20世紀・シネマ・パラダイス

Megaphonebar
Frank Capra

フランク・キャプラ

Frank Capra

 
1897-1991(イタリア/アメリカ)

Megaphonrbar


  ◆ 代表作

Lady_for_a_Day
It_Hppened_One_Night
一日だけの淑女
Lady for a Day
 (1933年/アメリカ)
或る夜の出来事
It Happened One Night
(1934年/アメリカ)
Mr. Deeds Goes to Town
You Can't Take it with You
オペラハット
Mr. Deeds Goes to Town
(1936年/アメリカ)
我が家の楽園
You Can't Take it with You
(1938年/アメリカ)
Mr. Smith Goes to Washington
Meet John Doe
スミス都へ行く
Mr. Smith Goes to Washington
(1939年/アメリカ)
群衆
Meet John Doe
(1941年/アメリカ)
Arsenic and Old Lace
It's a Wonderful Life
毒薬と老嬢
Arsenic and Old Lace
(1944年/アメリカ)
素晴らしき哉、人生!
It's a Wonderful Life
(1946年/アメリカ)


    心温まる名作の数々 戦前のハリウッドきっての人気監督

 ・1897年、イタリアのシチリア島で、果樹園を営む両親の7人兄弟の末っ子として生れた。6歳の時に家族でロスアンゼルスへ。最も安価で劣悪なボートによる13日間の船旅は、「人生で最悪な経験の1つ」だったという。
 高校卒業まで新聞配達を続けて家計を助け、現在のカリフォルニア工科大学在籍中は、安酒場でバンジョーを弾くアルバイトなどをしていた。
 大学卒業後、陸軍に入隊したがスペイン風邪に罹り除隊。回復後、ポーカーのギャンブラーや本のセールスマンをしながら約3年間放浪生活を送った。この期間に、ハリー・ケリー主演の『ポーカー・フラットの浮浪者』(1919年/監督:ジョン・フォードにエキストラとして出演した。

 ・1921年に映画界入り。短編ドキュメンタリーを撮った後、ラドヤード・キプリングの詩を自ら脚色した短編『Fultah Fisher's Boarding House(1922年)を監督。その後、ハル・ローチ社で『ちびっ子ギャング』シリーズのギャグライター、マック・セネット・コメディーズ社で脚本家として働いた。

 ・マック・セネット・コメディーズ社からァースト・ナショナル社へ移籍した喜劇役者ハリー・ラングトンに請われ、初の長編『当たりっ子ハリー』(1926年)『初恋ハリー』(1927年)を監督し、ヒットさせた。
 
(右の写真)『当たりっ子ハリー』 ハリー・ラングトン
Harry_Langdon-2

Long_Pants
 ・ハリー・ラングトンが自ら監督もするようになり、キャプラはクローデット・コルベールの銀幕デビュー作『力漕一挺身』(1927年)を監督したが、興行的に失敗作となり、結果、ァースト・ナショナル社での最後の仕事となった。
 (左の写真)『初恋ハリー』撮影時。
 前列右から2番目がキャプラ監督。皆でラジオを聞いている。


 ・コロンビア社で『呑気な商売』(1928年)を監督。手腕を認められ、同社と専属契約。1作品当たりのギャラは1,000ドルから2,500ドルになった。
 (右の写真)コロンビア社の社長ハリー・コーン(左)と
Harry Cohn and Frank Capra

Submarine
 ・コロンビア社での6作目『サブマリン』(1928年)は、従前の5倍の予算を投入した自身初のA級作品だったが、これが大ヒット。同社初のオール・トーキー『ドノヴァン』(1928年)を監督する等、コロンビア社の最重要監督となった。
 (左の写真)『サブマリン』の宣伝活動時
 ジャック・コーン(左)、キャプラ監督(左から2番目)、
 ハリー・コーン(右)


 ・『希望の星(有閑夫人)』(1930年)のヒロインに抜擢したバーバラ・スタンウィックはキャプラ監督のお気に入りとなり、『奇蹟の処女』(1931年)、『たそがれの女』(1932年)、『風雲のチャイナ』(1933年)でもヒロインを務めた。
 (右の写真)バーバラ・スタンウィックと
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『希望の星(有閑夫人)』(1930年)撮影時
マリー・プレヴォー(左)、バーバラ・スタンウィックと
『たそがれの女』(1932年)撮影時
バーバラ・スタンウィック、アドルフ・マンジュー(右)と

 ・『一日だけの淑女』(1933年)が、アカデミー賞の作品、監督、主演女優、脚色の4部門でノミネートされた。惜しくも無冠に終わったが、キャプラ監督の出世作となった。
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『一日だけの淑女』(1933年)
ウォーレン・ウィリアム、メイ・ロブソン

『一日だけの淑女』撮影時
ウォーレン・ウィリアム(左)と

 ・『或る夜の出来事』(1934年)で、アカデミー賞の作品、監督、主演男優、主演女優、脚色賞の主要5部門制覇という快挙を達成。 20世紀中に主要5部門を制覇したのは、本作の他に、『カッコーの巣の上で』(1975年)と『羊たちの沈黙』(1991年)だけである。
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或る夜の出来事』(1934年)
クラーク・ゲーブルクローデット・コルベール

『或る夜の出来事』 撮影時
クローデット・コルベール、クラーク・ゲーブル(右)と

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 ・1935年、アカデミー協会の会長に就任。1936年の授賞式開催の危機を乗り切り、1939年まで会長を務めた。
 また、1939年から2年間、映画監督組合(現在の全米監督協会)の理事長に就任。1960年にも再選出された。
 (左の写真) オスカー像を手にするキャプラ監督

