20世紀・シネマ・パラダ イス
ゲーリー・ クーパー
Gary Cooper
1901-1961 (アメリカ)
愛称:クープ (
Coop
)
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・
『打 撃王』
(1942年/監督:
サム・ウッド
) で、ニューヨーク・ヤンキースの伝説の野球選手ルー・ゲーリックを演じ、2年連続3度目のアカデミー賞主演男優賞候補に。
(右の写真)『打撃王』
テレサ・ライト
と
・
イングリッド・バーグマ ン
と共演した
『誰が為に鐘は鳴る』
(1943年/監督:サム・ウッド)
は、この年最大のヒット作。
3年連続4度目のアカデミー賞主演男優賞候補に。
クーパー本人のお気に入りの一作。
(左の写真)『誰が為に鐘は鳴る』 イングリッド・バーグマンと
・『誰が為に鐘は鳴る』 への出演は、原作者アーネスト・ヘミングウェイの指名でもあった。
米国を代表する文豪ヘミングウェイとは、
『戦場よさらば』
(「武器よさらば」)
出演後に知り合い、以後、親友として家族ぐるみの交際をしていた。
(右の写真)左から、ロッキー夫人、ヘミングウェイ、
ヘミングウェイ夫人、クーパー
・1943年、出征中の兵士慰問活動の為、オーストラリアなど南太平洋諸国を訪問。
帰国後は全米各地の軍事病院を慰問して廻った。
(左の写真)兵士慰問の舞台に立つクーパー
女優のフィリス・ブルックス(左)、
ウーナ・メルケル(右)と
・
サミュエル・ゴールド ウィン
との契約が終了し、映画製作会社「
International Pictures
」を設立。
自身が主役の『クーパーの花婿物語』
(1944年/監督:サム・ウッド)
、『無宿者』
(1945年)
を含め、10本弱の映画を製作。
(右の写真)自らプロデューサーも務めた『無宿者』
ロレッタ・ヤング
と
・『誰が為に鐘は鳴る』のサム・ウッド監督、イングリッド・バーグマンと再び組んだ 『サラトガ本線』
(1945年)
も、人気スター同士の共演で大ヒット。
(左の写真)『サラトガ本線』 イングリッド・バーグマンと
・フリーのこの時期、名監督たちの数多くの作品に出演。
フリッツ・ラング
監督の『外套と短剣』
(1946年)
、
レオ・マッケリー
監督の『善人サム』
(1948年)
は興行的に振るわなかったが、
セ シル・B・デミル
監督との4作目『征服されざる人々』
(1947年)
は、この年最大のヒット作に。
(右の写真)『征服されざる人々』
ポー レット・ゴダード
と
・ 「
International Pictures
」 を解散・売却し、ワーナー・ブラザーズ社と契約。
・『摩天楼』
(1949年/監督:
キング・ヴィダー
)
で共演した
パトリシア・ニール
との不倫が発覚し、スキャンダルに。クーパーは夫人と別居し、2人の関係は3年近く続いた。クーパーが娘のマリアだけはどうしても手放せないことを知ったパトリシア・ニー ルが自ら身を引いたという。
(左の写真)共演2作目『燃えつきた欲望』(1950年)
パトリシア・ニールと
・ヒット作に恵まれず、し ばらく低迷。1941年から9年連続でランクインしていた“ドル箱
(マネー・メイキング)
ス ター・ベストテン”も、1950年にはランク外に。
・孤高の保安官を演じた
『真昼の決闘』
(1952 年/監督:
フレッド・ジンネマン
)
が大ヒットし、2度目のアカデミー賞主演男優賞を受賞。デビュー当時は西部劇のスターだったが、円熟期での代表作もまたウエスタンとなった。
アカデミー賞授賞式はロケのため欠席。代理人として、
ジョン・ウェイン
がオスカー像を受 け取った。
(右の写真)『真昼の決闘』
・1953年、“ドル箱スター・ベストテン”で第1位に。
幅広いジャンルの映画で主役を演じたが、最も多いのは西部劇。
『真昼の決闘』後では、『ヴェラクルス』
(1954年/監督:ロバート・アルドリッチ)
が大ヒットした。
(左の写真)『ヴェラクルス』
バート・ランカスター
と
・晩年の代表作となったのは、やはり名匠と組んだ作品。
ウィリアム・ワイラー
監督と16年ぶりに組んだ『友情ある説得』
(1956年)
は、カンヌ国際映画祭でパルムドール(大賞)を獲得。
ビリー・ワイルダー
監督と初めて組んだ
『昼下りの情事』
(1957年)
では、娘のような年齢の
オードリー・ヘップバーン
と共演。
『友情ある説得』
『昼下りの情事』 オードリー・ヘップバーンと
・1961年4月、アカデミー賞名誉賞を受賞。
クーパーは既に病床にあったため、親友の
ジェームズ・ステュアート
が代理 人としてオスカー像を受け取った。
(右の写真)最後の西部劇『縛り首の木』(1959年)
マリア・シェル
と
・
1961年5月13日
、
60歳
で他界。
最後の日、妻子に、「
すべては神の思し召しだよ
」と語ったと伝えられている。
(左の写真)
遺作『六年目の疑惑』 (1961年)
デボラ・カー
と
・クーパーにとって、母親
(当時87歳)
よりも先に逝くことと、最愛の1人娘マリア
(当時23歳)
の花嫁姿を見られなかったことが心残りであっ たはず。マリアは、クープの若い頃の夢と才能を引き継いだのか、画家となり、1966年に著名なピアニストのバイロン・ジャニスと結婚した。天国のクープも喜んでいるに違いない。
(右の写真)娘のマリアと
ゲーリー・クーパー トリビュート動画 (ナレーションは娘のマリア)
・世界中の映画ファンから愛されたゲーリー・クーパー。日本での人気はとりわけ高く、最も 早い時期からスターの人気調査をしていた雑誌「映画の友」 では、記録が残る1946年から52年まで7年連続で第1位。その後も1959年までトップ10入りを果たした。
また、「キネマ旬報社」が2000年に実施した「20世紀の映画スター・ベスト10」では、男優部門の第1位に。日本において最も人気のあった外国人男優だった。
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