20世紀・シネマ・パラダ
イス
◆ 名匠フランク・キャプラの独立後最初の作品
ある州の新聞社が政財界の大物D・B・ノート
ンによって買収され、新任の編集長ヘンリー・コネルは、大量の人員整理を敢行し
た。
コラムニストのアン・ミッチェルは、「記事にパンチが効いていない」
との理由でクビを言い渡されてしまった。ヤケクソとなったアンは、最後にデタラメの投書記事を書いて会社を後にした。
「私は失業した…。州の政策が良くないからだ…。抗議の為に、クリスマス・イヴの晩に市庁舎から飛び降り自殺をする…。差出人ジョン・ドー」 |
アンの記事はパンチが効きすぎて?大反響を呼んだ。アンはコネルに呼び出された。アンが記
事はデッ
チ上げだと告白すると、コネルは頭を抱えてしまった。
アンは、架空の人物ジョン・ドーを実在の人物に仕立て上げ、記
事の続きを掲載することを提案した。 |
アンとコネルは、失業者の中からジョン・ドーに仕立て上げる人物を選抜する面接を始めた。
すると、マイナー・リーグでピッチャーをしていたが、腕を怪我して失業中のジョン・ウィロビーが
何も知らずに面接に来ていた。見た目も誠実そうで申し分ない。アンとコネルは、ウィロビーをジョン・ドーに仕立て上げることに決めた。 |
ウィロビーは、クリスマス・イヴまでジョン・ドーを演じ、その後は町から出ていけば、腕の
手
術を受けられるという契約書にサインした。アンは復職が叶い、臨時ボーナスまで手に入れた。 |
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アン曰く、ジョン・ドーは薄汚れた失業者でなく、立派な紳士でなければならない。ウィロ
ビーはホテル住まいとなり、スーツも新調して貰った。
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ウィロビーの相棒の‟大佐”(愛称)は、
「ビルから飛び降りて世の中を救うなんて…」
と反対し、有頂天のウィロビーを戒めたが、腕を治したい一心のウィロビーは聞く耳を持たなかった。
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ジョン・ドーの撮影会。世の中に対して怒っている表情を、とのリクエストを受けたが、いい
気分のウィロビーにはそんな顔を作ることが出来ない…。
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…アン 「私が審判で、絶好球をボールと判定したら?」 ウィロビー 「今
のがボールだって? どこに目を付けているんだ!」。怒っている表情が出来上がった。
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ジョン・ドーの記事を載せた新聞は売上が倍増し、アンとコネルはノートンに呼び出された。
コネ
ルはジョ
ン・ドーの記事は終わりにするべきだと主張し、アンはジョン・ドーをラジオにも出演させるべきだと主張した。
ノートンはアンの意見を採用し、ラジオの原稿も書くと
言うアンに、3倍以上もの昇給を約束した。
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ラジオ演説の原稿が上手く書けずイラ立っているアンに、母親が亡き父親の日記を手渡して助
言をした。
「抗議や批判のスピーチには皆ウンザリしている…。真実味があって、希望を与えるものがいい…」
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ウィロビーがホテルの部屋で‟大佐”
と野球ごっこに興じていると、ノートンと対立する陣営の回し者が来て、ウィロビーをそそのかした。「ジョン・ドーがデッチ上げだとバレたら、腕が
治っても野球界には復帰出来ない…。ラジオ演説中に騙されたと白状すれば、現金で5,000ドルを支払う…」。
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ラジオ演説の日。公演会場は超満員となり、楽屋にはマスコミ関係者など大勢の人間が押し寄
せ
て来た。
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ウィロビーは、ジョン・ドーにデッチ上げられたと白状するつもりだったが、放送前にアンの
励まし
を受けて決心が揺らいだ…。
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ウィロビーは迷った末にアンが書いた原稿を呼んだ。「隣人を愛し、善意の輪を広げよ
う…」。ラジオ演説は大成功したが、ウィロビーは‟大佐”と一緒に会場から逃げ出し
た…。
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ウィロビーと‟大佐”は放浪の旅
に出た。
ジョン・ドーのラジオ演説に触発され、全米の各地に隣人との友愛を実践する「ジョン・ドー・クラブ」
が設立され、今やすっかり時の人となったウィロビーは、旅先でジョン・ドーだとバレて役所に保護されてしまった。
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通報を受けたアンとノートンがウィロビーを連れ戻しに来た。
2人はジョン・ドーとしての活動を継続するように説得したが、ウィロビーは拒んだ。
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そこへ、当地の「ジョン・ドー・クラブ」
の人々が、一言感謝を述べたいと訪ねて来た。
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人々の笑顔、感謝の言葉に触れ、ウィロビーは心が揺らいだ。そんな彼の姿を見て、‟大佐”は、これ以上つき合っていられないと立ち去ってしまった。
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ウィロビーは再びジョン・ドーを演じることとなり、アンと一緒に全米各地を公演して廻っ
た。
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ジョン・ドーは行く先々で熱烈な歓迎と支持を受け、「ジョン・ドー・クラブ」の数は全米で
2,400まで膨れ上がった。
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ある日、アンはノートンに呼び出され、来たるジョン・ドー・クラブ全国大会で、新政党
「ジョン・ドー党」の設立と、その党の総裁はノートンである旨を発表する計画を明かされた。
