20世紀・シネマ・パラダイス

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Gary Cooper

ゲーリー・クーパー

Gary Cooper

1901-1961 (アメリカ)

 
愛称:クープ(Coop
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     代表作
 
Morocco Mr.Deeds Goes to Town
モロッコ
Morocco
(1930年/アメリカ)
オペラハット
Mr. Deeds Goes to Town
(1936年/アメリカ)
Sergent York The Pride of the Yankees
ヨーク軍曹
Sergeant York
(1941年/アメリカ)
打撃王
The Pride of the Yankees
(1942年/アメリカ)
For Whom the Bell Tolls High Noon
誰が為に鐘は鳴る
For Whom the Bell Tolls
(1943年/アメリカ)
真昼の決闘
High Noon
(1952年/アメリカ)
Friendly Persuasion Love in the Afternoon-3
友情ある説得
Friendly Persuasion
(1956年/アメリカ)
昼下りの情事
Love in the Afternoon
(1957年/アメリカ)

 
    日本で人気No.1の外国人男優

 ・1901年、モンタナ州生まれ。本名はFrank James Cooper
 両親ともイギリスからの移民。母親の意向で、9歳からの3年間は、6歳年上の兄と一緒にイギリスで教育を受けた。
  (右の写真)2歳の時のクーパー
Gary Cooper 1903

Gary Cooper Sketch  ・画家になることを夢見て、アイオワ州グリネル大学の美術部に入学したが、2年弱で退学。両親が移住していたロスアンゼルスへ移った。
 (左の写真)絵を描く若き日のクーパー。
 俳優となってからも趣味として絵を描いていた。
 狩猟、乗馬、スキー、テニス、水泳なども趣味だった。

 ・ ロスアンゼルスで新聞・雑誌にイラストや漫画を投稿したり、街頭看板を描いて生活していた時に、映画のエキストラをしていた故郷モンタナの友人に再会。そ のツテで、西部劇のエキストラを務めるようになった。高校生の時に自動車事故で足を負傷し、モンタナの牧場で療養している時に乗馬をマスターしていた。
 (右の写真)『The Thundering Herd』(1925年)
 エキストラ時代のクーパー
The_Thundering_Herd

 ・小遣い稼ぎとして始めたエキストラ稼業が続くこと1年余り。フランク・ジェームスという名の俳優が別にいたため、芸名をゲーリー・クーパーとした。

The_Winning_of_Barbara_Worth
 ・まともな役を得るために、自ら撮影したフィルムを映画会社に持ち込んだ時に、ヘンリー・キング監督の目にとまり、ロナルド・コールマン主演の『夢想の楽園』(1926年)で本格的な俳優デビューを果たした。
 (左の写真)『夢想の楽園』 ロナルド・コールマン(右)と

 ・『夢想の楽園』がヒットし、注目を集めたクーパーは、パラマウント社と契約。クララ・ボウ主演の大ヒット作『あれ』(1927年)に端役で出演し、次作の『赤ちゃん母さん』(1927年)では彼女の相手役に抜擢された。これはクララ・ボウの指名だったそうで、当時は2人の仲が噂になった。
 (右の写真)『赤ちゃん母さん』 クララ・ボウと
Chidren of Divorce

Arizona Bound-2  ・デビュー当時は演技が下手。特にラヴ・シーンが苦手だったようで、『赤ちゃん母さん』のフランク・ロイド監督が、「あの大根役者を交替させろ」と息巻いたが、パラマウント社の撮影所長が、「あの男は後ろ向きに立っているだけで女性の心を掴む」と言って、監督をなだめた、というエピソードも。
 (左の写真)初の主演西部劇 『アリゾナの天地』(1927年)
 ベティ・ジュウェルと

 ・パラマウント社の超大作で、第1回アカデミー賞作品賞を受賞した 『つばさ』(1927年)にも出演。
 僅か2〜3分の出演だったが、多くの女性ファンを獲得し、ファンレターが殺到したという。
 (右の写真)『つばさ』
 主演のチャールズ・ロジャース(左)、
 リチャード・アーレン(中央)と
Wings

The_Virginian-2
 ・自身初のトーキー『ヴァジニアン』(1929年/監督:ヴィクター・フレミング が大ヒットし、人気スターとしての地位を確立。
 クーパー本人もお気に入りの一作。
 (左の写真)『ヴァジニアン』 メリー・ブライアン、
 リチャード・アーレン(右)と

 ・『モロッコ』(1930年/監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグが世界中で大ヒット。日本では、クーパーが助演扱いだったポスターに女性ファンからの抗議が殺到し、映画会社がポスターを作り直したというエピソードも。
 日本初の字幕スーパー作品。
 (右の写真)『モロッコ』  マレーネ・ディートリッヒ
Morocco-2

