Candidate
(1962年/アメリカ)
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◆ 俳優としても活躍した超大物歌手
・1915年、ニュージャージー州生れ。両親ともイタリアからの移民。 |
・20歳の時に地元のボーカル・カルテット「ホーボーケン・フォー」の一員としてデビュー。その後、当時人気のビッグ・バンド「ハリー・ジェイムズ楽団」(1939年〜)、「トミー・ドーシー楽団」(1940年〜)の一員としてキャリアを積み、1942年にソロ・デビューした時には全米でトップ・クラスの人気歌手となっていた。
(右の写真)「ホーボーケン・フォー」時代のシナトラ (後)
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・「トミー・ドーシー楽団」として映画に出演したことがあったが、ソロ歌手となってから本格的に映画界にも進出した。
‟シナトラマニア”と呼ばれた熱狂的な若い女性ファンたちを持つ彼の人気に目をつけたRKO社で、『どんどん高く』(1943年)、『芸人ホテル』(1944年)に出演したが、演技がぎこちなく、批評家から酷評された。
(左の写真)『芸人ホテル』 アン・ジェフリーズと
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・MGM社で、売り出し中のジーン・ケリーと共演した『錨を上げて』(1945年)が大ヒット。シナトラの出演作で初めて成功した作品で、同作の姉妹的な作品『踊る大紐育』(1949年)も大ヒットした。しかし、シナトラの人気は1940年代後半から下降の一途を辿っていた。
(右の写真)『錨を上げて』 ジーン・ケリー(左)と
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『私を野球につれてって』(1949年)
ジーン・ケリー(右)と
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『踊る大紐育』(1949年)
ジュールス・マンシン(中央)、ジーン・ケリー(右)と |
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・私生活では、1939年に結婚して3人の子供を授かっていたが、1951年に離婚。同年、女優のエヴァ・ガードナーと再婚 したが、彼の浮気癖がたたって、1957年に離婚した。
(左の写真)2番目の妻エヴァ・ガードナーと |
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・落ち目となっていたシナトラは、乾坤一擲、非ミュージカル作品『地上より永遠に』(1953年/監督:フレッド・ジンネマン)で、助演クラスながらも観客に訴える役どころに挑んだ。前年、主役を務めたミュージカル映画『ダニー・ウィルソンに会ってくれ』(1952年)の出演料は25,000ドルだったが、『地上より永遠に』には8,000ドルで出演した。
(右の写真)『地上より永遠に』 モンゴメリー・クリフト(左)と
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・『地上より永遠に』でアカデミー賞助演男優賞を受賞。シナトラがこの役を得るためにマフィアの手を借りたという話は、後に『ゴッドファーザー』(1972年/監督:フランシス・フォード・コッポラ)で
描かれ、彼のキャリアを語る上で欠かせないエピソードとなった。シナトラは、当時のマフィアの資金源のひとつだった「カジノの都」ラスベガスでのショーに
も度々出演するなど、マフィアとは蜜月関係にあり、業界内では公然の秘密だったが、世間一般にはあまり知られていなかった。
(左の写真)助演女優賞を受賞したドナ・リードと |
・『地上より永遠に』への出演が起死回生となったシナトラは、数々のヒット曲を飛ばし、アメリカを代表する歌手の一人となった。麻薬中毒に苦しむ賭博トランプの天才ディーラーを演じた『黄金の腕』(1955年/監督:オットー・プレミンジャー)でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされるなど、俳優としての活躍も続いた。
(右の写真)『黄金の腕』 キム・ノヴァクと
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『野郎どもと女たち』 (1955年)
ヴィヴィアン・ブレインと |
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・『夜の豹』(1957年)でゴールデン・グローブ賞の主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞。『抱擁』(1957年)でシナトラが歌った「オール・ザ・ウェイ 」、『波も涙も暖かい』(1959年/監督:フランク・キャプラ)で歌った「ハイ・ホープス」はアカデミー賞歌曲賞を受賞した(受賞対象者は作詞家、作曲家)。
(左の写真)『夜の豹』 キム・ノヴァク(左)、リタ・ヘイワース(右)と |
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『抱擁』(1957年)
ミッチー・ゲイナーと |
『波も涙も暖かい』(1959年)
エディ・ホッジス、エリノア・パーカーと
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「シナトラ一家」 = 「Rat Pack」