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ジョン・ドー・クラブ全国大会の日、ウィロビーはアンの自宅を訪ねたが、彼女はノートン宅
へ行っており不在だった。ウィロビーは彼女の母親に、アンを愛していることを告白した。
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アンの自宅を後にしたウィロビーは、コネルと出会い、食事に誘われた。コネルはノートンの
手口に嫌気がさしており、酔った勢いで、ジョン・ドー・クラブはノートンの選挙活動の道具に過ぎず、アンもその片棒を担いでいるとブチまけた。
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ウィロビーはノートン宅へ乗り込み、全国大会で真相を暴露すると宣言した。
ノートン 「お前は金で動いたニセ者だ…。邪魔をしたらクラブを叩き潰す…」
ウィロビー 「腐った考えで始まったクラブだが、今はお前達の野心よりも強大だ」
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雨の中、ジョン・ドー・クラブ全国大会の会場には15,000人もの人々が集まっ
ていた。大会が始まるや、ノートンの手下たちが、「ジョン・ドーはニセ者だ」との新聞を配り、会場は騒然となった。
ウィロビーが真相を話そうとしたが、ノートンの手下の警備員に取り押さえられてしまった。ノートンが現れ、マイクを通して群衆に訴えた。「彼は詐
欺師だ…。クラブの会費を横領した…」。
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ウィロビーが漸くマイクの前の立った時には、既にスピーカーのコードが切られていた。ノー
トンの手下たちがブーイングを始めると、会場中がブーイングの嵐となり、壇上のウィロビーには物が投げつけられた。ウィロビーは、‟大佐”に抱き抱えられながら会場から去っていった…。
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その後、全国のジョン・ドー・クラブは次々と解散。ウィロビーは‟大佐”の前からも姿を消してしまった…。
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… クリスマス・イブの晩。12時を告げる鐘が鳴り終わった時、市庁舎の屋上にウィロ
ビーが現れた。手には、「ジョン・ドー・クラブの皆様へ」と書かれた遺書を持っていた…。
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『群衆』 予告編
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◆ 主な出演者など
・フランク・キャプラ監
督が、
コロンビア社から独立し、名コンビだった脚本家のロバート・リスキンと共に設立した会社で製作した最初の作品(配給は
ワー
ナー・ブラザーズ社)だが、2人の最後のコラボともなった。
(右の写真)左から、アーヴィング・ベーコン、ジェームズ・グリースン、バーバラ・スタン
ウィック、ロバート・リスキン、フランク・キャプラ、ゲーリー・クーパー、ウォルター・ブレナン、スプリング・バイントン |
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・キャプラ監督は、主役はゲーリー・クーパーしかいないと決めていて、同監督の『オペラハット』(1936年)で
主役を務めていたクーパーは、キャプラ監督ならば、と脚本をほとんど読まずに出演を快諾したという。 |
・ヒロイン役は、オ
リヴィア・デ・ハヴィランド、アン・シェリダンも候補として挙がっていたが、最終的に、キャプラ監督のお気に入りの女優だったバーバラ・スタン
ウィッ
クが8年ぶりに同監督の作品に出演することになった。 |
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・映画のラストは4〜5パターンが準備されており、中にはジョン・ドーが自殺をしてしまう
パターンもあったという。
・アカデミー賞の脚本(原案)賞にノミネートされたが受賞は逃した。
・AFI(アメリカ映画協会)が2006年に選定した「感動のアメリカ映画ベスト100」で第49位に。
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◆ ピック・アップ … エドワード・アーノルド
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Edward Arnold
1890-1956 (アメリカ)
・1890年、ニューヨーク生まれ。17歳の時に舞台俳優となった。
・『The Misleading Lady』(1916年)で銀幕デビューし、
2年間で50本近くの映画に出演したが、1920年代は舞台を中心に活動した。
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・『O・Kアメリカ』(1932年)で
トーキー映画に初出演してからは、活動の場を映画に移し、『ダイヤモンド』(1935年)、『大自然の
凱歌』(1936年/監督:ハワード・ホークス、ウィリアム・ワイラー)等で主役を務めた。 |
・1930年代後半からは、主に助演クラスで活躍。『我が家の楽園』(1938年)でフランク・キャプラ監督のお気に入りとなり、『スミス都へ行く』 、『群衆』にも出演。 |
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『我が家の楽園』(1938年)
ライオネル・バリモア(左)と
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『スミス都へ行く』
(1939年)
ジェームズ・ステュアート(左)と
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・1940〜1942年まで映画俳優組合の代表を務め、ロサンゼルス市議会議員に立候補し
たこ
ともあったが落選。その後も、『私を野球につれてって』(1949年)、『アニーよ銃をとれ』(1950年)、遺作となった『Miami Expose』(1956
年)等、数多くの映画に出演した。
・1956年、66歳で他界。
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