 ・『オペラハット』(1936年)で2度目のアカデミー賞監督賞を受賞。ハリウッドの2大レジェンド、クラーク・ゲーブルもゲーリー・クーパーも、キャプラ監督の作品でキャリアを飛躍させた。また、ジーン・アーサーは、コロンビア社の最初のスターとなった。
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『オペラハット』(1936年)
ジーン・アーサー、ゲーリー・クーパー

『オペラハット』撮影時
ゲーリー・クーパー(左)、ジーン・アーサーと

 ・冒険ファンタジー『失はれた地平線』(1937年)は、撮影に1年近く費やした意欲作だったが、コロンビア社史上最大の予算(当時)を回収することが出来なかった。
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Lost Horizon
『失はれた地平線』(1937年)
ロナルド・コールマン、ジェーン・ワイアット
『失はれた地平線』撮影時
ロナルド・コールマン(右)と

 ・『我が家の楽園』(1938年)でアカデミー賞の作品賞と監督賞を受賞。5年間で作品賞を2度、監督賞を3度も受賞。まさに黄金時代だった。ジェームズ・ステュアートもキャプラ監督の作品によってキャリアを飛躍させたスターの1人。
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You_Can't_Take_it_With_You-3.
『我が家の楽園』(1938年)
ジェームズ・ステュアート、ジーン・アーサー
『我が家の楽園』撮影時。右から、ライオネル・バリモア、
キャプラ、ジーン・アーサー、ジェームズ・ステュアート

 ・『スミス都へ行く』(1939年)はコロンビア社時代の最高傑作となった。アカデミー賞で作品賞など10部門でノミネートされたが、同年は『風と共に去りぬ』など強力なライバルがひしめき、受賞は原案賞のみに終わった。
 コロンビア社での最後の作品となったが、ニ流スタジオだったコロンビア社(現ソニー・ピクチャーズ社) は、キャプラ監督によって一流となった。 
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『スミス都へ行く』(1939年)
ジェームズ・ステュアート、ジーン・アーサー
『スミス都へ行く』撮影時
ジェームズ・ステュアート (左)、ジーン・アーサーと

 ・自ら映画製作会社を設立し、『群衆』(1941年)を製作・監督。ヒロイン役には、8年ぶりにバーバラ・スタンウィックが起用された。
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『群衆』(1941年)
ゲーリー・クーパー、バーバラ・スタンウィック

『群衆』撮影時
バーバラ・スタンウィック、ゲーリー・クーパー(中央)と

 ・ キャプラ監督の経歴を語る上で欠かせない人物が脚本家のロバート・リスキン。『奇蹟の処女』の原案者として初めてコラボし、その後、『或る 夜の出来事』、『オペラハット』、『我が家の楽園』、『群衆』等の脚本を執筆。『或る夜の出来事』でアカデミー賞脚色賞を受賞した。奥さんは女優のフェイ・レイ。
 (右の写真)ロバート・リスキン(左)と
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 ・ワーナー・ブラザーズ社で、ブロードウェイの大ヒット作『毒薬と老嬢』(1944年)を監督。キャプラ監督の作品では異色のブラック・コメディ。1941年に撮り終えていたが、ブロードウェイの興行終了後に公開された。
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『毒薬と老嬢』(1944年)
プリシラ・レイン、ケーリー・グラント
『毒薬と老嬢』撮影時
ケーリー・グラント(左)と

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 第2次世界大戦中は陸軍の映画班に所属し、ドキュメンタリー映画を10作近く監督。その中の1作『Prelude to War (1942年)は、アカデミー賞のドキュメンタリー映画賞を受賞した。
 (左の写真)ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長からメダルを授与されるキャプラ監督

 ・戦後、ウィリアム・ワイラージョージ・スティーブンスらとリバティ・フィルムズ社を設立し、『素晴らしき哉、人生!』(1946年)を発表。現在では、キャプラ監督の作品で人気No.1だが、公開当時は興行成績が不振で、リバティ・フィルムズ社は次作の『愛の立候補宣言』(1948年)を製作後に解散した。
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『素晴らしき哉、人生!』(1946年)
ジェームズ・ステュアート、ドナ・リード

『素晴らしき哉、人生!』撮影時
ジェームズ・ステュアート(右)と
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『愛の立候補宣言』(1948年)
キャサリン・ヘップバーンスペンサー・トレイシー

『愛の立候補宣言』撮影時
キャサリン・ヘップバーン、スペンサー・トレイシーと

 ・パラマウント社で、ビング・クロスビー主演の『恋は青空の下』(1950年)、『花婿来たる』(1951年)を製作・監督。

 ・‟赤狩り”を巡る映画監督組合内の対立に嫌気が差して、組合の理事を辞任。以後、映画界と距離を置き、TVの教育用ドキュメンタリー番組を4本監督した。

 ・8年ぶりの劇場用映画『波も涙も暖かい』(1959年)を監督。そして、自身の出世作『一日だけの淑女』をリメイクした 『ポケット一杯の幸福』(1961年)を製作・監督。最後の劇場用映画となった。
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『波も涙も暖かい』撮影時
フランク・シナトラ(左)と
『ポケット一杯の幸福』撮影時
ベティ・デイビス

 ・1982年、AFI (アメリカ映画協会)の生涯功労賞を受賞。授賞式のホストはジェームズ・ステュアートが務めた。
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Capra_AFI-2
ジェームズ・ステュアートと

Frank Capra-2  ・拝金主義にまみれた特権階級を嘲笑い、人間の素朴さ・純真さ・誠実さに光をあてたキャプラ監督。
 心温まるヒューマニズムに溢れた作風は、「キャプラスク」と呼ばれるようになり、今でも多くの人々を魅了し続けている。

 ・1991年94歳で他界。


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