City Streets  ・初めてのギャング映画『市街』(1931年/監督:ルーベン・マムーリアンでは、「悪く思うなよ」の台詞が流行語に。
 (左の写真)『市街』 シルヴィア・シドニー

 ・文豪アーネスト・ヘミングウェイの「武器よさらば」を映画化した 『戦場よさらば』(1932年/監督:フランク・ボ-ゼージで共演したヘレン・ヘイズは、「もし、クープに愛を告白されたら、私は夫を捨てることさえいとわなかった 」と述懐。
 (右の写真)『戦場よさらば』 ヘレン・ヘイズと
A Farewell to Arms

Cooper_and_Family1937  ・1933年、女優のサンドラ・ショーことヴェロニカ・バルフと結婚。ヴェロニカ夫人(愛称:ロッキー)は女優を辞めて主婦に専念した。
 1937年、一人娘のマリアを授かった。
  (左の写真)妻と娘と

 ・ソフィスティケイテッド・コメディの第一人者、エルンスト・ルビッチ監督の『生活の設計』(1933年)に出演。共演はフレドリック・マーチ
 名監督、名優との仕事で演技の幅を広げていった。
 (右の写真)『生活の設計』 ミリアム・ホプキンス
 フレドリック・マーチ(右)と
Design for Living

Now and Forever  ・『久遠の誓い』(1934年)ヘンリー・ハサウェイ監督とは、その後も6作品で組んだ。
 (左の写真)『久遠の誓い』  シャーリー・テンプル(中央)、
 キャロル・ロンバード(右)と

 ・名匠フランク・キャプラ監督の『オペラハット』(1936年)に出演。
  クーパーは、自分の体が空くまで6ケ月も撮影を延期していたキャプラ監督の期待に応える好演。初めてアカデミー賞主演男優賞の候補にもなり、人気は更に上昇した。
 (右の写真)『オペラハット』 ジーン・アーサー
Mr. Deeds Goes to Town-2

The Plainsman  ・パラマウント社の大御所セシル・B・デミル監督の大作西部劇『平原児』(1936年)では、西部開拓時代の実在のガンマン、ワイル ド・ビル・ヒコックを颯爽と演じた。
 (左の写真)『平原児』 ジーン・アーサーと

 ・1936年、全米の映画館館主による“ドル箱 (マネー・メイキング) スター・ベストテン”に第10位で初登場。以降、1957年までの22年間で18回もベストテン入り。これは、ジョン・ウェインに抜かれるまで最多記録だった。

 ・1936年、パラマウント社との契約が終了し、サミュエル・ゴールドウィンと契約。
 看板スターを横取りされたパラマウント社が提訴したが、同社の作品にも出演するということで円満に決着した。
 (右の写真)『青髭八人目の妻』  クローデット・コルベール
Bluebeard's_Eighth_Wife

Beau_Geste-2
 ・1939年には全米NO.1の高所得俳優に。同年公開された『風と共に去りぬ』『スミス都へ行く』『駅馬車』といった名作は、クーパーが主演の第1候補だった。
 まさに引く手あまた。ハリウッドを代表する人気スターとなっていた。
 (左の写真)『ボー・ジェスト』(1939年)
 レイ・ミランド(左)、ロバート・プレストン(右)と

 ・1940年代に入るとキャリアの絶頂期を迎えた。
 『西部の男』(1940年/監督:ウィリアム・ワイラー、自身初のカラー作品 『北西騎馬警官隊』(1940年/監督:セシル・B・デミル)『群衆』(1941年/監督:フランク・キャプラ) 。出演作が立て続けに大ヒット。
 (右の写真)『西部の男』  ウォルター・ブレナン(左)と
The Westerner

Sergeant York-3  ・第1次世界大戦時に活躍した実在の人物の伝記映画『ヨーク軍曹』(1941年/監督:ハワード・ホークスは、その年最大のヒット作に。
 インフレ調整後の興行成績では歴代105位(2014年現在)で、クーパーのキャリアで最大のヒット作になった。
 (左の写真) 『ヨーク軍曹』  ジョーン・レスリーと

 『ヨーク軍曹』でアカデミー賞主演男優賞を受賞。デビュー当時は大根役者呼ばわりもされたが、人気・実力を兼ね備えた名優の仲間入りも果たした。
Cooper Oscar
Cooper Oscar-2
プレゼンターのジェームズ・ステュアート
主演女優賞を受賞したジョーン・フォンテイン


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