・大ヒットした『オーシャンと十一人の仲間』(1960年/監督:ルイス・マイルストーン)や『荒野の3軍曹』(1962年)に揃って出演した5人、シナトラ、ディーン・マーティン、ピーター・ローフォード、ジョーイ・ビショップ、サミー・デイヴィス・Jr(左の写真:左から時計回りに)は、日本では「シナトラ一家」、本国アメリカでは「Rat Pack」と呼ばれた。 |
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・元々は、ハンフリー・ボガートを中心とした遊び仲間だった。ある日、彼等がラスベガスで遊び呆けて帰宅した際、ローレン・バコールが「You Look Like a Goddamn Rat Pack」 = 「あなたたちは忌々しいネズミの群れのようだ」と言ったのが、Rat Pack の呼称の始まりだとされている。
(左の写真)ハンフリー・ボガート(左)、ローレン・バコール夫妻と |
・ハンフリー・ボガートが亡くなった(1957年)後、シナトラとバコールの交際が報じられたこともあった。
(右の写真)ローレン・バコールと |
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| 偉大な歌手として ・1961年に自身のレーベル「リプリーズ・レコード」を設立。1959年に始まったグラミー賞では30回以上ノミネートされ、13回受賞(非コンペ部門を含む)した。日本で最も有名な「マイ・ウェイ」は最優秀コンテンポラリー・ヴォーカル・パフォーマンス賞(1970年)にノミネートされたが、受賞は逃した。 (左の写真)『影なき狙撃者』(1962年) ローレンス・ハーヴェイ(右)と
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1960年 |
最優秀アルバム賞 |
『Come Dance with Me 』 |
1966年 |
最優秀アルバム賞 |
『September of My Years 』 |
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生涯功労賞 |
* ビング・クロスビーに次いで2人目 |
1967年 |
最優秀アルバム賞 |
『A Man and His Music 』 |
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最優秀レコード賞 |
「夜のストレンジャー」 |
1979年 |
理事会賞 |
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1995年 |
グラミー殿堂賞 |
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・1966年、29歳年下の女優のミア・ファローと再婚。前妻のエヴァ・ガードナーは、「女に飽きて、少年と結婚をするのよ」と皮肉った。2年後に離婚し、シナトラは1976年に4度目の結婚をした。
(右の写真)3番目の妻ミア・ファローと
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・第35回(1962年度)アカデミー賞授賞式では司会を務め、日米合作の『勇者のみ』(1965年)では監督も務める等、精力的に活動していたが、1971年に引退を発表。同年、アカデミー賞のジーン・ハーショルト友愛賞、ゴールデン・グローブ賞のセシル・B・デミル賞を受賞した。
(左の写真)アカデミー賞授賞式にて
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・1973年、芸能活動に復帰。「ショー・ビジネス界のボス」として活躍したが、映画出演は僅かであり、『キャノンボール2』(1983年)にカメオ出演したのが最後となった。
(右の写真)『キャノンボール2』出演時。左から、バート・レイノルズ、ディーン・マーティン、シャーリー・マクレーン、サミー・デイヴィス・Jr.、シナトラ
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| 黒歴史
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「シナトラ一家」
のピーター・ローフォードがジョン・F・ケネディの義理の弟だったこともあり、1960年の大統領選では、マフィアとのコネも活用して大々的に選挙協
力。ケネディ大統領誕生に多大な貢献をした。また、ケネディにマリリン・モンローを紹介したのもシナトラだったと言われている。
(左の写真)ジョン・F・ケネディ(右)と |
* ピーター・ローフォード … 『イースター・パレード』(1948年)、『若草物語』(1949年)等に出演。 |
・ケネディ政権下で司法長官に就任した弟のロバート・ケネディ等がマフィアとの関係を懸念し、シナトラとの交友関係も断ち切られた。シナトラは、マフィアの大幹部たちが一堂に会した「ハバナ会議」(1946年/議長:ラッキー・ルチアーノ)に出席していたことも確認されており、FBIによるシナトラの調査資料は2,400ページにものぼる。
(右の写真)ロナルド・レーガン大統領(左)より自由勲章を授かる
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・1985年、大統領自由勲章、1997年、合衆国議会名誉黄金勲章を授かる。
・1998年、82歳で他界。
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・マーティン・スコセッシ監督がシナトラの生涯を映画化しようと試みたが、遺族の同意が得られず断念したという。スコセッシ監督曰く、「シナトラという人物は複雑すぎる…」。
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